北アルプスのスーパー猟師

明治から大正、現在の長野県穂高から上高地にかけてその名を轟かせた、伝説の猟師「小林喜作(こばやしきさく)」をご存じですか?

彼は大正9年(1920)、現在登山客で賑わう燕岳から槍ヶ岳までの登山道を、独力で3年がかりで切り開いた猟師です。

当時一般人で4、5日かかっていた行程をわずか1~2日で行くことができる新ルートで、その距離おおよそ20キロ。その道には「喜作新道」という名前がつけられ、彼が獲物を捌いていた山小屋は「殺生ヒュッテ」の名で今でも営業しています。

山に入るのは猟師か修行僧だったという時代から、明治期になって娯楽としての登山が根付きつつありました。

来日したイギリス人富裕層らが余暇の楽しみや鍛錬のため登山を好んだためです。その影響を受け、日本の華族や大学生ら富裕層の間にも登山が広がりました。喜作はガイド無しで歩ける道を整備すれば、一般人にも登山ブームがくるのではと期待したのです。

猟師だけが知る獣道。昼は根の堅い這松(ハイマツ)をナタで切り開き、夜になれば油紙を塗った和紙を岩と岩の間に広げ、その下で眠ったと言います。

営林署が山の木を切ることを許さなかったため、下から流木や丸太を担ぎ上げ、時には100キロ近い荷物をしょい、雇った猟師仲間や強力がその過酷さに逃げ出してしまっても、彼は黙々と仕事を続けました。

猟師としての腕前は凄まじく、生涯でしとめた熊は300頭、カモシカはおよそ2000頭。腕がいいと言われた他の猟師でさえ、熊80頭カモシカ500頭というから、恐れ入ります。

また健脚ぶりも凄まじく、吹雪で遭難者が出たときは捜索隊もろとも一人で全員助け上げたり、小屋が盛況で朝食分の食材が足りなくなった時は、その夜の内に麓から米と味噌を担いで戻ってきて、朝には米を炊いていたといいます。

喜作新道の一部行程

悲劇が呼ぶ謎と伝説

そんな喜作に、悲劇が遅いかかります。

大正11年に小屋を開業した翌年の12年3月、彼はこれを最後の猟にしようと長い山行に出かけました。その先の鹿島槍ヶ岳で吹雪に遭い、山小屋で寝ていたところ、雪崩により押しつぶされて死んでしまったのです。

しかも不運なことに、同行していた長男の一男までが一緒に死んでしまいました。

ところが同行していた他の5人の猟師が無事で、喜作と長男だけが死んだことから、地方新聞も揺るがすスキャンダルに発展しました。

「喜作は雪崩に見せかけて仲間に殺されたのでは」という説が持ち上がったのです。

彼は金勘定に賢く、猟師から毛皮を買い上げてその利ざやを得たり、獲物を狩りすぎるなどの反感をかっていたため、小屋の繁盛を目にした他の猟師から妬まれた、という疑惑です。

同行者に縄張りを異にする猟師がいたことや、生き残った一人が雪崩をかき分けて這い出てきたという証言に信憑性がないこと、雪崩が起きそうな小屋に喜作が寝るわけがないこと、彼の財布に入っているお金が少ないことなどが疑惑に拍車をかけました。

結局検証したものの確たる証拠はなく、この一件は「不運な事故」として収束します。また、喜作を妬んだ者もいるが、喜作自身は人柄も良く、たくさんの猟師から慕われてもいました。

しかし喜作の弔い中に墓が動いたとか、喜作の猟犬が引き取り手の家から逃げ出し山を彷徨っているなど、近隣の村々では喜作の死のショックがしばらく残っていました。

喜作の功績

喜作の死後、山小屋「殺生小屋」は人の手に渡り現在は「殺生ヒュッテ」として営業しています。風雨に耐えられるよう、喜作と家族が積み上げた石垣は堅牢で安心感を与えてくれます。

北鎌尾根という当時未登攀の極めて危険なルートを初めて案内したり、陸地測量部の測量官らと共に測量作業にも参加しました。

彼が作った道は、いたずらに人を遭難せしめること無く、無事に頂上へと導く絶景の登山道として、たくさんの人に愛されています。

登山道にある喜作のレリーフ

普段語られることのない、名も無き猟師が人生を賭して登山客に見せたかった風景。それを確かめに北アルプスに行ってみてはいかがでしょうか。

安曇野市公式サイト

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