(大西 康之:ジャーナリスト)

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 使い切れないほどの金を持ったらどうするか――。 

 筆者を含め大半の人間には関係のない悩みだが、起業家が後世において尊敬されるかどうかは、この一点にかかっている。ダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベルは「人の命を奪う兵器メーカーの創業者」ではなく、ノーベル賞の創設者として名を残した。鉄鋼王アンドリュー・カーネギーや石油王ジョン・ロックフェラーも大学や財団の名前が残る。資本主義の歴史が浅い日本にはそうした資本家が少ないが、存命の経営者の中でそこに最も近いのが京セラ名誉会長の稲盛和夫氏だろう。稲盛氏は京セラの創業者利得の大半を稲盛財団に投じ、社会に還元している。稲盛ファンが多い理由の一つである。

 もはや「日本のノーベル賞」と言っていいだろう。2018年11月10日、第34回「京都賞」の授賞式が国立京都国際会館で開かれた。

山中伸弥教授を救った京都賞

 京都賞は京セラ創業者の稲盛和夫氏が1984年、私財200億円を出して設立した懸賞だが、それが俄然、注目を集めているのは、この賞の受賞者が数年後にノーベル賞を受賞する確率が極めて高いからだ。今年、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑京都大学特別教授も2016年に京都賞を受賞している。世界の知性が集まる授賞式を現場からレポートする。天気は快晴。京都国際会館に正装した人々が続々と集まってくる。エントランスでは開場を待つ来場者のために裏千家の呈茶がある。京都らしい気配りだ。開場と同時に1000人を収容する大ホールはすぐ満杯になった。舞台には京都市交響楽団オーケストラが陣取り、着飾った人々とともに華やかな空気を醸し出している。

 壇上には今年の受賞者を祝福すべく、歴代の受賞者がずらりと並ぶ。今年ノーベル賞を受賞した本庶博士と、2010年に京都賞を受賞し2012年にノーベル賞を受賞した山中伸弥博士が隣り合わせで座る姿は壮観だ。

 山中氏はノーベル賞を受賞し「世界のヤマナカ」になった後も毎年、欠かさず京都賞の授賞式に参加している。「京都賞がなかったら現在の自分はない」という思いがあるからだ。厳密に言えば山中氏を救ったのは「京都賞」というより、稲盛財団が実施している「研究助成」である。同財団は京都賞と並行し、毎年50人の若手研究者を選んで100万円の助成金を出しているのだ。

 山中博士も2010年に京都賞を受賞する数年前に、iPS細胞研究で稲盛財団から助成金を受けている。山中氏はこの時のことを「予算が続かず研究を諦めるかどうかという時期だったので、非常にありがたかった」と振り返る。義理堅い山中氏は、それゆえ超多忙のスケジュールを縫って京都賞の授賞式に参加しているのだ。

「ノーベル賞の先行指標」となった京都賞

 本庶、山中両博士のほかにも、2014年にノーベル賞を受賞した赤崎勇博士は2009年、2016年にノーベル賞を受賞した大隅良典博士は2012年にそれぞれ京都賞を受賞している。日本人以外でもLSI(大規模集積回路)の基盤になったモノリシック半導体集積回路の概念を生み出したジャック・キルビー博士など5人が、ノーベル賞の前に京都賞を受賞している。京都賞が「ノーベル賞の先行指標」と言われる所以である。

 なぜ京都賞の受賞者がこれほどの確率でノーベル賞を受賞するのか。それは京都賞の選考プロセスが、ノーベル賞並みに厳しいからだ。京都賞審査機関は三審制になっており、国内外の推薦者が挙げた候補者を「専門委員会」「審査委員会」「京都賞委員会」という三つの委員会で絞り込む。

 先端技術部門は国際電気通信基礎技術研究所の川人光男脳情報通信総合研究所長、基礎科学部門は京都大学高等研究院の森重文院長、思想・芸術部門は武蔵野美術大学の柏木博名誉教授が審査委員長を務め、専門委員会には京大、阪大、東大の現役バリバリの教授陣が顔を揃える。これらのメンバーが一年がかりで議論を戦わせ、稲盛氏が言う「人のため、世のために役立つこと」を成し遂げた人物を選ぶのだから、ノーベル賞が「後追い」になるのも頷ける。

 定刻の午後3時、ファンファーレが鳴り、開会が告げられる。

 ファンファーレが鳴り終わると、会場の全員が起立し、京都賞を主催する稲盛財団の名誉総裁、高円宮妃久子殿下を拍手で迎える。続いて稲盛氏に先導され、3人の今年の受賞者が現れた。先端技術部門は光遺伝学を創成した神経科学者のカール・ダイセロス博士、基礎科学部門はD加群の理論を構築した数学者の柏原正樹博士、思想・芸術部門はビデオアートとパフォーマンスを融合した新しい芸術表現を確立した美術家のジョーン・ジョナス氏が選ばれた。ダイセロス氏は46歳で、最年少の受賞である。

 京都賞の賞金は今年から各部門1億円に倍増された。ノーベル賞の賞金が900万スウェーデンクローナ(約1億1600万円)だから、こちらも「ノーベル賞級」だ。

私財200億円を投じて財団を設立した稲盛氏

 入場が終わると舞台が暗転し「いよー、ポン!」と鼓の音が響き渡る。観世流・片山九郎右衛門による「嵐山」の奉祝能である。稲盛財団の井村裕夫稲盛財団会長の挨拶に続いて高円宮妃のお言葉があり、いよいよ授賞式だ。

 受賞者の業績を紹介するビデオが流れ、各部門の審査委員長が贈賞理由を説明する。光遺伝学とD加群理論はかなり難解だったが、ダイセロス博士と柏原博士はいつかノーベル賞を取るかもしれないから、名前と顔だけでも覚えておこうと思った。振袖姿の女性がメダルとディプロマを運び、舞台が華やぐ。

 授賞式が終わると、安倍晋三首相とドナルド・トランプ大統領からのメッセージが、それぞれ経済産業省政務官と在大阪・神戸アメリカ合衆国総領事によって代読され、着物を着た京都聖母学院小学校合唱団の女の子たちによる「青い地球は誰のもの」の合唱で幕を閉じた。

 午後6時15分からは隣のグランドプリンスホテル京都「プリンスホール」に場所を移し、1000人の大晩餐会である。ここで初めて稲盛氏が登場する。

「今年も高円宮妃久子殿下、各国大使、各界を代表する皆さまをお迎えし……。あっ、通訳ですね。すいません

 この辺りが朴訥な稲盛さんらしい。

「この34年の間に、受賞をされた108名と1団体の方々は皆高潔な方々ばかりであり、京都賞は私の思いをはるかに超え、真の国際賞として輝いていると思います」

 34年前、設立から25年の京セラは売上高2300億円、税引き前利益530億円の会社だった。ゼロから立ち上げたことを考えれば立派な業績だが、会社の規模で言えば中堅といったところ。稲盛氏も日本の常識で言えばトップとしては「若手」と言われる52歳だった。

 しかし「京セラが大きく発展し、自分も思いがけないほどの私財を持つようになったのは、多くの人の支援のおかげ」と考えた稲盛氏は、200億円を拠出して稲盛財団を設立し京都賞の顕彰を始めた。

 同じ1984年、稲盛氏は第二電電企画(現在のKDDI=au)を設立して通信事業に参入している。この時も「動機善なりや私心なかりしか」と自らに問い、「日本の電話料金を引き下げるための起業である」と言う理由から、第二電電の株式を持たなかった。KDDIが今日6兆2500億円に達していることを考えれば、何千億円規模の富を放棄したわけである。

 86歳の稲盛氏はまだまだ元気だが、稲盛氏がこの世を去った後も京都賞は日本を代表する国際賞として残り続けるだろうし、山中博士、本庶博士のような人類の進歩に貢献する偉大な研究者を育むことになるだろう。これほどカッコいいお金の使い方はない。

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授賞式であいさつする井村裕夫・稲盛財団会長(京都大学名誉教授) ©稲盛財団2018