先週火曜、11月13日に放送されたNHKの連続テレビ小説『まんぷく』の第38回では、ヒロインの立花福子(安藤サクラ)が、夫の萬平(長谷川博己)の経営する「たちばな製塩」の従業員たちに喜んでもらおうと慰労会を企画、そこで当時(1946年)のヒット曲「リンゴの唄」の歌詞を英訳して歌うシーンが出てきた。「リンゴの唄」はその前週、11月10日の第36回にも登場、このときは塩づくりの作業中に不平を言う従業員らに対し、萬平が歌いながらやろうと提案、自ら大声で歌い出したのだった。

ちなみに、福子が「リンゴの唄」を歌った11月13日は、奇しくもこの歌の作詞者である詩人のサトウ・ハチローが1973年に70歳で亡くなった命日であった。
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現実にも存在した「リンゴの唄」の英訳
リンゴの唄」は、1945年10月に公開された松竹映画『そよかぜ』(佐々木康監督)の挿入歌だった。先述のとおりサトウ・ハチローの作詞、万城目正の作曲によるこの歌は、劇中、主演の並木路子(当時24歳)がうたい、同年12月には翌年の正月新譜としてレコード(並木と霧島昇による録音)が発売され、戦後初のヒット曲となった。レコード発売からまもなくして1946年1月にNHKラジオで始まった『のど自慢素人音楽会』では、男女問わず出場者の多くがこの歌をうたったという。

最近刊行された永嶺重敏『「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う』(青弓社)によれば、1947年にある英語雑誌が「リンゴの唄」を“The Apple Song”と訳して掲載したことがあったという。同書には、《Let my lip approach its cheek,Just an apple's all I want》(原詞では「赤いリンゴに口びるよせて」)と始まるその訳詞が引用されているのだが、福子の訳詞が「Oh! This is a red apple.I'll caress him with my lips」とほぼ直訳だったのとくらべると、こちらのほうが本物っぽい。もっとも、福子の訳も、いきなり「Oh!」という感動詞で始まったり、リンゴを指す代名詞が「him」と男性形になっていたりと彼女なりの工夫がうかがえるのだが。

リンゴの唄」が作詞されたのは戦中か戦後か?
リンゴの唄」はこれまで、終戦直後を描いたドラマや映画、またドキュメンタリーでも、焼け跡の風景のBGMとして必ずといっていいほど使われてきた。この歌は敗戦に打ちひしがれる日本人に希望を与えた曲というイメージが強いが、それは後世の映像作品によって増幅されたところも大きいのだろう。

前出の『「リンゴの唄」の真実』は、「リンゴの唄」を“焼け跡のBGM”ではなく“焼け跡に立つ主役の一人”と捉え直し、この歌がどのようにして生まれ、人々のあいだに広まっていったのかを、新たに資料を発掘するなどして検証している。「リンゴの唄」については私も以前、ちょっと調べたことがあるだけに興味深く読んだ。ただ、ひとつだけ、「おや?」と思ったところがある。それは、サトウ・ハチローがこの歌を作詞した時期に関する記述だ。

じつは「リンゴの唄」の作詞の時期については、戦時中とする説と、戦後とする説の二つがある。このうち、ほぼ定説として伝えられるのは前者で、それというのも、ほかならぬサトウが戦時中に書いたものだとことあるごとに発言していたためだ。たとえば、並木路子は、本人から《いつ終わるかわからない戦争だから、こんなときこそ、青空を見上げる気持ちの明るい歌がなければ、というお気持ちで書かれたと》聞いたと著書に書いている(『「リンゴの唄」の昭和史』主婦と生活社)。サトウに師事した詩人の宮中雲子も、《先生から“あれは終戦直前白山(東京都文京区)の飲み屋で書いたんだ”と聞いています》と証言した(『読売新聞1991年3月31日付)。

驚いたことにサトウは、「リンゴの唄」はもともと軍歌としてつくったとも打ち明けていた。それは急死する12日前、作曲家のいずみたくと対談したラジオ番組でのこと。そこで彼は《説明しなきゃいけないが、(リンゴの歌は)戦時中に書いたんです。私は陽気な軍歌のなき国は負けると思っていた》などと話していた(『毎日新聞1996年12月18日付)。この放送を録音したテープが遺品のなかから見つかったとき、サトウの次男の佐藤四郎は、父が生前、《この歌が戦後復興の歌として人気を集めたことに「本当は違うのに」と苦笑いしていた》その意味が、くだんのテープにより裏づけられたと話している(前掲)。同じ記事によれば、「リンゴの唄」は戦時中の1943年に書かれたが、検閲に通らず、お蔵入りになったという。また別の記事では、佐藤四郎の説明として、この歌はもともとは戦時中に軍から食糧増産の曲をつくるよう命令されて生まれたとある(『日本経済新聞』2015年3月1日付)。

作詞者本人をはじめ、ここまで証言がそろうと、「リンゴの唄」は戦時中に作詞されたというのは、疑いようのない事実に思える。だが、異論もないわけではない。『そよかぜ』の監督である佐々木康は、この説に対し《そんなことはないはず》と疑問を呈し、次のように語った。

《あの映画は終戦直後の(昭和二十年)八月二十日ごろ、松竹の大船撮影所長から“とにかく一本作ってくれ”と言われ、急きょホン(台本)を書かせました。それが出来上がったのが月末。そのホンを助監督にサトウさんのところを持って行かせ、作詞を依頼しているんですから》(『読売新聞1991年3月31日付)

『「リンゴの唄」の真実』では、作詞の時期について慎重に資料を吟味しながら再検証した上で、「リンゴの唄」は《正真正銘の戦後の作品だった》とひとまず結論づけている。そこで有力な証拠として著者があげるのは、サトウ・ハチローが「リンゴの唄」がヒットするさなか、『歌謡春秋』という雑誌の1946年7月号に書いた記事だ。そこには、サトウが前年の8月21日(先の佐々木の言っていた日付とほぼ一致する)、作曲家の万城目正から映画の脚本を渡されると、そのための歌を至急つくれと言われ、《案を練ること数日(というと苦心談になるのだが)、数日間ぼんやりして、さいそくをされ、書いたのがリンゴの唄だ》と記されていた。

先にあげた彼の発言とは食い違うが、この文章は映画の公開翌年に掲載されたものであり、また万城目が作曲に際して、歌詞の1番と2番を入れ替えたという細部にわたる記述もあることから、著者は《かなり信頼してもいいのではないかと思われる》としている。

しかし、だとすればサトウはなぜ後年、「リンゴの唄」は戦時中につくったものだと話すようになったのか? これについては謎のまま残る。戦後になって映画のため作詞を依頼されたという彼自身の回想と強いて整合性をつけるなら、案を練っている最中に、戦時中に書いた歌詞のことを思い出し、それを提出したとも考えられるが、もちろん確証はない。結局のところ、サトウが戦中に残した歌詞のメモでも出てこないかぎり、この謎を解くのは難しそうだ。

なかにし礼が「残酷な歌」と感じた理由
『「リンゴの唄」の真実』ではこのほか、1945年10月に映画が公開され、年末に「リンゴの唄」のレコードが出るまでのあいだ、この歌が世に広まるのに大きく貢献したラジオ放送についてもくわしく検証されている。

それによると、ラジオでは並木路子以外の歌手によっても「リンゴの唄」が歌われていたいう。また並木のラジオ初出演は1945年11月30日であることを、NHKの放送博物館所蔵の資料から突きとめたものの、別の資料をあたると、このときは「リンゴの唄」を歌っていなかったと判明する。彼女がこの歌をラジオで初めて歌ったのはその2日後だった。あまりにも有名な曲でありながら、いままできちんとした研究がほとんどなく、ここへ来て次々と新事実が出てくることに驚かされる。

本書ではまた、一般的に希望を与えた曲と語られがちな「リンゴの唄」が、必ずしもすべての人々に肯定的に受け止められたわけでもないことも、有名・無名の人たちの文章からあきらかにされている。たとえば、当時20歳のある復員兵は、《戦争に敗けてなにが「可愛いやりんご」だ。べたべたしたその甘ったるい節まわし、聞くだけでもこっちが小馬鹿にされているようで、けったくそが悪い》と1945年11月の日記に書いていた(出典は渡辺清『砕かれた神──ある復員兵の手記 オンデマンド版』朝日選書)。ここから著者は《過酷な体験をして戦地から復員してきたばかりの青年は、「リンゴの唄」を神経を逆なでするような歌だと感じ取っている》と読み解く。

作詞家で直木賞作家のなかにし礼も、当時8歳の子供ながら「リンゴの唄」を「残酷な歌」と感じ取った。満州(現・中国東北部)で生まれた彼は、敗戦の翌年に父を亡くし、その悲しみのあまり、船で日本へ引き揚げる途上、姉と海に飛びこもうとした。すんでのところで船員に止められ、部屋に連れて行かれると、ラジオから流れる「リンゴの唄」を耳にした。これになかにしは、自分の祖国の日本人たちはもうこんな明るい歌をうたっているのかと、《おいてけぼりをくったような、仲間はずれにされたような、存在を無視されたような、悲しい想いがこみ上げて来て》、船員と姉と一緒に歌いながら泣いたという(出典はなかにし礼『翔べ!わが想いよ』東京新聞出版局)。

なかにし礼にかぎらず、外地から引き揚げたり復員する途中、船員などからこの歌を聴かされたという人は多いようだ。なかには引き揚げ船のなかで「リンゴの唄」をみんなで覚えて合唱したという体験談も残っている。

こうして見ていくと、「リンゴの唄」はさまざまな感情を呼び起こしながらも、過酷な状況にあった人々の体験と分かちがたく結びついていたことがうかがえる。『まんぷく』の福子と萬平がそうだったように、現実にも、当時の日本人の一人ひとりが「リンゴの唄」をめぐるドラマを抱えていたのではないか。そんなふうに想像を膨らませると、あらためてこの歌の力に思い至る。
(近藤正高)

永嶺重敏『「リンゴの唄」の真実 戦後初めての流行歌を追う』(青弓社)。著者は1955年生まれの出版文化・大衆文化研究者。カバー写真は並木路子が主演して「リンゴの唄」を歌った映画「そよかぜ」より