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エネルギッシュに報道の現場を飛び回っていたある日、右胸にしこりを見つけた。社会人2年目の春だった。絶望に打ちひしがれながらも、家族や医師、同僚に支えられて、日本テレビ報道局社会部記者の鈴木美穂さん(35)は、徐々に前を向けるように。闘病を経験している記者として、がんとともにありながらも、希望の持てる生き方を伝えたいと模索してきた――。

「いちばん最初は3月でした。シャワーを浴びていて、ふと右胸のしこりに気付くんです」

’06年4月、鈴木さんは日本テレビに入社。面接時からドキュメンタリー志望と伝えていた彼女だったが、希望どおり、報道局へと配属された。

入社1年目のAD時代から、自らネタを見つけては企画書を提出して、ニュース番組内での放送を実現。さらに1年後には、若手の皇室担当としてベテラン記者に交じり夜討ち朝駆けで、ハードながら充実した日々を送っていた。右胸のしこりに気づいたのは、そんな24歳の春だった。

「残念ながら、悪いものが写っていました。乳がんの可能性が高い。仕事をしている場合じゃないです」

’08年5月2日。検査結果を告げられると、母親が駆けつけるまで病院前で、体育座りで泣き続けた。

「結婚も、出産もしないまま、私は死ぬのか。健康優良児で、親族にも一人もがんはいませんでしたから、『なんで私なの?』と、かつてないほどひどく混乱しました」

女性の11人に1人がかかるといわれる乳がん。鈴木さんのがんは進行が早く、当時は再発リスクも高いといわれていた。“HER2陽性”タイプだった。「死にたくない」という一心で、最良と思える治療を求めて、病院をまわった。

セカンドピニオンならぬセブンスオピニオンで、私は7人の医師の意見を聞きました。なかには『2年後(の生存)は難しいだろう』と言う先生もいました。テレビでよく見かけるベテラン医師は、私が持参した画像を見た途端、『後輩の医師に担当させるから』と。その先生を私に紹介した先輩は、『治る見込みのある患者しか診ないということか』と憤慨していましたね」

24歳の彼女は、子どもを持ちたいと願っていたが、ほとんどの医師が「そんなことを言ってる場合じゃない。治療優先」と取り合ってくれなかった。そんななか出会ったのが、取材で懇意になった医師が紹介してくれた国際医療福祉大学三田病院・乳腺センター長の吉本賢隆先生(70・現よしもとブレストクリニック院長)だった。

「どこの病院に行っても、将来の出産を考えて、抗がん剤による生殖機能のダメージなどを軽減するホルモン治療だけは続けて」

吉本先生はこう言って、赤ちゃんを抱っこした母親の写真がびっしりと貼られた、1枚のパネルを見せてくれた。

「お母さんになった患者さんの写真を集めるのが、僕の趣味(笑)。いずれ、あなたの写真ももらうから。しっかり治療して、仕事も、結婚も、出産もしてください」

最後にはまっすぐ目を見て――。

「鈴木さん。がんだからって、幸せになることを諦めないで」

先生のこの言葉を聞いて、告知以来、初めて人前で号泣した。

「がんになって最もつらかったのは、未来が見えないことでした。私の未来の可能性を一緒に考えてくれた吉本先生に主治医になってもらおうと決めました」

5月21日、右乳房の全摘出手術を行った結果、ステージ3の乳がんで、リンパへの転移も判明。

「最終的に温存手術を選ばず全摘の決断をしたのは、理屈ではなく体の中でがんがものすごい速さで育っていくのを感じたからです」

しかし、本当につらい闘病生活はこれからだった。

抗がん剤治療が始まり、副作用で全身の脱毛が始まると、毎晩、天国へゆく夢を見るほどの絶望感にさいなまれました」

この苦境を支えたのが、24時間交代で付き添ってくれた家族であり、要所で治療の様子を撮影してくれた職場の仲間だった。

「先輩ディレクターの『美穂はいつか自分の体験を伝えたくなるときがくるから』という提案がきっかけで、ときには家族もカメラを回してくれました。私自身、『がんになった自分だからできることがある』と信じていたというより、正直、当時はそうでも思わないと気力を維持できなかった」

ちょうどHER2陽性タイプに効果のある分子標的薬が開発されたことも味方した。放射線など「治療のフルコース」を経て、8カ月の休職後、職場復帰を果たす。

「最初は時短勤務からで、カツラ着用での出勤でした。電車に乗るだけで疲れて、優先席に座っていて『若いのに』と非難されたことも。がんは外見ではわかりません。ひどい孤独感を感じました」

仕事に復帰することで不安が少しまぎれてはいたが、同じ悩みを語り合える場が欲しかった。

「当時は、報道でもがん患者にはモザイクをかけるような時代。特に若いがん患者の情報は少なかったんです。同じ体験をした人たちに会いたいと思いました」

’09年夏、仲間を集めて、35歳以下の若年性がん患者の団体「STAND UP!!」を立ち上げた。がん告知から5年目を迎えた’13年には、ヨガなどがん患者のためのワークショップを主催する「Cue!」をスタートさせて講演なども行い、海外のがん関連の会議にも積極的に参加。’16年10月10日には、「第二のわが家」をコンセプトとした、がんにまつわるさまざまな相談が無料という画期的な施設「マギーズ東京」をオープンさせた。

イノベーションについて学ぶ社外の勉強会で出会ったのが、のちにパートナーとなる濱松誠さん(35)。がん告知から8年が過ぎた春だった。初めて2人で会ったカフェで、いきなりパソコンを開き仕事を始めた濱松さんに、鈴木さんは機嫌を損ねるどころか心を動かされた。

「この人、私に合う! 自分に似てるな、と。あと、私もずっと同じことをしていたんだなって(笑)」

結婚願望のなかった濱松さんに、まずは3カ月間お付き合いしてみるという“仮契約”での交際を申し出たのも鈴木さんだった。

「私が、病気がコンプレックスだと打ち明けると、彼は、『僕も父親不在の家で育ったというコンプレックスがある。人は、誰でも表には見えなくても何かしら事情を抱えているものだよ』と。人の痛みがわかる人だと思いました」

仮契約中に濱松さんから正式な交際申し込みがあったのが、’16年9月。そして今年9月1日、2人は結婚式を挙げた。乳がんにとって、告知から10年は完治の一つの目安だ。濱松さんは言う。

「命さえあれば何でもトライできるというのも、僕自身、彼女に教わりました。たぶんテレビを通じて見える彼女の姿は、秒刻みでニュースを読む、仕事ができる女性報道記者。でも、家庭ではけっこうフニャフニャの姿を見せていますよ(笑)」

共に歩むパートナーも得て、鈴木さんは次のステップに踏み出そうとしている。

「根っこにあるのは、私の原体験としてのがん闘病ですが、今後は病気に関するサポートに限らず、さまざまな生きづらさや困難を抱える人たちを、そっと包み込む寛容な社会をつくっていきたい。そのために必要と思えば、場や商品作りや、記者のときと同様に情報発信もしていきたい。そのヒントを得るために、まずは1年くらいかけて、彼と世界をめぐってきます」

10年間のがん経験をエネルギーに変えて、新たな希望を探すため鈴木さんは旅立つ。