全国各地に残る明治から昭和初期にかけての建築物のなかには、古代ギリシャの神殿を思わせるものがあります。当時銀行の本支店だったというケースが多いのですが、日本郵船歴史博物館の入る横浜郵船ビルもまた、そのような建物のひとつです。

国会議事堂はドーリア式(風)

日本郵船は、同社が運営する日本郵船歴史博物館(横浜市中区)について2018年10月6日、来館者が累計50万人に達したことを発表しました。

同博物館は1993(平成5)年12月、「日本郵船歴史資料館」として横浜市内に開館、2003(平成15)年に現在の建物へ移転し、同時に「同博物館」へと改称しました。1885(明治18)年に創業した日本郵船の社史を通し、近代日本海運の歴史を伝える常設展示のほか、期間限定の企画展を実施しており、11月3日(祝・土)からは時計技術と航海術の歴史を振り返るセイコーミュージアムとの共催展「時計×航海―経度ヲ発見セヨ―」(2019年2月3日まで)が開催されています。

ところで同博物館が入る建物「横浜郵船ビル」も、日本郵船が所有する年代モノで、その外観はギリシャ時代の神殿建築を思わせる円柱が目を引きます。本家の古代ギリシャ神殿建築にはそのデザインにより、ドーリア式、イオニア式、コリント式という分類がありますが、それに従うならば、横浜郵船ビルの柱はコリント式に寄せたものといえるでしょう。

神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)がかつて企画した特別展の資料によると、大正期から昭和初期にかけ、神奈川県内の多くの銀行などで、古典様式を模した建築物が建てられていたといいます。俗に「銀行建築」といわれるスタイルで、当時、日本の銀行の建物に多く見られたものでした。また同資料によれば、横浜郵船ビルはそのなかでも「アメリカ古典主義様式」に分類されるとのことです。19世紀から20世紀初頭にかけ建てられたアメリカの多数の公共建築物に、確かに古代ギリシャの神殿建築の要素が見られます。

なぜ海運会社が、いわゆる銀行建築を取り入れたのでしょうか。結論からいえば、今回これについて確たる答えは得られませんでした。ごくシンプルに、当時流行の建築様式を採用した、というのが真実である可能性も捨てきれません。一方、明らかなのは同ビルが、船荷証券を発行する場であったことです。

「船荷証券」とは、「海上の物品運送契約において、運送人(海運会社)が運送品の『受け取り』または『船積み』を証し、指定港において『証券の正当所持人(運送品の届け先)に引き渡すこと』を約する有価証券」(三省堂『大辞林 第三版』より、一部補足)のことで、「B/L(Bill of Lading)」とも呼ばれます。有価証券を発行するというところに、銀行のイメージは重ねやすいかもしれません。

船荷証券の発行は、もちろん重要な業務です。それを遂行するのに、銀行のイメージが重なる建物というのは、なるほどふさわしい舞台かもしれません。しかし当時、この横浜郵船ビルにはほかにも重要な機能があったといいます。

時は昭和初期、客船事業華やかなりし時代

横浜郵船ビルの竣工は1936(昭和11)年。当時、海外渡航といえば船旅が主流であり、そして客船事業は海運の花形ともいえるものでした。日本郵船もまた何隻もの客船を所有し、欧州、米州、豪州などの定期航路に就航させていました。たとえば、いまなお横浜港山下公園の一角に係留され、往時の姿をとどめる国指定重要文化財「氷川丸」も、このころ現役の貨客船として北米航路に就航していました。

この「氷川丸」は、秩父宮雍仁(やすひと)親王ご夫妻が乗船されたことや、俳優のチャーリーチャップリンが帰国の船足として利用したことで知られています。ちなみに当時、1000円で家が建つといわれていた時代に、横浜からシアトルまでの片道料金は一等客室で250ドル(約500円)だったそうです。もちろん当時の一般的な生活水準から見れば大変な金額です。

「当時の国策でもあった海外からの観光客を日本に呼び込むため、欧米の豪華客船に匹敵するようなトップレベルのサービスを提供すべく、会社としてもそれなりに費用をかけていたんでしょうね」(日本郵船歴史博物館 館長代理 佐藤芳文さん)

そのような船なので、当然、サービスも世界に通用するような一流のものが求められます。そのぶん社内教育や人材育成が徹底して行われていたわけですが、その現場が前述の、横浜郵船ビルにあったのです。

今も昔も、食事は旅のお楽しみ

横浜郵船ビルには当時、3階に船の司厨員(コック)を教育する養成所が置かれていたそうです。

「食事はやはり、長い船旅における大きな楽しみのひとつなので、それを用意するコックの養成にも力を入れていたようです」(日本郵船歴史博物館 学芸員 遠藤あかねさん)

たとえば氷川丸の場合、乗船客・乗組員あわせて300人以上の食事を用意するわけですが、これにギャレー(厨房)担当60人が当たっていたそうです。1回の食事につき、1等から3等までの乗客ぶん(3等は人数が多いため2分割)と乗組員用の、計5食を作っていたといい、つまり1日3回で15食ぶんとなります。もちろん、1等船客用にはそれに見合った食事を用意しなくてはならない一方、船は揺れるため、厨房といえど火気厳禁で、調理の熱源はスチームと電気のみという大きな制約があったとのことです。

ほか、外航船ということで英語などの語学であったり、マナーであったりといった世界に通用するスタッフを育成する場でもあったそうです。

そうした場だからでしょうか、ビルの照明器具や入口ドア、階段などにアールデコ調の一流の設えが見てとれます。現在の博物館は2003(平成15)年のリニューアルによるものですが、建築当時を再現しているといいます。

氷川丸はもちろんですが、この日本郵船歴史博物館が入る横浜郵船ビルもまた、貨客船が縦横無尽に大海原を疾走していた当時の雰囲気をいまに伝えているといえるでしょう。

【写真】横浜郵船ビルは「コリント式」

日本郵船歴史博物館が入る横浜郵船ビル。古代ギリシャの神殿建築を思わせる柱が並ぶ(画像:日本郵船歴史博物館)。