日本発祥の意外なものをご紹介する「知られざるジャパンクオリティの世界へ。“日本発祥の意外なもの”」特集。今回はアロハシャツについて。

ハワイのムードがたっぷりで、日本人も大好きなアロハシャツ。実は、ハワイに移住した日本人がルーツだったんです。まさか!?って思いますよね。アロハシャツ誕生秘話をご紹介。

ハワイに渡った出稼ぎの日本人たち


100年以上昔、多くの日本人がハワイに渡りました。きっかけは、サトウキビ栽培の労働力が必要だったハワイが、明治政府に働き手をリクエストしたことから。それを受け、1885年に第1回ハワイ官約移民が横浜から出航します。

それから10年の間に募集に応じたのは、貧しい生活を送っていた約2万9千人の日本人です。一攫千金のチャンスを夢見て渡航した彼らの多くは西日本の出身。三分の一にあたる約1万人が山口県から、そのうち約4千人が周防大島の住民でした。広島、熊本、福岡の農村出身者も多かったそうです。

もともとは、移住予定ではなく、3年契約の出稼ぎでした。楽園を夢見たハワイでの生活も過酷なものでしたが、ハワイの地にとどまった人も少なくありませんでした。



さて、彼らが働くサトウキビ農園では、ポルトガル人が持ち込んだ青いチェック柄の開襟シャツ「パラカ」を作業着にしていました。どこか絣のようなパラカに愛着を感じていた日本人も、作業着としてこのシャツを着ていたと言います。そして、母国から持ち込んだ着物が擦り切れて着られなくなったときに、その着物をパラカ型の子供用シャツに仕立て直し、子供たちに着せていたそうです。

1904年には、第1回の官約移民である宮本長太郎氏が仕立屋をはじめ、日本の反物でシャツを作るようになります。ローカルの人々にも、和柄のエキゾチックさがうけ、次々と注文が入ります。そして1935年、長太郎氏の後を継いだ息子、孝一郎氏が和柄のシャツを「アロハシャツ」と銘打ち、新聞広告に掲載。「ムサシヤ・ショーテン」は一躍有名店になりました。

アロハシャツが今の姿へ


世界恐慌後、景気が上向くにつれ、アメリカ本土から観光客が大挙するようになります。そして彼らがハワイ土産として和柄のアロハシャツを買っていくようになりました。

この頃、日光東照宮桃太郎舌切り雀といったまるで絵画のようなデザインもつくられましたが、1940年頃には、洋柄のものがアロハシャツと認識されるようになります。



アロハシャツの最盛期は第二次世界大戦後の15年間ほど。当時衣類に取り入れられるようになったレーヨンは、アロハシャツのデザインにも大きな影響を与えました。繊維製品の輸出を支えていた京都の友禅業者が持つ、色を重ねて出すという高い技術とレーヨンが、繊細なデザインも可能にしたのです。

今もマニア垂涎のヴィンテージアロハは、レーヨン生地の、1930〜1950年代のものなんだそうです。



このように、すごい人気のハワイ土産を作ってしまった日系人。ハワイのコミュニティで果たしてきた役割は大きいですね。

『【特集】知られざるジャパンクオリティの世界へ。“日本発祥の意外なもの”』では、この他にもいろいろと日本発祥の意外なものをご紹介しています。ぜひチェックしてみてくださいね。



参考
[海外移住資料館 海外移住資料館だより 第8号]
[海外移住資料館 海外移住資料館だより 第2号]
[海外移住資料館 ヨコハマハワイ歴史展示]
[J-WAVE]
[内閣府]
[マイナビ]
[kotobank]
[All Photos by shutterstock.com]
アロハシャツ売り場