(黒井 文太郎:軍事ジャーナリスト)

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 北方領土問題に関して、魔訶不思議な議論が起きている。

 安倍首相が「歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島が日本に引き渡された後でも米軍基地を島に置かない」とロシアプーチン大統領に伝えていた、と報道されている(「『歯舞・色丹に米基地置かない』安倍首相、プーチン氏に朝日新聞)。

 その背景にあるのは、ロシア側が言及している「懸念」である。マスコミ各社によると、ロシアは2島返還の条件として「歯舞・色丹に米軍を展開させないことを条件として日本側に示している」とされている。

 しかし、これは明確に間違いだ。ロシアはこの「仮に引き渡した場合に、米軍が展開する可能性」への懸念をたびたび持ち出してはいるが、持ち出しているだけだ。「米軍が展開しない確約があれば、2島を引き渡す」などとは一度たりとも言っていない。

「2島を引き渡す」とは一度も言っていない

 そもそもプーチン政権はこれまで一度も「2島を引き渡す」とは言っていない。これまで多くの報道解説が「プーチンは2島返還で決着したがっているのに、日本側が4島一括返還にこだわってきたので、交渉が進まなかった」と伝えてきた。しかし、「プーチンは2島返還で決着したがっている」と誰が言ったのか? プーチン政権はこれまで一度も、そんなことは言っていないのだ。

 11月14日の日露首脳会談では、日本側からの要望により、「日ソ共同宣言を基礎として、平和条約交渉の加速に合意」した。つまり、日本側が4島一括返還から、2島先行へシフトしたわけだが、それならプーチン政権は喜び勇んで2島返還に応じそうなものだが、そんなことはない。

 15日、プーチン大統領は記者会見で「ロシアに国境問題は存在しない」「日ソ共同宣言には2島引き渡しの条件についても、主権についても書かれていない」と発言し、直前の首脳会談での「日ソ共同宣言を基礎として~」合意を受けて、「2島はもう確実。あとはプラスアルファだ」と過熱する日本側を牽制した。さらに、18日にはペスコフ大統領報道官がロシア国営放送で、「自動的に引き渡すことは絶対にない」と断言した。

 こうしたロシア側の発言を受けて、首脳会談直後は前述したように「2島はもう確実。あとはプラスアルファだ」といった論調で過熱報道していた報道各社も急速にトーンダウン。「ロシア側はすんなり2島引き渡すことはなさそうだ」との解説に移行している。

 ただし、冒頭に記したように、ロシア側は引き渡し後の米軍の展開に懸念を示しているため、それがロシア側の後ろ向きな対応の原因だと短絡的に解説している論調が多い。しかし、繰り返すが、プーチン政権はこれまで一度たりとも「米軍が展開しないのであれば、2島を引き渡す」という言い方をしていない。「引き渡す」という言質をとられることを、明らかに意識的に回避しているのだ。

 日本政府、そして多くの日本のメディアが陥っているのは、「自分に都合よく考える」という情報分析の誤謬だ。つまり、「ロシア側が日ソ共同宣言を認めているのだから、2島は引き渡すつもりに違いない」との思い込みである。

重要なのはプーチンの「具体的な約束」

 こうした問題では当然、相手には相手の思惑があり、それを推測しなくてはならない。それにはまず、実際に相手がどういう言動をしてきたかを分析することが重要だ。

 プーチン政権の語法には、特徴がある。必ず言い逃れる道を確保した言い方をし、絶対に言質をとられることは回避するのだ。たとえば、「日ソ共同宣言を基礎として~」という言い方は、「基礎とはするが、それをそのままやるとは言っていない」と言い逃れが可能だ。「条件が書かれていない」との言い方は、「平和条約締結後すぐに引き渡すとは書かれていない」と言い逃れられる。「主権についても書かれていない」との言い方はもちろん「領土を譲るとは書いてない」だろう。しかもプーチン大統領はあくまで過去の文書についての評価という形式で話しており、現在のロシア政府の政策表明とはならないように注意深く話している。

 もともと「プーチン政権は2島返還で決着したがっている」という幻想の始まりは、2001年のイルクーツク声明での「日ソ共同宣言が、両国間の外交関係の回復後の平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認」という文言にあった。だが、これも「交渉プロセスの出発点」としているだけで、「共同宣言のとおりにやるとは言ってない」という理屈になる。

 ロシア側が「米軍の展開を懸念」してみせているのも、懸念してみせただけで、仮にその懸念が払拭させても、ロシア側からすれば「それはそれとして、懸念が払拭されれば引き渡すとは言っていない」ということになる。

 とにかく重要なのは、プーチン政権が「日本に具体的に何を約束したか」だけである。日ソ共同宣言を基礎としても、「引き渡す」とは一度も言っていない。その意味するところは明らかだ。「引き渡す」との約束は絶対にしないということだ。

 ロシア政府は今でも正式に「4島はロシアの領土であることは疑いない」との立場を崩していない。2島の引き渡しとなれば、その政策の変更を意味するが、ロシア政府からそうしたアナウンスは全くないし、その兆候すらない。ロシアでも当然、領土を1ミリでも外国に引き渡すとなれば、大きな論争になるが、その兆候もない。

 15日のプーチン大統領の発言からも、ロシアが2島の主権を放棄しないことは明らかだ。主権を放棄せずに、領土を外国に譲り渡すなどということはあり得ない。ペスコフ大統領報道官は「妥協はあり得るが、国益に反する妥協はない」と断言しているが、ロシア側が出してくる妥協案はせいぜい「日本企業への優遇」くらいのものだろう。

日本の報道が「空振り」を繰り返す理由

 こうした「プーチン政権が一度も2島を引き渡すと言っていない事実を直視しない」ことは、日本政府の情報分析の致命的な誤謬(安倍政権だけの問題ではなく、歴代政権全部の)だが、報道各社の論調も同じ誤謬が多い。それには理由がある。日本の報道各社は、日露交渉という相手のある問題でも、情報のほぼ全てを日本政府から得ているからだ。

 ロシア側がどう考えているのか、ロシア当局側を取材して「裏取り」すべきだが、それがされずに日本政府側の一方的情報だけで報道・解説されている。これは実はもう四半世紀以上、繰り返されてきたパターンである。これまで何度も「領土交渉進展か!」と報道され続けてきたが、周知のとおり1ミリも動いていない。それらの報道の「空振り」は、いずれも日本政府側情報だけに頼り、ロシア当局側への裏取りが疎かにされてきた結果だ。

 ロシアが最も経済的に破綻していたゴルバチョフ時代末期からエリツィン時代にかけ、筆者はモスクワに居住して当時のロシア政官界を取材したが、領土をカネで売るなどということは、ロシア政官界では論外の話だった。「相手は困窮しているので、北方領土をカネで買えるだろう」などと言っていたのは日本側だけだ。

 筆者はゴルバチョフ時代から何度も「ロシア側には領土を還す気はない」という記事を書いてきたが、日本では政府発情報による期待を煽る報道が繰り返された。現在もその延長にある。この北方領土問題については、「過去には解決(返還)のチャンスがあったが、今は米露の関係悪化によって難しくなった」との論調もあるが、ロシアの歴代政権の過去言動を検証すると、そうではなく、「これまで一度もロシア側は1ミリも返還など考えたことはなかった」とみるべきなのだ。

 しかし、そろそろ日本政府情報(当然、政治的な思惑がある)だけに頼らず、ロシア側の言動を検証した報道を期待したい。「ロシア政府は2島引き渡しの約束を意図的に回避している」という事実がある以上、「2島はもう確実。あとはプラスアルファ」「交渉のポイントは米軍を展開させない確約」など、2島引き渡しを前提とした議論は、少なくともロシア側から「引き渡す」という確たる言葉が出ない間は、いずれも見当外れではないだろうか。

ロシア側は日本の経済支援を喉から手が出るほど欲しがっており、そのために日本との平和条約締結を熱望しており、小さな2島ぐらいは差し出すはずだ」との見方もあるが、そうした見方はあくまで想像であり、ロシア側は決してそうした発言をしていない。仮にロシアの真意がそうなら、今回などはロシア側が積極的に交渉への意欲を示し、具体的な条件を明示して日本側に打診してくるはずだが、実際には煙に巻くようなコメントで領土交渉の進展を先延ばしにしている。ロシア側からこれまで積極的に言ってきたのは、9月に提案された「前提条件なしで2018年末までに平和条約締結を」、つまり、領土の話を抜きにした平和条約締結という話だけだ。

 こうしたロシア側の言動から推測されるのは、ロシアは単に日本と敵対関係にならないように、日本側の原則的問題である北方領土問題については「期待だけを持たせて手懐(てなず)けておく」「領土の原則的な問題に関わらない部分で関係改善を進め、幾ばくかの経済協力を引き出す」政策を続けるということだろう。その間は、少なくともロシア側には外交上も経済上も一切の損失はない。実際、これまでの四半世紀が、それを裏付けている。

 なお、この2島返還への期待がいかに実体のない幻のような話なのかは、下記の拙稿にその根拠を提示しているので、ぜひご参考願いたい。5年前の論考だが、その後もこれを覆す情報は出ていない。

◎「『プーチンは2島返還で決着したがっている・・・』根拠なき定説はなぜ生まれたのか」(2013年5月7日
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37716

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  日本の希望的楽観論に過ぎない「最低でも2島返還」

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