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CDジャケットや雑誌の表紙、屋外看板などアーティストを被写体とした写真に心を奪われた……そんな経験のある読者も多いはず。本企画ではアーティストを撮り続けるフォトグラファーに幼少期から現在に至るまでの話を伺い、そのパーソナルに迫る。第2回はタワーレコードの「NO MUSIC, NO LIFE?」キャンペーンのポスターをはじめ多くのCDジャケットアーティスト写真の撮影を手掛ける平間至に登場してもらった。

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写真とクラシック音楽で育つ

私が育った宮城県の塩釜というところは生マグロの水揚げ量が日本有数で、人口に対するお寿司屋さんの割合が日本一だと言われているんです。小さい頃はかなりやんちゃで「至が来る」って聞くと親戚の中では警報が鳴っていたらしいですよ。うちは祖父の代から写真館で、その裏に自宅がありました。写真を撮り始めた経緯としては、もともと天体観測が好きで天体写真を撮っていて、その流れでなんとなく友達を撮って遊んでいたんです。中学3年生の頃からは、まあ「家業だから手伝おう」という感覚で幼稚園の運動会の撮影などをしていました。「人手が足りないから」という理由で、自分の意思とは関係なく戦力として扱われていたんです。最初は父親に言われた通り撮るだけでした。よく考えたら当時はフィルムだから、今より怖いですよね。

祖父はクラシック音楽が大好きで写真館でバイオリンを教えたり、父はチェロをやっていて大学オーケストラで弾いていたりしたので、家庭は日常的にクラシックが流れているという環境でした。その影響で3歳からバイオリンを始めて、小学校6年生までやっていました。小学生の頃、初めてブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調」を生のオーケストラで聴いて、そのグルーヴにロック的な興奮を感じたことを覚えています。

15歳でバンドを結成、パンクに目覚めた高校時代

中学、高校ではチェロもやっていましたが、中学からはDeep Purpleコピーバンドもやっていて、今でもほぼ同じメンバーでCheap Purpleというバンドを組んでいます。ライブ中に塩釜名産の笹かまを客席に投げ入れるようなバンドです(笑)。その当時はギターを担当していましたが、高校からはずっとベースを弾いています。1978年、僕が中学3年生のときにパンクブームが来て、高校からは新しく組んだシリンダーズというバンドでオリジナルソングを作って社会批判をしていました。その頃の経験がその後の物作りにも影響していったと思います。15歳という多感な年頃にパンクブームを経験できたということは僕の中で財産として今も生きています。

高校時代も家業は手伝っていました。でもそこにはなんの感情もなかったです。家業に反抗してパンクバンドをやっていたわけでもないですし、反抗期もなかったと思います。ただ、東京で夏期講習があるってなったら、それを口実に新宿ツバキハウスの「LONDON NITE」に通ったりはしていました(笑)。

東京の大学生活で得たものは“仲間”

高校卒業して僕、浪人するんですけど、全然勉強しなくて、バンドをやっていた友達と一緒に朝から雀荘に行くような生活を送って、特に行きたかったわけでもなく日本大学の芸術学部に入学しました。上京してみて、東京にも日芸にも期待しすぎていたことに気付きました。高校時代は田舎で情報がないながらもパンク、ニューウェーブノイズなど、アバンギャルドなとこまで音楽についてはかなり深く掘り下げていたんです。「東京で、しかも日芸ならもっとディープな文化があるはずだ」と思っていたのにまったくそんなことなくて、もっと軽い感じだった。でも映画研究会に入ったら、これはこれで楽しいんじゃないかって思うようになってだんだん東京になじんでいきました。

大学では単位に必要な最低限の授業だけ出て、それ以外は映研の仲間とツルんでいましたよ。僕は主にカメラをやっていたんですが、映像の監督もやったことがあって、Public Image Ltd.の曲を使ってPVのような物を作ったりしました。当時の仲間には、連続テレビ小説マッサン」、映画「パッチギ!」、映画「フラガール」などの脚本を担当した羽原大介や、俳優の西村和彦などがいます。

当時は本当にいろんなことがあったけど……友達の家に遊びに行ったら、白いワンピースを来たびしょびしょの女の子が包丁持って立っていたり、学校の屋上から飛び降りようとしている子がいるって騒動があったり。酔っ払って「試しに今から決闘をしてみようか」って、本気で殴り合ってみたり。本来僕は人とツルんだりするタイプの人間じゃないし、お酒も得意なほうじゃないんですけど、大学時代にいい仲間と出会えたことは宝だと思います。

大学時代でも、もちろんバンド活動はしていて、ニューウェーブな感じの音楽をギターとベースのユニットでリズムボックスを使ってやっていました。電気グルーヴの初代メンバーだったCMJKとは大学時代に仙台で対バンをしたことがあって、CMJKはそこで僕らを見て打ち込みを始めたんだって。本人がブログで書いてくれていましたよ。

写真を撮っていないと自分がなくなっちゃう

初めて挫折を味わったのは、大学を卒業してすぐでした。大手の撮影プロダクションに就職し、僕が配属になったのがカーステレオのカタログ用写真を撮影するチームで、工場から送られてくるカーステレオを撮り続ける仕事だったんです。ボタンを1つひとつ押して、発光している様子を撮るという1枚に15分くらいかかる作業なんですが、少しでも埃とか写り込んでいたら怒鳴られてやり直し……という世界でした。僕は人物を撮りたかったんですけど、大手の撮影プロダクションは物撮りが中心で、モデルとか被写体のある撮影はフリーのカメラマンが撮っているということを当時は全然知らなかったんです。3カ月で辞めて実家に帰って手伝いをしていました。

日本に居場所がなくてくすぶっていたとき、アメリカ留学中の友達が呼んでくれてニューヨークに行きました。ところが僕がニューヨークに着いてしばらくしたら友達はボストンへ行ってしまって。本当に1人ぼっちになって「自分って一体なんだろう、やるべきことってなんだろう」って考えたんです。このとき、写真を撮っていないと自分がなくなっちゃうということに気が付きました。それで初めて自分の意思を持って写真を撮り始めたんです。23歳の頃でしたね。

ニューヨークの撮影では、ただ観光者が遠くから風景を撮っているような写真にはしたくなくて、ストリートで現地の人を撮って仲良くなってモデルになってもらったこともありました。観光ビザギリギリまで撮影して日本に帰ってからその写真をブックにして、伊島薫さんのアシスタント募集の面接に持って行き雇ってもらうことになりました。

師匠は“努力の人”

88年から90年までの2年間アシスタントを務めました。アシスタント時代は「ちゃんと働いたこともない僕を雇ってくれたんだから」と思って撮影じゃない部分でも貢献できるように動いていました。毎日、朝晩師匠を車で送り迎えしたり、師匠の朝食を買って持って行ったり。僕が肺炎で寝込んだときでも、師匠から電話で「お財布忘れちゃったから持ってきて」って言われたら「頼りにされている」と思って、ふらふらになりながら持って行きましたよ(笑)。そのときに染み付いた「どうやって気遣えば相手は気持ちがいいか」みたいなことは今も撮影のとき一貫して考えています。

伊島さんってファッションのメディアを中心に撮っていて、メディアの世界で初めてカラープリントをやった人なんです。それまでポジで撮って入稿するのが当たり前だったんですけど、ネガで撮ってそれをカラープリントすることができる設備を持っていて。そういう新しいことをやる“センスのいい人”だと思っていたんですけど、実際にそばで見ていたら、24時間写真のことばっかりやっていました。「こんなに写真のことを考えていたら評価が高くなるのは当たり前だな」と。師匠は常に新しいことや新しい手法を試行錯誤しながら実践している“努力の人”だったんです。

初めて任されたメディアの仕事はアシスタント時代に師匠経由で任されたフリーペーパー「dictionary」の撮影です。ヴィヴィアン・ウエストウッドを撮ったんですけど、僕はそれまでその方がどんな方なのかまったく知らなかったので「毛皮のコートを着た上品なお婆さんが入って来たな」と思っていたんですけど、撮影を始めていきなりバッとコートと脱いで。そしたらいきなり下着だったんですよ(笑)。それがメディアデビューだったんです。

現場で事件を起こすのが自分らしさ

2年で独立して初めての仕事が「ROCKIN'ON JAPAN」の仕事でした。もう28年くらいやっていますが、もともとは師匠の仕事だったんです。昔は音楽の雑誌って閉鎖的でカメラマンも音楽雑誌専門の方ばかりだったんです。それが、「rockin'on」や「CUT」が創刊して、一斉にファッションや広告をやっているカメラマンを入れたんです。師匠はその流れで渋谷陽一さんと仲がいいから受けていただけで、そんなに音楽好きではなかったんです。忌野清志郎だろうが甲本ヒロトだろうがあまり興味のない感じで撮っていたように思いました。で、僕はその現場に付かせてもらっていたので「伊島さんのアシスタントは音楽好きだ」って知ってもらえて仕事をもらうようになったんです。

独立してからは、師匠と同じことじゃなく違う技を開発しようとしたんですけど、やればやるほど師匠に似てきちゃう。悩みましたが、僕の自分らしさは制作過程で新しいことをするんじゃなくて、現場で事件を起こすことなんじゃないかと考え直して、それを表現したものをまとめたのが写真集「モータードライヴ」(記事ヘッダの写真を表紙に使用)でした。これは30代前半、90年からの4年間で撮った作品を集めた物なんですけど、僕が物を作る上で大切にしている“一度壊してから再構築する”っていう、まさしくパンク的な手法で作ったんです。撮られる側も撮る側も動きまくって、テンポを上げて、激しく消費させ、息も絶え絶え、ピンも合っていない……その先には何が出てくるのか。シド・ヴィシャスがライブ中ベースを弾かないで自分の体をカッターで切って暴れて「これが一番カッコいいんだ!」って言っている感覚。“演奏するだけがロックじゃない”みたいな感覚に近かったですね。

虚しさと向き合い原点に戻る

メディアの仕事が増えてから、屋外看板など広告の撮影を依頼されることもどんどん多くなっていって、一時期交差点一面が僕の撮った写真だったりデパートの化粧品売り場の写真が全部僕の撮ったものだったりしてね。でもそれを見てうれしいどころか、むしろ虚しかったんですよ。大きく掲出されていても誰ともつながっていないって感じていたんです。撮れば撮るほど、どんどんつらくなって、毎日毎日、海に向かって石ころを投げ続けて、どれだけ全力で投げてもチャポンって静かに海に沈んでいくのを見ているうちにだんだん肩が痛くなってきちゃったって言う感覚。

そんな日が続いて、誰かとつながりたくて、ギャラリーを兼ねた貸し暗室PIPPO(2017年に閉店)を浅草で始めたんです。当時はメディアのカメラマンがそういう場所を開くのは珍しかったんですけど、祖父が塩釜の写真館でやっていたみたいに英会話とかバイオリンを教えたり、時にはコンサートホールになるようなサロンにできたらいいなと思って。そこで暗室を中心としたワークショップを始めて、一般の写真好きな人たちと写真を介しての交流が始まりました。

PIPPOを始めたもう1つの理由には、自分が原点である塩釜の平間写真館を捨てて来たっていう後ろめたさがどこかにあって、それを拭いたいという思いもあったかもしれません。街の人が自由に出入りができてみんなの家族の歴史が詰まった写真館だったから。震災後「GAMA ROCK FES」だったり「塩釜フォトフェスティバル」の活動を始めたのもそういう気持ちから来ているのかもしれないです。今、塩釜の平間写真館は閉めていて毎年3.11の前後だけオープンしているんですけど、ゆくゆくは東京と塩釜の両方やっていけたらいいですね。

「平間さんが撮るからこうなるんですね」

NO MUSIC, NO LIFE」を撮っている写真家と言われることについては、僕自身がまったくその通りNO MUSIC, NO LIFEな人間なのですごく腑に落ちています。箭内道彦さんから依頼されて撮るようになってもう20年ですし。最近ほかのカメラマンも撮っているらしく「NO MUSIC, NO LIFE?」を撮っているのが僕で「NO MUSIC, NO LIFE!」がほかのカメラマンなんだそうです。僕だけが撮っているもんだと思っていたら知らないところでほかの人もやっていたっていうちょっとした切なさがありますよね(笑)。自分のもののように思ってしまっていた自分を戒めないといけません(笑)。

写真館の仕事とメディアの仕事にはすごい違いがあるんですよ。メディアの写真はお金を出す人と企画する人、被写体、そして見る人、全部が違うんです。僕の写真を街中で見た誰かが「いいな」と思ってくれたとしても、それは僕には伝わらない。でも写真館は依頼主が被写体で鑑賞者というミニマムな形なんです。撮影の体験が忘れられなくて何度も来てくれる人もいるし「人生観が変わった」とか「平間さんが撮ると『NO MUSIC, NO LIFE』みたいに誰でもカッコよくなるんですね」と言われたことも。そうやってダイレクトに喜びが伝わるのでやりがいがあるし、すごく楽しいんです。

一般の方を撮るのは難しいですよ。タレントさんはその人のイメージができあがっていて、洗練された形で表出している。それをそのまま撮っていけばいいんだけど、一般の方はいろんな複雑なものを抱えたままの日常でそこに立っているわけだから、限られた時間の中でその人の魅力を見つけて、表情、ポーズ、ライティングなどで表現していくというのは腕の見せどころですね。

カメラを楽器にビートを奏でる

今年は美術館やギャラリーではなく、生活に身近な場所で“音楽を聴くように写真に浸ってもらえたら”ということをテーマに“カフェ展示”を開催したり、橋本拓也(舞踏家)、KIM(UHNELLYSのベースボーカル)と3人でDP3っていうフォトセッションチームを作ってパフォーマンスを観せたり、新しいことに挑戦しています。新しいことに取り組むのは体力がいりますけど、みんなに喜んでもらったり人と人がつながることが好きで、それがモチベーションになっています。

僕にとってカメラは楽器なんです。カメラという楽器を使ってその場をグルーヴさせると被写体がイキイキし出すんです。ドラムの音を聞いたら人って気持ちよくなって踊り出そうとするでしょ。そういう感じで僕はカメラのシャッター音、ストロボの光、チャージ音でビートを奏でているんです。そうすると被写体は「はい、笑って」なんて言わなくてもいい表情になってくる。そんなふうに楽しくなって解放されるような空間をカメラという楽器で作り出そうとしています。とにかく写真を通してみんなに喜んでもらいたいんです。

今はスマホの時代になって、写真を撮ることのハードルは下がったけど、スマホで撮った写真がその後残っていくかと言うとそうでもなく、短期的で消費的な記録になりがちだと思うんですよ。でも写真館で撮るときは最初からずっと先まで残すつもりでいるはずなんです。そこにあるのは性能の差ではなく、意思を持って撮っているかどうかの差。残したいと思ってもらえる写真を撮ることで、例えば、家族が言葉では伝えきれなかった会ったことのないおじいちゃんの魅力を写真で鮮明に伝える。そうやって時間と空間を超えて人と人をつなげる役割を担えたらいいと思うんです。今はそういう写真を死ぬまで撮り続けたいと思っています。

平間至写真展 Still Movies 関連イベント

DP3 vol.3 ~Live Photo Session
2018年11月30日(金) 新潟県 三光寺(新潟県新発田市諏訪町2-3-25)
19:30~21:00(19:00開場)
<出演者>
橋本拓也 / 平間至 / KIM(UHNELLYS)
ゲスト:tatsu(LA-PPISCH
予約 / 問い合わせ:0254-22-2056(吉原写真館)

出張!平間写真館TOKYO in SHIBATA
2018年12月1日(土)、2日(日)10:00~17:00 新潟県 新発田市
※1日4組限定

平間至写真展 写真の中なら、一生笑える!平間至写真館大博覧会

2019年1月5日(土)~2019年1月28日(月)東京都 THE GALLERY 新宿1・2
OPEN 10:30 / CLOSE 18:30(最終日は15:00まで)
※日曜日は休館

2019年3月28日(木)~2019年4月10日(水)大阪府 THE GALLERY 大阪
OPEN 10:30 / CLOSE 18:30(最終日は15:00まで)
※日曜日は休館

取材・文・構成 / 中村佳子(音楽ナタリー編集部) 撮影 / 阪本勇