▽元日本代表で、現役引退後はJリーグの創設に尽力し、柏や清水、名古屋でGM(ゼネラルマネージャー)としてチームの強化に手腕を発揮した久米一正さんが11月23日大腸がんのため逝去した。享年63歳という若さだった。

▽久米さんは浜名高校から中央大学に進み、大学卒業後は日立のMFとしてJSL(日本サッカーリーグ)で活躍。豊富な運動量で攻守に貢献するスタイルは、北澤豪さんと似ていた。現役引退後は日立のマネージャーを務める傍ら、91年からはJSL事務局長としてJリーグの立ち上げに尽力した。昨年亡くなられたJリーグの創設者である木之本興三さんとも親交が深く、彼を慕う“木之本軍団”では宴会部長を務めるなど“気配りの人”でもあった。

▽柏では西野朗監督を起用し、99年にナビスコカップで優勝。03年から07年までは清水で強化育成部長を務め、当時の監督だった長谷川健太氏は訃報に際し「いなければ私がここでみなさんの前で話すこともない。久米さんがいたからこそJリーグで長らく監督ができました。恩人です。エスパルスで辛いとき『監督、まだまだだから元気を出していきましょう』と暗くならず、明るく引っ張っていただいた。非常に残念ですし、Jに貢献したので、ご冥福を祈りたいと思います」と突然の逝去を惜しんでいた。

▽08年からは名古屋のGMを務め、10年にはクラブに初となるリーグタイトルをもたらす。優勝を決めた湘南戦後、ピッチで祝福の声をかけると「六ちゃん、まだまだこれからだよ」と黄金時代の創設に意欲を見せていた。

▽同年からは、JFA(日本サッカー協会)の強化技術委員も兼任し、原博実技術委員長や霜田正浩技術委員を支えた。14年に選手としてはこれといった実績もない霜田氏(元FC東京強化委員)が技術委員長に就任した際は、キャリア不足を指摘する声に対し、「Jクラブで(GMとして監督や選手の)切った張ったを経験していないと技術委員長は務まらない」と擁護。それはJリーグでの経験がない過去の技術委員長の、“机上の空論”を批判しているようにも感じられた。歯に衣きせず発言する、久米さんらしい言葉だったし、正鵠を射ていると納得したものだ。

▽そんな久米さんの言葉で忘れられないのが、01年のこと。西野監督とは同級生でもあり、日立でもチームメイトだった。しかし当時は柏で監督とGMと立場は違う。第1ステージ終了後、6位に終わったことで久米さんは西野監督に「西野、辞めてくれ」と言わざるを得なかった。

▽当時のことは西野さんも鮮明に覚えていた。それというのも当日は、お嬢さんの誕生日であり新車の納入日でもあったからだ。奥さんからは「大きくて邪魔になる」と言われながらも乗り続けているドイツ車。盟友である久米さんから宣告された“クビ宣言"は、西野さんにとっても予期せぬものだったのかもしれない。

▽久米さんは「おまえはいいよな、(日立からの出向で身分が保障されて)“ぬくぬく”だよな」と言われたことは、かなりのショックだった。というのも、当時の親会社である日立は業績不振で、柏に資金を投入することができなかった。このため西野監督の希望する補強を久米GMは実現できなかったからだ。

▽「西野には申し訳ないことをした。いつかまた、西野を監督に呼びたい」――それが当時の久米さんの本音だった。

▽その思いは13年後に実現した。久米さんが名古屋のGMに就任して6年後の14年、西野さんは名古屋の監督に迎えられた。残念ながら2シーズン、チームを率いながら好成績を残すことはできず、西野さんと久米さんは16年にチームを去る。

▽西野さんは18年のロシアW杯で日本代表監督としてベスト16に導く。一方の久米さんは今シーズンから清水のGMに復帰し、これからという時期での訃報だった。Jリーグ誕生後は選手、監督として脚光を浴びることのなかった久米さんだが、GMという職業を確立したのは間違いなく久米さんだったと思う。改めてご冥福をお祈りしたい。


【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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