中間選挙後の記者会見で、トランプ大統領はかねてからたびたび衝突してきたCNNのアコスタ記者を「ホワイトハウス出入り禁止」にしてしまった。メディア嫌いの権力者による横暴だ、というのも当然の受け止め方だが、米国内では記者の取材スタイルにも問題があったのではないか」との見方も出ている。一筋縄ではいかない権力者に対峙するための取材技法がいま議論されている。(JBpress)

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大統領の何がニュースなのか

 トランプ米大統領が就任して約2年、ニュースとして伝えられるのは根拠のない決めつけや間違った情報に基づいた発言が圧倒的に多い。大統領の発言をしつこく検証し、ピノキオマークでレーティングしているワシントンポスト紙の「ファクトチェッカー」による11月2日の集計では、就任649日で6420件の間違った情報や誤解を招く表現を発信しているという。

 メディアは彼の発言を取り上げ、「みんなの安全や生活に関わる問題について、こんなに間違った情報や知識しか持っていません」とか、「こんなに品性に欠ける発言を繰り返していますよ」と伝え、「このような人物が大統領でいいのですか」というニュアンスを込めているが、それだけでは、今やニュースとして説得力のあるものではなくなってしまった。「メディアは人々の敵」と言ってはばからない大統領を熱狂的に支持する人を勢いづけるだけという徒労感が、現地のメディア関係者と話していて語られることも多い。

 それでも対象は、国際社会にも大きな影響を与える大統領であり、いかに呆れるような言動でもニュースにせざるを得ない現状は、拙稿(ヤフーニュース『トランプ報道のジレンマとは何なのか』)で解説したのでお読みいただきたい。しかし、これまでの常識が通用しない大統領を取材して意味のあるニュースを発信するには、ニュースの内容以外にも重要なファクターが見えてきた。

アコスタ記者「騒動」の教訓

 CNNホワイトハウス担当のアコスタ記者は11月初旬にあった中間選挙後の記者会見で大統領と「衝突」したことが発端となり、ホワイトハウスの取材記者資格を停止させられた。CNNは直ちにワシントンDCの連邦地方裁判所にトランプ大統領ら6人を相手取って裁判を起こし、アコスタ記者の取材資格回復の仮処分を勝ち取り、その後ホワイトハウスが取材資格の完全な回復を認めたため、訴訟自体を取り下げた。

 この一連の経緯から分かったことをまとめると、以下の3点になるだろうか。ポイントを1つ1つ検討する。

記者の力+組織の力

 1つめは、「メディアの総合力」や「メディアどうしの協力の重要さ」である。

 アコスタ記者の記者会見での言動は、後述のように問題があるが、ともかくCNNはまっとうな取材活動であったと彼を擁護し、直ちに裁判を提起するなど、会社全体でさまざまな素早い対応を取ったこと。また、そこまでは情報の確認が取れていないが、番組の中で裁判のニュースは控えめな報道にとどめ、当時深刻化していたカリフォルニア州山火事などを優先するような、何らかの方針や戦略も社内で共有されていたものとみられる。また、アコスタ記者の取材資格停止には、ホワイトハウスの記者会が直ちに抗議の声明を出したり、CNNの訴訟にメディア各社(そしてトランプ支持のFOXニュースまでも)が支持の姿勢を明確にし、メディア全体の連携が成立していたことは大きな力となった。

 2つめは、報道の基盤となる、法制度やメディアの「ミッション・ステートメント」の重要性である。

 アメリカでは、報道の自由、表現の自由の根拠となる憲法修正1条を重視する姿勢も感情も非常に強いものがある。CNNが提起した訴訟も、まさにアコスタ記者の修正1条に基づく権利が冒されたというのが最大の論拠であった。ニュースに対する価値観が揺らいでいる、現在のような世の中では、特に「拠って立つもの」の存在は重要であろう。

 さらに、メディアはそれぞれ、自らの組織が「何の価値観に基づき、何を目標にして、どのようにニュースを伝えようとしているのか」をまず内部で共有しなければならない。そうでないと、時に不毛なケンカに引きずり込む大統領とのやりとりの連続の中で、それでも意味のあることをしているという確信が、記者自身も持てなくなって来てしまう。記者のメンタルも心配になる。

 さらに、そのような価値観は、読者や視聴者、ユーザーとも共有されなければならない。記者会見で野放図にしゃべらせているだけでは、何らニュース的に意味のある情報を発信しない大統領を、「それでも取材するのはなぜなのか」を説明するために、メディアが報道の理想や、取材の倫理規定を一般の人に理解してもらうということだ。

 このような問題は、今まで一部のメディアを除いて具体的に語られてこなかった。しかし、この作業を地道に進めていかないと、メディアの信頼低下は止まらないだろう。

「拠って立つもの」をユーザーに開き、共有する米メディア

 アメリカの主要なメディアは、各社のジャーナリズムの目的や、取材のルールなどを公表しており、少し場所は分かりにくいものもあるが、ウェブサイトから探し出すことができる。例えば、ニューヨークタイムズ「倫理的なジャーナリズム」と題する記者の取材ハンドブックを公開している。正確と公正なニュースを目指すという決意表明の後に、それをどのように行うか、詳細に規定し、記者の利益相反を防ぐための具体的な手順まで記されている。

 ワシントンポストは、記者の倫理規定に関しての記述は少ないが、「ミッション・ステートメント」として、ニュースを発信する姿勢について重点的に記述している。真実の追求のほかに、より多くの人に関わる公共的な利益が最も優先することなど、あいまいな理念を少しでも読者に具体的なイメージを持って理解してもらおうという姿勢がにじんでいる。

 ジャーナリズム大学院で有名なミズーリー大学では、北米のメディアの規範や基準のリストを公開している。

 しかし、日本のメディアでは私の知る限り、一般の人に具体的な情報を公開しているのは、テレビ東京以外は知らない。例えば「知る権利に奉仕する」だけでは不十分で、「記者がどのような時に何を尊重することが奉仕なのか」とか、「奉仕するために、記者のどのような行動を尊重するか」という具体的な記述がないと、信頼は得られない。メディアの歴史や背景に違いがあるので、一概に批判はできないが、メディア不信が深刻になっているという危機感があるのなら、規範や基準を読者と共有するという「基盤」を見直すことも必要な局面なのではないか。

 アコスタ記者騒動の教訓の3つめは、記者の取材手法自体を見直し、「一段高いレベルのジャーナリズム」を求める議論が始まったことだ。

 フロリダ州の中西部セントピーターズバーグにポインター研究所(Poynter Institute)という、現役のジャーナリストにとっても、研究者にとっても非常に影響力のある団体がある。40年を越す歴史があり、伝統的なジャーナリズムの倫理や記事の質の向上のような問題から、デジタルなニュース発信の問題まで幅広く研究や教育を行っている。ファクトチェックで有名な「ポリティファクト(Politifact)」も傘下に入っている。そこから出た「アコスタ記者のとった行動は最高のジャーナリズムを行ったものではない」とする評論を手がかりに、考察してみたい。

「常識が通用しない」大統領

 トランプ大統領の記者会見は総じて「品がない」。それは記者の背後に有権者がいるということを全く意識していないからであり、また記者に対しても、打ち解けてくだけたやりとりをしているのではなく、高圧的に、あるいは時に敵意をむき出しにして乱暴なやりとりに終始するからである。

 最近の一例を挙げれば、2018年10月1日に行われた記者会見では、マイクが回って質問するまで少し間が空いたABCテレビの女性記者に対し、「こいつは急に指名されてショックを受けてるんだ。普段何も考えてないからな」と、かなり失礼な発言をし、さすがにこれはまずいと思ったのだろうか、ホワイトハウスのスタッフが公式の会見録を「普段何も考えていないから(You are not thinking. You never do.)」の部分の「thinking」を「thanking」にして「感謝の意を表さない」と書き換えてしまい、物議をかもしてしまった(リンク先の記事を参照)。

 また、アコスタ記者の一件が発生した記者会見で質問に立った日本人記者に対し、「シンゾーによろしくな」とか脈絡のない発言で邪魔をするだけでなく、必ずしも流ちょうとはいえない英語で発された質問に対し、「I really don’t understand you.(何言っているのかよくわからない)」と返したのは、「自分に理解できるような英語で質問するべきだ」という、世界に向かって発信しなければならないアメリカ大統領としての職責を理解しない、自分勝手な姿勢だという指摘(作家・渡辺由佳里氏の論考)ももっともだとも思われる。

「対決型ジャーナリズム」の限界

 このような人物に質問するだけでもかなり骨が折れることだろう。ましてや、自分の言いたいことしか言おうとせず、質問に時にまともに答えず、時に質問自体を拒絶する人物から、ニュースに値する情報を引き出すのは容易ではない。
記者たちも熾烈な生き残りゲームに勝ち残ってホワイトハウスの取材にたどり着いたエリートの中のエリートだ。アコスタ記者のように「おまえは無礼でサイテーの人間だな」と指を差して罵倒され、「おまえを働かせているCNNは恥ずかしいな」と所属する会社まで攻撃されるようなことが何度も繰り返されると、プライドも刺激され、アドレナリンが出て、「対決モード」になるのは理解できないわけではない。

 また、報道のトーンも読者や視聴者にもその憤慨を共有してもらいたいというトーンに傾いて行ってしまうだろう。当日の記者会見の雰囲気を詳しく描写している朝日新聞の記事にも「私の中でゴングが鳴り響き、イーストルームがボクシングのジムに変わった気がした」との記述がある。

 しかしポインターの評論は、このような対決姿勢が、記者会見で発しなければならない「質問」を、むしろ「意見の表明」に変質させてしまい、大統領にジャーナリストとしての適格性について突かれる「隙」を生んでしまうと指摘する。「質問の相手は(その人格や品性はどうあれ)大統領であり、記者会見はケーブルテレビのレスリング討論ではない」と記者の感情の露出を厳しく戒める。

 大統領から意味のある情報を引き出すため、感情の吐露でなく、説明をさせるため、どのような言葉遣いをして、そこに導くかということに尽きる。ジャーナリズムのトレーニングを受けた人なら、ある意味で「当たり前」のことでもあるが、考えてみれば厳しく検証されてこなかった部分でもある。

 アコスタ記者は中米からアメリカを目指して行進していた移民を希望する人たちの一団を、大統領がツイッターなどで、まるで極悪人のごとく評していることについて質した。「彼らは遥か遠くを歩いているのです。侵略者などではない」と発言したが、感情的な応酬に引き込もうとする大統領に向かうなら、「侵略だという見方についてどう思いますか?」と質問するべきではなかったのかということだ。

 また、アコスタ記者は、「あなたは、その移民の集団を極悪人だとしていますね?」と問い質したが、質問する記者自身が決めつけるのではなく、「あなたが特定の、貧しい移民の集団を極悪人だとしているとの批判がありますが、どう説明しますか」と婉曲を使えということだ。

 この手の「〜という批判がありますが、どう反論なさいますか」的な質問はよく見かけるが、多くは記者や所属する報道機関が取材相手に嫌われないよう配慮した、弱気に使用されるものだ。しかしこの場合は、冷静に、「おまえはこんなこと言っているが」的な感情的なやりとりを回避する言い方をするのが妥当だという指摘は、もっともだと思う。やりとりを拒否してとりつく島も与えない大統領とのやりとりの瞬間に、この質問をとっさに発することができる記者は、そうそういるとも思えないが・・・。

 アコスタ記者はなおも質問を繰り出そうとするが、大統領は拒絶、マイクを受け取りに来たホワイトハウスのインターンの女性とマイクの取り合いで腕で押し合うような一幕があった。ポインターの評論では、アコスタ記者は次の質問を発しようと揉めたりせず、素直にマイクは返すべきだったと指摘する。

 このシーンの映像を何者かが巧妙に編集し(具体的には1秒間に30枚変換する「フレーム」と呼ばれる画像を抜いたり時間を延ばしたりする)彼がその女性に乱暴に触れたように見える映像まで持ち出して(サンダース報道官がツイッターに引用)記者資格を停止するのは論外だが、まともなやりとりができないモードに移ってしまったのを察知したら、記者の側が「戦略の失敗」を認め、感情的なしこりを残さないことの方が重要だということだ。

 このような議論は、大統領ホワイトハウスに記者自らを非難する材料を与えてしまった時点で、記者の「負け」という非常に厳しい考え方だ。

「スーパー記者」で原点回帰を

 これまでの議論をまとめると、トランプ大統領を取材する記者には、以下のような資質や技能が必要だということになる。

(1)「この質問でどのような情報を引き出すのか。それはなぜ必要なのか」ということを明確に説明できる論理的な能力と政策や政治倫理などに関する知識。

(2)大統領やその周辺から罵倒されても、あるいは熱狂的に支持者からソーシャルメディアなどで非難されても揺らがない信念と強いメンタル。

(3)論理的な議論を避け、感情的な応酬に持ち込もうとする相手を抑え、説明をしなければならないように仕向ける戦略的な思考。

 このような能力をすべて身につけた記者は「スーパー記者」とも言えるし、しかしジャーナリズムの世界で働く者にとっては「常識」とも言える条件でもある。異常ともいえる政権を取材する中で、奇しくも、かえってジャーナリズムのレベルアップの議論が進んでいる。

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中間選挙後の記者会見で、トランプ大統領(左)に食い下がるCNNのアコスタ記者(写真:AP/アフロ)