ジャーナリスト・近藤大介) 

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 1935年10月、「長征」の途中で六盤山(現在の寧夏回族自治区にある海抜3500mの高山)を通った際、疲弊した共産党軍に毛沢東が発破をかけた。「万里の長城に到達しなければ立派な男ではない!」(不到長城非好漢)。毛沢東が北京の天安門の楼上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言したのは、それから14年後のことだった。

 新中国の建国以来、幾多の中国青年たちが、「我も万里の長城に立つ男にならん」と夢見てきた。特に、毛沢東と同じ湖南省出身者に、その傾向が強い。

 毛沢東が建国を宣言してから69年後の2018年11月26日、やはり湖南省出身の34歳の青年物理学者・賀建奎(Hu Jiankui)が、「万里の長城に到達した」。人類史上初めて、人工的にゲノムを編集して、2人の女児を誕生させたのである。たちまち世界中に、このニュースが伝わり、「人類はついに禁断の第一線を越えた」などと報じられた。

ニックネームは「湖南のアインシュタイン」

 賀建奎は、湖南省の省都・長沙の南西郊外にある娄底市新化の貧困農家家庭に生まれた。新化は、湖南省で最大規模の指定貧困地域である。賀は幼少期から神童の呼び声高く、ニックネームは「湖南のアインシュタイン」。新化高校卒業後、貧困地域の希望を一身に背負って1500㎞も北上し、上京。2002年に、北京の中国科学院傘下の中国科学技術大学物理学部に入学した。

 2006年に大学卒業後、奨学金を得て米ライス大学に留学。本人の述懐によれば、「物理学の時代は終わり、21世紀は生物学の時代と思い知った」。アメリカ留学時代に、ゲノム配列の研究に専門を変えた。こうして2010年に、ライス大学で生物物理学の博士号を取得し、さらにスタンフォード大学でゲノム配列の研究を続けた。

 スタンフォード大学での指導教官であるステファン・クエイク教授のことを、賀はこう評している。「普段はジーンズを履いてキャンパスを歩いているが、世界のゲノム研究の第一人者で、かつ3つの上場企業の株主として億万長者になった憧れの教授だった」。そんなクエイク教授のようになりたいと、賀は母国への帰国を決意する。

 折りしも、香港に隣接した中国初の経済特区、「中国のシリコンバレー」こと深圳市が、2010年から「孔雀計画」を実施していた。これは、海外に留学した優秀な中国人の若者をヘッドハンティングする制度だ。中国において、北京や上海とともに「入手困難」と言われる深圳市の戸籍を与え、住居や医療保険なども与え、おまけに80万元(約1300万円)~150万元(約2500万円)の奨励金を支給する。さらに最高8000万元(約13億円)もの研究助成金を提供するという特別待遇制度である。

 賀はこの「孔雀計画」に申請し、見事に選出された。こうして2012年、弱冠28歳にして、南方科学技術大学の最年少副教授として「凱旋帰国」したのだった。

 大学内に豪華な研究室を用意された賀建奎副教授は、2013年に「深圳市優秀教師」の名誉を受けた。また2015年には、アジアで最初の中国の知的財産を使った第3世代単分子ゲノムシークエンサーを開発し、その成果は権威ある『ネイチャー』誌でも紹介された。2017年に万鋼・科学技術部長(科学技術相)が南方科学技術大学を視察した際には、「中国を代表する最先端の若手研究者」として、わざわざ賀建奎研究室を訪れ、「中国政府は全面的に有望な若手研究者を応援する」と激励している。

 賀建奎副教授はその一方で、「憧れのクエイク教授」を見習ってか、6つの会社を立て続けに設立し、法定代表人となった。それらは、深圳市瀚海基因生物科技有限公司、深圳市瀚海创业投资管理合伙企业、深圳因合生物科技有限公司、因合生物科技如东有限公司、珠海瀚海创梦科技管理合伙企业、珠海南柒君道科技合伙企业である。

 昨年(2017年)末から今年前半にかけて、瀚海基因は2.18億元(約35.6億円)の融資を外部から受け入れ、因合生物も2000万元(約3.26億円)の融資を外部から受けている。賀副教授は、「研究者が象牙の塔に引きこもっている時代は終わった」と公言し、「ゲノム商人」というニックネームまで頂戴した。

スター研究者

 昨年2月19日、賀副教授は、自らの「微博」(中国版ブログ)で「人類の胎児のゲノム編集の安全性解決が待たれる」と題した文章を掲載。今年1月には、賀副教授の「第3世代ゲノムシークエンサー」が、「2017年中国医薬生物技術10大発展」の1つに選ばれた。

 賀建奎副教授は、その甘いマスクもあいまって、30代前半にして、中国を代表する「スター研究者」に成り上がっていったのである。賀副教授は、「世界の医学生物界に革命を起こす」と意気込んでいった。

 そして、11月26日。賀建奎副教授は、香港でヒトゲノム編集国際サミットが開かれるタイミングで、「人類史上初めてゲノムを編集して、露露(ルールー)と娜娜(ナーナー)という双子の女児を出産させた」と発表。28日には、この国際会議で登壇し、「自己の研究成果を誇りに思う」と主張した。ついに、ルビコン河を渡ったのである。「父親がエイズ患者だったため、子供にエイズが遺伝しないようにした」と賀副教授は言い訳したが、それが売名行為であることは一目瞭然だった。

 この「革命的ニュース」は世界を駆け巡り、そして世界中の科学者たちから非難を浴びることになった。ヒトゲノム編集国際サミットでも、最終日の29日、賀副教授の行為を非難する声明を発表した。

中国政府が「手のひら返し」の理由

 賀副教授にとって何より不幸だったのは、これまで自分を持て囃し続けてくれた中国当局が、手のひらを返したように「敵対的」になったことだ。賀副教授は年末に、第15回中国青年科学技術賞を受賞することが内定していたが、急遽取り消された。科学技術部の徐南平副部長は中国中央テレビインタビューに答えて、「賀副教授が行った実験は、中国の法律違反であり、一切の研究実験を直ちに中止させる」と断言した。また、中国を代表する122人の科学者も連名で、「反対声明」を発表した。

 中国政府が一刀両断に「裏切った」理由の1つは、11月30日12月1日に、習近平主席がトランプ大統領と米中首脳会談を控えているタイミングであることだ。この米中貿易戦争、ひいては米中新冷戦の行方を占う「大一番」の前に、中国はアメリカに、余計な理由で足を引っ張られたくないのだ。早い話が、トランプ大統領が「中国はゲノムを勝手に書き換えるような国だ」とツイートする前に、火消しに走ったのである。

 賀副教授は今後、大学から追放処分を喰らう可能性があり、まさに四面楚歌である。「湖南省のアインシュタイン」は、「生物医学界の毛沢東」を夢見て、なり損ねてしまった。

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2018年11月28日、ヒトゲノム編集国際サミットに登壇した賀建奎副教授(写真:AP/アフロ)