現在、上野の東京都美術館で『ムンク展―共鳴する魂の叫び』が開催中だ。ノルウェーのオスロ市立ムンク美術館が所蔵するコレクションを中心に、約100点の作品を公開する本展は、かの有名な《叫び》も来日しており、今最も注目すべき展覧会のひとつといえよう。

あまりにも有名なムンクの《叫び》 描かれた人物の意味

『叫び』エドヴァルド・ムンク作 1893年 オスロ国立美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

『叫び』エドヴァルド・ムンク作 1893年 オスロ国立美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

仮にエドヴァルド・ムンクの名や、《叫び》というタイトルを知らなくても、口を開き耳に手を当てた、幽鬼のような人物の絵を見たことがない人はいないだろう。この有名な人物は、自分が叫んでいるのではなく、周囲の叫びのような音から逃れるためにこのポーズを取っているのだとされる。ムンクが描く絵は画家の精神を投影しており、《叫び》が示しているのも不安や陰鬱、孤独や恐怖など、深刻な感情だ。ムンクはパステルや油彩など、さまざまなバリエーションで複数の《叫び》を描いている。

それではエドヴァルド・ムンクとは、一体どのような人物だったのか。彼は幼い頃に母を、次いで姉を結核で亡くし、狂信的な信仰の持ち主である医師の父に教育された。内気で孤独な青年だったが、見た目は男前で、「ノルウェーで一番ハンサムな男」と持てはやされたらしい。若い頃は、ノルウェーのオスロからパリへ、そしてベルリンに移り、乱れた女性問題に悩みつつ、虚弱体質ながら夜遅くに下宿へ戻って絵を描くという不規則な生活を送る。不健康で神経過敏な性格であり、異性との関係性にトラブルを抱えがちというムンクの性質は、絵画作品にそのまま反映されているように思う。

あまりに強烈なインパクトのせいだろう、主題の重さとはうらはらに、《叫び》における人物は、キーホルダーやビニール人形などさまざまな形で商品化され、映画でも真似され、絵文字としても流布するなど、親しみとユーモアを伴って広く浸透している。有名さがあだになったのか、《叫び》の絵は一度ならず狙われており、1994年と2004年に盗難に遭っている。そして1994年の事件を題材にしたのが、ノンフィクション『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』だ。

囮捜査のヒーローが繰り広げる、スリリングな《叫び》の奪還劇

エドワード・ドルニック 『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』 amazonより

エドワード・ドルニック 『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』 amazonより

事件は1994年2月12日ノルウェー国立美術館で起こる。ノルウェー冬季オリンピック、リレハンメル大会が開催されるその日、国が誇る名画《叫び》は持ち去られ、しかも現場には「手薄な警備に感謝する」と記された絵葉書が残されていた。手がかりが見つからない中、ノルウェー刑務所で服役中のイギリス人の犯罪者が、《叫び》の窃盗犯と知り合いだという情報を持ち込んだ。その話が契機となり、ノルウェー当局はロンドン警視庁に連絡し、ロンドン警視庁の美術特捜班が稼働する。そして特捜班の一員であり、これまで数々の美術品盗難事件を解決してきた囮捜査の第一人者、チャーリー・ヒルに白羽の矢が立ったのだ。

《叫び》奪還のためにシナリオが作られる。内容は、さる美術館の代理人が、オスロの国立美術館から内密の依頼を受け、《叫び》を内密に買い戻したがっている、というもので、百戦錬磨の代理人が、チャーリー・ヒルの役どころとなる。窃盗犯の手がかりもつかめず、捜査が難航する中、さる目利きの画商が、顧客のひとりである前科者から耳寄りの情報を得た。聞くところによるとその顧客は、《叫び》を国立美術館に返還する段取りをつけられる者と知り合いだという。ヒルは偽名で画商に接触し、事件の関係者と危険なやりとりを交わしながら、なんとかして《叫び》を取り戻そうとする。

名だたる巨匠の名品が幾度となく危険にさらされ、盗難の後ついに戻ってこなかったという悲しい現実。途方もない価値がありながら、多くの美術品は保険に入っていないという驚愕の事実。実質的な利益を重視しているものの、単に同業者に自慢したいという動機のために盗むという犯人の心理。数回にわたる綿密なインタビューやメールのやりとりを経てまとめられた本書は、臨場感あふれる《叫び》のスリリングな奪還劇のみならず、世界の美術品を取り巻く状況や、美術品盗難という犯罪の特性、警察や美術館の組織の内情が緻密に記載されている。そして本書において、主人公であるヒルばかりではなく著者自身が、現状を憂いつつも、アート業界と美術品盗難事件というジャンルに尽きせぬ興味を寄せていることが伝わってくる。

美しき鑑定家が挑む、《叫び》を巡る事件の謎解き

『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』講談社公式サイトより(http://kodanshabunko.com/q-end-munch/)

『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの〈叫び〉』講談社公式サイトより(http://kodanshabunko.com/q-end-munch/)

『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』は手に汗握るノンフィクションだが、同じく《叫び》の盗難事件を扱った、エンターテイメント性の高いフィクションが『万能鑑定士Qの最終巻ムンクの〈叫び〉』だ。あらゆる美術品を見定める万能鑑定家・凜田莉子が謎解きを行う『万能鑑定士Q』シリーズの最後となる本書は、単独で読んでも楽しめる探偵小説である。『万能鑑定士Qの最終巻ムンクの〈叫び〉』では、上述の囮捜査官、チャーリー・ヒルが解決した1994年の事件と、2004年にテンペラ画の《叫び》が盗まれた事件を経て、今度は日本で《叫び》が消え去るという出来事が勃発。凜田莉子は《叫び》奪還のために奔走する。

『万能鑑定士Qの最終巻ムンクの〈叫び〉』は、少し天然気味の美女である凜田莉子の鮮やかな手腕と確かな知識、随所に出てくるトリビアなど、楽しめる要素満載だが、互いに複雑な感情を抱いてきた元雑誌記者の探偵・小笠原悠斗と莉子との繊細なやりとりも読みどころだ。ムンクの《叫び》というイメージしやすい絵画を通して、不安定だったふたりの関係性が、少しずつ霧が晴れていくように変わっていくさまは、「人の死なないミステリ」と銘打つ本シリーズの優しく軽快な性質を示すようでもある。


『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』と『万能鑑定士Qの最終巻ムンクの〈叫び〉』は、まったく毛色の違う作品だが、ムンクの《叫び》の盗難事件を扱っているほか、《叫び》に遺された秘密の特徴を真贋の判断材料にしているのも興味深い共通点だ。《叫び》は忘れられないインパクトを与える点だけではなく、話題性やエピソードのほか、ミステリアスな点が多いのも魅力だ。《叫び》の人物は、キャラクター化されて愛されながらも、アートや文芸にもインスピレーションを与え続けている。