私事ながら、筆者は子供の頃、あばらが浮き出るほど痩せていたため、よく「骨皮筋右衛門(ほねかわ すじゑもん)」とあだ名されていました。

これは昔から痩せた人を指(ちゃか)す時に使われる慣用句ですが、今回はこの骨皮をリアルに名乗った室町時代の悪党、「応仁の乱」で暴れ回った骨皮道賢(ほねかわ どうけん)の生涯を紹介したいと思います。

……と言っても、骨皮道賢の前半生は元より、生まれた年や場所について、詳しい記録は何も残っていません。

それもその筈、骨皮道賢の生涯について記録が残っているのは、応仁二1468年3月16日から、殺される3月21日まで、たったの6日間のみ。

「それで何が判るのか」って?

いやいや、これが結構、意外と察しはつくものです。

もちろん推測も多分に雑じりますが、それでも戦場に朽ち果てた骸(むくろ)に、一滴なりとも血を通わせ、一片なりとも肉を盛りつけて差し上げるのが、骨皮一族?の祖先に対する供養というもの。

かつて乱世の風雲荒(すさ)ぶ京の都を駆け抜けた、いち悪党の物語。どうかおつき合い頂けましたら幸いです。

氏名と出自について

若き日の道賢(イメージ)、双六博打で負けて一文無し。『東北院職人歌合』建保二1214年ごろ。

まず、道賢の名乗りである「骨皮」について、元々皮革業を営んでいた≒被差別民の出身だったという説や、自身の痩せこけた体格から呼ばれていた二つ名であるなど諸説ありますが、少なくとも

「先祖代々の名字を堂々と名乗れるような、まっとうな人生は送って来なかった」

ことは推測できます。

もしも道賢がまっとうに生きて来た人間なら、貧しかろうが庶民だろうが家名を重んじたでしょう。

と言って、真面目に皮革業を営んでいたとしても、何せ動物の死骸を取り扱う職業ですから、殺生によるケガレを嫌う仏教由来の価値観ゆえ、人々からは卑しまれたことでしょう。

次に名前の「道賢」について、史料によっては「骨河道賢入道」とあり、仏心のいかんはともかく、形だけでも出家した(頭を丸めた)事によって元の俗名「みちかた?」から、法名「どうけん」と呼ばれるようになったことが推察されます。

(※現代でも、名前の漢字は俗名のまま、音読みで法名とする事例が多くあります)

ちなみに漢字表記の「ゆれ」ですが、史料によって骨「河」だったり、道「見」、道「元」、道「源」だったり様々ですが、これも道賢が各地で暴れ回った事により、「ホネカワドーケン」という悪名が口伝えに拡散したためと言えます。

つまり、より多く人口に膾炙されたゆえの誤字表記であり、道賢の武勇を裏付ける証左と解釈することもできるでしょう。

いずれにしても、道賢が貧しい暮らしをしてきたことが察せられ、故郷で食い詰めて京都に出て来たものと考えられます。

名所司代・多賀高忠との出会い

松平定信「多賀豊後守高忠像」寛政七1795年。

……さて、食いつなぐため京の都に出て来た道賢は、後に室町幕府の侍所所司代(さむらいどころしょしだい)である多賀豊後守(たが ぶんごのかみ)こと新左衛門高忠(しんざえもんたかただ)に目付として取り立てられるまでは、悪党として京都内外で暴れ回っていたことが推測されます。

「獄吏の下に居り、よく盗賊の挙止を知る者を、目付と号す。その党魁(とうかい)名は道元(賢)……」

※東福寺の禅僧・雲泉太極の日記『碧山日録』応仁ニ1468年3月15日条より。

目付(めつけ)とは文字通り「目を付ける=監視役」を意味し、主に武士たちや悪党らの(もちろん庶民も)動向を監視、謀叛や犯罪の兆候があればそれを報告する職務。

自身が悪党であった(であろう)道賢は「昔取った杵柄」として、長く培った独特の「嗅覚」を見込まれたのでしょう。

(※現代でも、元空き巣や犯罪者が警察に協力し、防犯アドバイザー的な役割を担うことがあるのと似たようなものです)

また、道賢が仕えた高忠は文武両道の人徳者、仁義をわきまえ公明正大な職務態度で「名所司代」として知られました。

赴任した直後に(前任者が手こずっていたであろう)土一揆をたちまち鎮圧したかと思えば、生活に困窮する者がいればこれを助け、捕らえた悪党の中に才ある者を見出せば、罪を赦して召し抱え、世の役に立てるなど、その声望が偲ばれるエピソードが数多く残っています。

もしかしたら、道賢もかつて高忠に捕らわれながらも赦され、その漢気に心服した一人なのかも知れません。

なんだか人格者を慕って集結する好漢たちの物語『水滸伝』みたいですね。

勃発した応仁の乱、高忠との訣別

作者不詳・細川勝元肖像。17世紀。

かくして高忠の下で目付として盗賊の取り締まりなど活躍していた道賢ですが、やがて二人にも訣別の時がやってきます。

応仁元1467年、室町幕府の内部で勃発した家督争族&権力抗争が、将軍家までも巻き込んだ大規模な武力衝突にエスカレート

後世に言う「応仁の乱」ですが、高忠と道賢は、総大将の細川勝元(ほそかわ かつもと)が第8代将軍・足利義政あしかが よしまさ)を傀儡に担ぎ上げている東軍に属して戦います。

しかし、タイミングは不明ながら道賢は勝元によってヘッドハンティングされていたらしく、高忠とは別行動をとるようになります。

その動機は不明ですが、目先の恩賞に欲を出してあっさり鞍替えしたのかも知れませんし、あるいは東軍の総大将である勝元から別動隊を組織するよう命じられた高忠に「今こそ旦那への恩返し」とばかり、気風を示したのかも知れません。

しかし、道賢がその胸中を明らかにして、高忠に別れを告げるエピソードでも残っていればよりドラマチックなのですが、残念ながらそのような記録はなく、今も謎のままとなっています。

火つけ・闇討ち、お手の物。応仁の乱で大活躍

『秋夜長物語絵巻』より。夜襲に放火に、暴れ回る足軽・悪党たち。

まぁ、そんなことはともかく、勝元の足軽大将(あしがるだいしょう)取り立てられた道賢は呉服の織物や金作(こがねづくり)の太刀などを拝領したと言います。

悪党時代からの人脈を駆使して300の兵を掻き集めた道賢は稲荷山(現:伏見稲荷大社の裏山)を足がかりに、遊撃隊として西軍陣営にたびたび夜襲や放火を仕掛けるなど、後方攪乱を担当したそうです。

「……その徒三百余人を率い、稲荷(山)に蝿集(じょうしゅう)して、西軍の粮道を絶つ」
※先述『碧山日録』同日条の続き。

夜襲や放火は悪党時代からのお家芸、ここでも「昔取った杵柄」を奮って活躍した道賢。

応仁二1468年3月16日から18日にかけて、二度にわたり七条から六条東洞院にかけての街々と、五條大宮から高倉にかけて五町余(一町は約0.99ヘクタール)を火の海にしたのをはじめ、京都各所で神出鬼没、大いに暴れ回ったそうです。

その一方、襲撃を受ける側の西軍陣営はほとほと困らされたようですが、どのくらい困ったのか、と言いますと……。

西軍が稲荷山を総攻撃!道賢、絶体絶命?

歌川国貞による山名宗全肖像(「ふじの方・山名宗全」)。大層お怒りのご様子。

応仁二1468年3月21日

とうとう本気で怒った西軍の総大将・山名宗全(やまな そうぜん)が、斯波義廉(しば よしかど)、朝倉孝景あさくら たかかげ)、畠山義就(はたけやま よしなり)、大内政弘おおうち まさひろ)といった東軍の名だたる大将とその軍勢をフル動員して、稲荷山を完全包囲してしまうくらいには悩まされ続けていたようです。

上京から稲荷山のふもとまで、数万の軍勢が陸続と南下する様子を、興福寺前別当経覚(さきのべっとう きょうがく)は、このように記録しました。

「一条より稲荷辺に至り間断なし。凡そ見事なり」
(意訳:京都の一条から伏見稲荷までの約4~5㎞の道のりを、びっしり隙間なく軍勢が進撃していく。ものすげえ!)

たった300人に対して数万の兵をもって臨むとは、これ以上に道賢の「戦上手」を評するものはないでしょう。

……が、いざ包囲されている道賢にしてみれば、そんなもの「迷惑千万」以外の何物でもなく、こうなってしまうと、さすがの道賢にも勝ち目がありません。

そして戦闘が始まると、伏見稲荷の社殿群(本殿、文殊堂、一重塔、本地堂、御影堂、五社御輿堂など)はことごとく炎上。

「荷山(稲荷山)の神祠、一時に焼灰(しょうかい)す。見る者悲泣(ひきゅう)す」
※『碧山日録』3月21日条。

もはや絶体絶命の窮地、ここで華々しく戦って散るか、どんなに生き汚なかろうと、再起を期して逃げ延びるか。

という場面で後者を選ぶのが、道賢が「武士」でなく「悪党」たるゆえん。

何とでも言わば言え、笑わば笑え。最後に笑った者こそ勝つのです。

……となれば、後は三十六計なんとやら。果たして道賢のとった秘策?とは……。

最期は女装!?……今日骨皮と成すぞかはゆき

女に化けて逃げる道賢(イメージ)。うまく脱出できるでしょうか?

果たして道賢は「女装」で脱出することにしました。

(※古来より、女性は検分が男性よりは緩めなためか、包囲・監禁下から脱出する手段として、ちょくちょく使われています)

先日、勝元からもらった織物か、あるいは日ごろの略奪でどこぞの女から引っぺがした着物かは知りませんが、それをかぶって板輿(いたごし)に乗り、手下に担がせて山を下りました。

板輿とは人が座る板に担ぎ棒をつけたもの(お神輿の土台に人が乗るイメージ)で、状況から考えて、たぶん戸板か何かと思われます。

設定は……おそらく「悪党どもに拉致されて稲荷山へ連れ去られていた良家の令嬢(自称)が、混乱に乗じて使用人と一緒に逃げてきた」とか何とか言い繕うつもりだったのかも知れません。

しかし、道賢の猿芝居はあっさりバレてしまい、たちまち斬り殺されてしまいました。

道賢の辿った末路は、いったい誰が広めたのか、たちまち京じゅうに知れ渡り、口さがない京雀らは

昨日までいなり廻りし道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき
【意訳】昨日までは稲荷山で威(い)を鳴らして=威張り散らして暴れ廻っていた道賢が、今日は骨と皮になって=殺されてしまった。せっかく女装までして可愛かったのに、お気の毒さま。

※「かはゆき」には、現代の「かわゆい」同様「可愛い」という意味と、「気の毒、かわいそう、哀れ」などの意味があります。

と落首(風刺や皮肉を込めた歌)を貼り出したそうですが、こういう仕事の早さは、実に京都人らしいですね。

まとめ・足軽の台頭と戦国時代の幕明け

『秋夜長物語絵巻』より、戦いはなおも続く。

……とまぁ、こんな具合に歴史的には6日間しか記録の残っていない骨皮道賢の「武勇伝」を紹介してきましたが、彼をはじめとする「悪党」や「足軽」の存在が、我が国における戦争の在り方を大きく変えていくことになります。

それまでの社会秩序が崩壊し、新しい戦国の世が産声を上げた揺籃期にあって、数知れぬ「道賢たち」が戦い、名も知られずに死んでいったのでした。

「人(1)の世(4)虚(67)しき、応仁の乱1467年)」

かつてそんな語呂合わせで覚えましたが、京都の方にとっては「ついこの前の戦」だそうで、ちょっと洛外に出れば、野原に骸骨(しゃりこうべ)の一つも転がっていそうな雰囲気です。

とうの昔に朽ち果てた「可愛い」道賢はじめ、多くの骨と皮たちが、安らかであるよう願っています。

参考文献今谷明『日本の歴史9 日本国王と土民』集英社

関連画像