大河ドラマ「西郷どん」(原作:林真理子 脚本:中園ミホ/毎週日曜 NHK 総合テレビ午後8時 BSプレミアム 午後6時) 
第47回「敬天愛人12月16日(日)放送 演出:野田雄介

西郷どん 完結編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版

抱きしめ飲み込み連れ去りました
1年にも及ぶドラマの最終回。
冒頭、場面は、昭和37年の京都。39話に出てきた助役の川村(川口覚)と菊次郎(西田敏行)のターンだ。
父・西郷隆盛がどうして死んでいったのか、その思いを菊次郎は想像する。

「新しい時代が大きな波になって押し寄せてきたとき、どうしてもその波に乗りきれない人がいるものです
(中略)取り残された侍たちを抱きしめ飲み込み連れ去りました」

林真理子の原作では西郷に「区切りにいる者は死ななくてはならん」と言わせている。もう少し長めの台詞もあるが、おおむねこれでわかる台詞である。
そこを中園ミホはもう装飾的な表現にして、菊次郎に語らせた。
西田敏行の語りには「取り残された侍たち」への深い鎮魂の響きがあった。

これが「西郷どん」に描かれた西郷隆盛のすべてかなあとずーんと来た。
そして、鈴木亮平は、この台詞に合う、抱きしめる愛情、飲み込む度量、連れ去る強さをもった西郷をみごとに演じていたと思う。立派!

はつらつと戦いました
場面は明治10年へ。西郷の最後の戦いだ。
西郷と仲間たちはボロボロになりながら、鹿児島の城山──桜島が見える場所に戻って来た。
こここそ、最初の場所。少年の頃、仲間たちで登り「cangoxima」と書き込んで埋めた場所。
そのときのメンツは、西郷と新八(堀井新太)のみ。

原点に戻った西郷と仲間たちは「はつらつと戦いました」というナレーションのごとく、はつらつとした戦闘シーン。悲劇を前にしたシーンではあるが、たまりにたまった鬱憤を晴らすようなシーンでもある。
だが、政府軍の圧倒的な攻撃によって、西郷軍は山の上に追いやられる。
372人の生き残った者たちが、アコーディオンの演奏「ラ・マルセイエーズ」でひとときの安らぎを得る夜。
明けて翌日。赤い旗「新政厚徳」が立ち、地面には彼岸花が咲き乱れる。
大久保が総攻撃の命令を出した。夕刻5時までに降伏すれば助けてくれると、大久保の情けに西郷は微笑む。
大久保を救うために西郷は自ら犠牲になることを決意する。

その頃、東京では優雅に展示会が行われている。博覧会によって日本をよくしようという大久保の考えだ。日本中の名産が展示されているが、鹿児島だけ参加してない。
会場には赤がそこここに使用され、滅びゆく西郷軍たちの赤と響き合う。最後まで美術スタッフはいい仕事をしていた。
やり方は違うが西郷も大久保も、日本から戦をなくすという思いは同じなのだ。
「おいの死とともに新たしか日本がうまれるとじゃ」と西郷。
「百姓や町人による政府軍は強い」と感心する西郷。
百姓や町人の時代が来て、侍は滅びていく。桜島を見ながら、最後の戦いに赴く。

負けるとわかっての戦い。ここまで来てもなおみんな、つらつとしている。笑顔の見せ場があればあるほど哀しい。哀しいがこの人たちは最後までやるだけやったのだ。
川路(泉澤祐希)と桐野(大野拓朗)の因縁の戦いも描かれた。

西郷の最後。迎え撃つ銃弾に怯まずのっしのっしと前進していく。
その時、鈴木亮平の目はかっと大きく見開かれ、目の中には光が。
最後に日本人の公的イメージに近づけてきた。

こうして西郷の死と共に戦は終わる。

残された人たち
最終回は、これまで出てきた人たちが万感の思いをこめて、西郷を思う場面がたくさん出てきた。
島津久光青木崇高)は斉彬(渡辺謙)の写真と共に。
46話で西郷に解き放たれた犬・ツンとゴジャが薩摩の糸(黒木華)のもとに戻ってくる。
西郷の死を知って号泣する一蔵。
「おれみたいに逃げればよかったのに」と慶喜(松田翔太)。ふき(高梨臨)も傍らにいる。
慶喜の描いた牛の絵からの、星空。
真っ赤な火星を「西郷星」と呼んでいる庶民たち(ちなみに牡牛座にも赤い星があってアルデバランという)。
同じ空の下、勝海舟遠藤憲一)が西郷と坂本龍馬小栗旬)を思う。
翌年、新富座では團十郎が西郷を演じ(「西南雲晴朝東風」という歌舞伎)人気を博した話をする岩倉具視笑福亭鶴瓶)。

愛加那(二階堂ふみ)が歌う。これもまた鎮魂歌として清く美しく響く。

糸(黒木華)は、星のように人に見上げられたりおがまれたりして喜ぶ人ではないと言う。
「低いところで弱い人に寄り添ってあちこち走りまわっていた」。
一話の、西郷の銅像を見た糸が「うちの旦那さんはこげんな人じゃあいもはん!」「ちごっ」と叫び出したことにつながった。

ふたつのEND
最終回はエピローグがたっぷり。
西郷が死んだ翌年、大久保が暗殺される。そのとき彼は初心の象徴であるカステラの包み紙をまだもっていた。
意識が遠のくなか「忘れもんをした」(「それはおはんじゃ」)と吉之助が大久保を迎えに来た13話の回想シーンが入る。
まるで、死んだ西郷が大久保をお迎えに来たのかと思わせるようなシーン。
そこにタイトルバックが入り、これまでの名場面がどんどん出てくる。

あゝ「西郷どん」、吉之助と大久保の話だったんだなあ、あの世でふたり仲良くしてね…と思わせて……

まだ終わらない!

西郷が撃たれた場面に巻き戻る。
なにやら「太陽にほえろ」の人気刑事殉職シーン(70年代のアメリカン・ニューシネマともいえる)みたいに傷だらけで青空を見上げて、「もう ここらでよか」と西郷の最期の言葉と言われている台詞をつぶやく。これ、まだ、とってあったのね。
そして桜島。

今度こそEND。

西郷、大久保友情ENDか、
西郷、孤高のENDか、
選べる2タイプという感じである。
いやいや何言ってんの、これは大久保ENDと西郷END、ニコイチでしょ、という声もあるだろう。でも、それなら西郷、大久保友情ENDで十分伝わると思うのだ。
やっぱり、がんばった鈴木亮平に最後はたっぷり演じて締めてもらわねば、とかいろいろあったのではないか。

この最後を見て思ったのは、最近のドラマ作りの難しさだ。
政治的な話となると、いろいろな考え方があるので偏らない表現を配慮しないといけないのがドラマである。
とりわけNHKは公共放送なので、もともと偏りにはひじょうに気を使ってきたわけだが、SNSが発達して、瞬時に誰もが意見を発することができるようになってから、気をつけ方が尋常じゃなくなってきているような気がしている。
ポリコレという言葉が一般化して、あらゆるものに配慮しないとならず、あちらを立てればこちらが立たない状態に悩んだ結果、どっちつかずか、あっさりし過ぎて物足りないものになりがち。
西郷どん」はその波に飲まれた悲劇の大河ドラマだったように思う。

戦国ものならまだしも、幕末ものはまだ記憶が生々しい。戦ったあちらとこちらのどちらの視点で描くか、悩ましい。
結果、西郷隆盛は、清濁併せ呑む、聖人のように、といって天の人ではなく、あくまで地に足をつけ、庶民のために行動した人として描かれた。
鈴木亮平は、このスーパーヒーローではない西郷隆盛を立派に演じきった。
思想についてはあまり触れず、歴史を判断せず、この時代の日本に生きていた人々の生活を偏ることなく俯瞰して描き、女性や子供、使用人たちのこともしっかり描き、演じる俳優の醸し出す空気、その生々しさが生み出すグルーヴでドラマを押し切ろうとした脚本は、最終回でどうにかこうにか実を結んだ気がする。ご苦労されたのだろうと思う。

来年の大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は「史実に基づいたフィクションです」とあらかじめ断りを入れているそうで、予告でも「無謀じゃないと時代は前に進めない」「あなたを少し無謀にさせるかもしれない」とやたら「無謀」「無謀」と煽っている。「史実に基づいたフィクションです」も配慮中の配慮という気もするが、それさえお断りしておけばあとは自由にのびのび描けるのなら、それはいいことではないだろうか。
解き放たれいきいきはつらつと暴れまわるドラマが見たい。

西郷の「もうここらでよか」という言葉は、いろいろな意味に取れるような気がしてくる。
ここまでやったからもう「ここらでよか」っていう意味らしいが、
来年終わる平成も「もうここらでよか」だし、
配慮ばかりするのも「もうここらでよか」だし、
誰のなかにも「もうここらでよか」と言いたいことがあるだろう。
諦めの「もうここらでよか」ではなく、未来のための「もうここらでよか」を。
そう思うと、最後に「ここらでよか」を入れたことにも説得力は俄然出てくる。

最後に、「西郷どん紀行」で西郷山公園が熊吉(塚地武雅)が庭整備していた場所と紹介され、それを思うと感無量に。
その土地に従道(錦戸亮)が西郷のために家を建てようとしていたと涙しながらうな丼を食べているシーンも良かった。

大河ドラマ「西郷どん」全話レビュー もうここらでよか(ろうかい)。
(木俣冬)