サラリーマンと比べて、スポーツ人は破格の富と名声を手にする代わりに、多くの不確定要素と戦っています。勝負は時の運ですし、どれだけパフォーマンスの質を高めても、常にケガのリスクと隣り合わせにあるからです。目の前にそびえるハードルを越えるため、何かきっかけがほしい-。スポーツ界に改名する人が多いのは、そんなところに理由があるのかもしれません。
今シーズンからオリックスから日本ハムに戦いの舞台を移した金子千尋投手ですが、入団会見では登録名を「弌大」に改名することを発表しました。読みは「ちひろ」のままでしたが、普段あんまり目にしない漢字とあって、ファンの間でザワザワしたことも事実です。このように改名と難読は密接不可分とも言えます。過去、ファンがザワついたスポーツ選手の改名について、今回は特集したいと思います。
【片岡治大(やすゆき)※易之から改名】
元々は「保幸」でした。社会人野球の東京ガス時代に「易之」と変えており、西武時代の2012年12月30日に「治大」とすることを発表しました。
2008年にはライオンズの日本一に貢献したスピードスター。2010年までは4年連続盗塁王に輝くなど、球界屈指のリードオフマンとして活躍していましたが、2012年は右手首の負傷もあって出場52試合にとどまり、打率2割2分5厘、2本塁打、19打点と本領発揮ならず。同年秋に手術を行い、完全復活を目指しました。
しっかり治して、大きく羽ばたくんだ-との思いが伝わってきます。その一方でファンの間では「なかなか『やすゆき』とは読めない」「むしろ『ちひろ』ではないのか」との声が挙がったことも事実です。片岡選手は2013年オフ、巨人にFA移籍して、同年のリーグ優勝に貢献。2017年限りで現役を引退し、今はファーム内野守備走塁コーチとして、後進の指導に当たっています。
【水原円裕(のぶしげ)※茂から改名】
プロ野球創世記の偉人です。高松商、慶応義塾大を経て、1936年に東京巨人軍へ入団。1942年には最高殊勲選手に選ばれますが、この年に応召されます。厳しいシベリアでの抑留を経験し、1949年夏に帰国。後楽園球場で行われていた巨人・大映のダブルヘッダーへと駆けつけ、試合前に観衆へ帰還を報告した時の言葉「水原茂、ただいま帰ってまいりました」はプロ野球史に残る名ゼリフです。
監督としても読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの3球団で指揮官を務めました。当時のメジャーリーグからブロックサインやワンポイントリリーフを採用するなど、新戦術を導入した知将でもありました。同じ香川県の出身で早稲田大学からのライバル、巨人から西鉄ライオンズに去ったライバル三原脩との日本シリーズは「巌流島の決闘」と言い伝えられています。
そんな水原茂監督が姓名学に興味を抱き、「円裕(のぶしげ)」に改名したのは1955年のこと。ちなみに1950年に巨人監督へと就任以降、1951~53年には3年連続日本一を達成しています。バリバリの名将の改名に世間がザワザワしたことは想像に難くありません。なんてったって読めませんし…。
そして55年以降、円裕監督は5年連続リーグ優勝。いずれも日本シリーズで敗退してしまい、60年からは「茂」に戻るのですが、5年連続リーグVは凄い成績です。名将はどんな名前であろうと名将だということでしょうか。元も子もないけど。
【花田虎上(まさる)※勝から改名】
言わずと知れた第66代横綱「若乃花」。「お兄ちゃん」の愛称で親しまれ、若貴フィーバーを巻き起こし、史上初の兄弟横綱としても角界をリードしてきました。現役引退後は藤島親方を襲名し、後進の指導にあたった後、日本相撲協会を退職。青年実業家やスポーツキャスターとしても活動し、さらにはアメフトの世界に飛び込むなど、一つの場所にとどまることなく常に挑戦を続けていく姿勢には、今もなお多くのファンがついています。
そんな「お兄ちゃん」が芸名の改名を発表したのは2011年4月のことでした。それまでの「勝」という名が割となじみのある名前だったため「虎上」と書いて「まさる」と読むという改名は大きな話題になりました。改名によって字画が変わり、「多くの人と接することができる」という意味を持ったそうです。
あれからもうすぐ8年。違和感が徐々に消え「虎上」を「まさる」と読むことにも人々は慣れてきました。そして「若貴」は今もなお、メディアの寵児のままで居続けています。あらためて、すごい兄弟です。
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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