未だ、喪失感が晴れない。ダイナマイト・キッドとの別れを悲しむのは二度目である。一度目は、1991年末。その年の全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦(日本武道館)第3試合が始まる直前、何の予兆もなく場内にアナウンスが流れた。
「次の試合に登場するダイナマイト・キッド選手は、本日この試合をもって、現役生活を引退することになりました。これが最後のファイトになります。より一層のご声援をお願いします」
キッドジャイアント馬場に引退を申し出たのは、この3日前だったという。

キッド引退を報じる週刊プロレス(NO.469)に、当時編集長のターザン山本はこんな文を載せている。
「とにかく“気配”で、勝負してくるレスラーだった。誰と勝負しているかというと、もちろん、ボクたち観客とである」
昭和55年1月、新日本プロレスに初登場した時、キッドは『観客に甘い顔をみせるな』と叩き込まれた。ファンがいると、オフタイムでも、絶対に笑顔をみせない。サイン色紙を突き出されると、それを奪い取り、破って地面に叩きつけたこともある。ファンはそれをみて、怒るどころか、恍惚の表情をしていた。プロレスファンの“ファン心理”とはそういうものである。ファンと気楽に接したり、甘い顔を見せると、夢がなくなり、尊敬の念も薄れてしまう。その意味でキッドは、最後まで夢を守り続けたレスラーだった」

何人のレスラーから「キッドに憧れていた」という言葉を聞いてきたことか。とても数え切れない。代表的な選手をパッと挙げると、高田延彦獣神サンダーライガー棚橋弘至菊地毅、中野龍雄、クリス・ベノワ etc……. もっともっと、メチャメチャいたはずだ。みんな一度はキッドコピーになり、亜流では敵わないと気付いて自らのスタイルを探し始めることになる。中にはかなりいい“コピー”もいたが、当然ながら誰も本家には敵わなかった。本家並みの試合をしていたら、体が壊れてしまう。
キッドが引退を表明した時の年齢は33歳。引退試合の前日、12月5日に誕生日を迎えたばかりであった。その頃、すでにキッドは歴戦のダメージとステロイドなど薬物の過剰摂取によって肉体が蝕まれていた。

その後のキッドは93年7月に地元イギリスで現役復帰を果たし、96年10月にはみちのくプロレスの両国大会「竹脇」へ来日したが、結果的にこれがキッドのラストファイトとなった。

ダイナマイト・キッド佐山聡は対極に位置していた
『爆弾小僧 ダイナマイト・キッド DVD−BOX』でのインタビューで、キッドは「俺のプロレス生命を縮めたのはサヤマとの試合だ」とはっきり口にしている。

長州力による「俺と藤波は同じコインの表と裏」という名言は有名だが、キッドと初代タイガーマスクはまさにそんな関係性だった。キッドの頭の中には、やはり佐山聡が一番残っていた。

キッドが他界した翌日、12月6日に佐山の主催するリアルジャパンの興行が行われたという事実。なんと、運命的なのか。リングでマイクを握った佐山はショックを隠せずにいた。
タイガーマスクがあるのはダイナマイト・キッドのおかげです」
両者ともに「タイガーなくしてダイナマイトなし、ダイナマイトなくしてタイガーなし」と感じていた。

鼻っ柱が強くてぶっきらぼう。そんな印象のキッドなのに、プロレスの規律には従順だった。彼が身上としたのは「己の100%を振り絞ること」、ただそれだけだった。十中八九かわされるであろうダイビング・ヘッドバットを渾身の力で繰り出すキッドの姿を、我々は何度見てきたことか。
プロレスラーとしての挟持を保つためケンカマッチを展開したこともあったが(昭和57年、姫路での星野勘太郎戦が有名)、「シュートマッチをやらかした」「大番狂わせを起こした」なんて話は聞いたことがない。掟破りを起こしたことは皆無。試合内容と姿勢のみで既存を刷新した、超保守的な革命者。

その点で、キッドはライバル・佐山聡と実は対極に位置していた。かつて、佐山は「新日本プロレスで試合を……いや、芝居をしてきました」と発言したことがあった。プロレスラーという職業そのものにアンチテーゼを投げかけたのが佐山だ。
キッドは佐山と正反対の方向から同業者に警笛を鳴らす存在だった。彼が訴えたメッセージは、ただ一つ。「プロレスラーとしてそれで恥ずかしくないのか」。試合内容と姿勢で、痛烈に投げかけていた。キッドアンチテーゼは実を結ぶ。キッドの信捧者が後を絶たない現状が、それを証明している。

プロレスライターの新井宏氏は、かつてキッドとこんな会話を交わしたことがあるという。
キッド なぜ自分は日本で人気が出たか。それはデンジャラスなことをしたからだ。
新井 そうじゃない。あなたはガッツを見せたからだ。デンジャラスなことはそのあとについてきて、最初にガッツありきだ。あなたは日本的なガッツを見せてくれたから、日本人のハートを揺さぶったんだよ。
(「プロレス激本」NO.9 双葉社より)

規律からはみ出すことなく無血革命を行い、成就させた稀有なレスラー。事件を起こして名を刻むよりも、よっぽどしんどいことをやっていた。

とうとう「ダイナマイト・キッドジ・エンド」だ
一度目の引退を表明した際、キッドは口にした。
ダイナマイト・キッドジ・エンドだ」
その後、前言を翻して現役復帰を果たしたキッド。しかし、それからの選手生活は3年ほどで幕を閉じた。

2013年にキッドドキュメント映画が制作された際は、イギリスで試写を兼ねたイベントが開催された。そこに車椅子姿で姿を現したキッドは「俺が公の場に出るのはこれが最後になるだろう」と言った。
2016年、NHK BSプレミアム『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』がタイガーマスクを特集した際、番組はキッドとのコンタクトに成功。その近影は、日本のファンにも紹介されることとなった。

もう、次はないのだ。

プロレスファンの嗜好は千差万別、多種多様。でも、「ダイナマイト・キッドが嫌い」なんて人には会ったことがない。本当に会ったことがない。
いつも、キッドのことを考えて生活していたわけではない。でも、ダイナマイト・キッドのいる世界といない世界とでは、絶対に違う。

キッドが他界したのは2018年12月5日キッドの60回目の誕生日だった。
(寺西ジャジューカ)

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