よく「二世なんとか」と言うように、親が有名人だと、たとえ当人の努力で成功しても「親の七光り」などと言われてしまいがち。

そんな風潮は千年前から変わらないようで、今回は「百人一首」にも登場する女流歌人・小式部内侍(こしきぶの ないし)がまだ幼かった頃のエピソードを紹介したいと思います。

女流歌人・和泉式部の娘として誕生

菊池容斎『前賢故実』より、和泉式部。19世紀

時は平安・長保元999年、橘和泉守道貞たちばなの いずみのかみ みちさだ)と和泉式部(いずみ しきぶ)の間に長女が生まれました。

その本名(諱・いみな)は不明、やがて母親と共に藤原彰子(ふじわらの しょうし。時の皇后陛下)に仕えたことから、母親(式部)と区別するため小式部(こしきぶ)と呼ばれ、内侍司(ないしのつかさ。女官のみで構成される朝廷の秘書課)に勤めていたので小式部内侍と呼ばれるようになったのでした。

ちなみに、母親である和泉式部も本名は不明、夫の任国であった和泉(現:大阪府南西地域)を女房名に冠したものです。

諱は「忌み名」とも言う通り、当時の女性は自分の本名を公に出さず、記録にも残さないことが多かったため、女房名(にょうぼうな)と言った通称で呼ばれることが多くありました。

幼くして歌才を顕すも……心ない中傷

さて、世に「栴檀(せんだん。香木の一種)は双葉より芳(かんば)し」と言いますが、母親の歌才を受け継いだ小式部内侍は、幼少の頃より利発で、大人顔負けの歌を次々に詠んだと言われます。

さて、そうなると宮中には才能を嫉妬する手合いもあったもので、中には「小式部内侍は、母親に代作してもらっているに違いない」「そもそも母親が有名な女流歌人だから、親の七光りで周囲の評価も甘くなっているのだ」など、中傷されることもあったようです。

まぁ、陰で言っている分には知らぬふりをしてやればいいのですが、よせばいいのに真っ向から小式部内侍をからかった者がおりました。

それが四条中納言(しじょうの ちゅうなごん)こと藤原定頼(ふじわらの さだより)でした。

とっさの怒りに詠まれた「あの歌」

定頼は後世「百人一首」にも収録されるほどの歌人であり、自らの才能に驕りがあったのかも知れません。

ある日、両親が丹後国(現:京都府日本海地域)へ赴任してしまい、小式部内侍だけが京都に残っていた時のこと。

歌合(うたあわせ。歌の大会)に出場が決まった小式部内侍に、定頼がやってきてこんな意地悪を言いました。

百人一首」より、四条中納言こと藤原定頼

あ~っれぇ~?小式部ちゃ~ん?ママに『お歌作って下さ~い』ってお願いした手紙のお返事、ま~だ来ないのかなぁ~?(とっても意訳)」

定頼のニヤニヤ笑いが目に浮かぶようですが、馬鹿にして立ち去ろうとするその裾を掴んで、小式部内侍は言いました。

おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて!」

怒りに詠んだ即興歌は、まさに当意即妙の一言でした。

四条中納言も逃げ出した!名歌に込められた技巧とは

小林清親筆「教導立志基」より、小式部内侍と藤原定頼。明治十九1886年

百人一首」にも載っているこの歌には、大きく二つの意味があります。

一つ目の意味は、ストレートに

大江山や生野(いずれも現:京都府福知山市付近。諸説あり)への道のりは遠いので、天橋立(現:京都府宮津市)にいる母からの文(ふみ。手紙)は届いて=見ていません

というもので、もう一つの意味は、少しひねって

大江山に行く、野の道は遠いので、(もっと遠い)天橋立にはまだ行った(踏み、見た)事がありません

というものでした。

生野と「行く野」、文と「踏み(到達)」をとっさに掛詞(かけことば)とする小式部内侍の機転にすっかり狼狽えてしまった定頼は、歌には歌を返すマナーも忘れて逃げ出してしまい、すっかり恥をかいてしまったそうです。

女流歌人として地位を確立

これ以来、小式部内侍を「親の七光り」などと馬鹿にする者はいなくなり、めでたく女流歌人としての地位と名声を確立していきました。

(※もしかしたら、母親が丹後国へ旅立つ前に、こういう事態を想定して作っておいた、と邪推できなくもありませんが、さすがに野暮というものです)

むつまじき男女(イメージ)、鎌倉時代「長谷雄草紙」より。

そして、母親と同様に恋多き人生を歩むことになるのですが、その華麗な恋人たちの中に、なぜかあの定頼もラインナップされており、実に男女の仲とは不思議なものです。

(※あの意地悪な定頼の、どこが良かったんでしょうね。また、年齢差も気になるところです)

その後・受け継がれる歌才と夭折の哀歌

しかし「佳人薄命」とはよく言ったもの、万寿ニ1025年11月、藤原権中納言公成(ふじわらの ごんちゅうなごん きんなり)の子を出産した際に亡くなってしまいます。まだ20代半ばでした。

※病床の小式部内侍(イメージ)。

まだ二十代も半ばの花盛りというのに……母親の和泉式部は悲しみのあまり、歌を詠みました。

「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」

【意訳】私の娘(小式部内侍)は母と子供を遺して、どちらのことが、より心残りでしょう……きっと子供の方でしょうね。現に私は、娘であるあなたを亡くしたことをこんなにも悲しんでいるのだから。

この歌は哀悼歌の傑作として『後拾遺和歌集(ご しゅういわかしゅう)』にも収録され、我が子を亡くした親の悲しみを現代に伝えています。

ちなみに、小式部内侍はこの子以外にも、藤原左近衛大将教通(ふじわらの さこのえのだいしょう のりみち)との間に息子を、藤原春宮少進範永(ふじわらの とうぐうしょうしん のりなが)との間に娘をもうけており、それぞれ歌才が受け継がれていったそうです。

終わりに

もしかしたら、彼らもまた「和泉式部の孫で、小式部内侍の子である」ことを理由に「親の七光り」などと言われ、それぞれに闘いがあったのかも知れません。

しかし「運も実力の内」と言うように、たとえ偶然であってもその親から生まれたのも何かの縁であって、持って生まれたものを活かすも殺すもその人次第なのだと思います。

七光りに嫉妬する側にしても、必ず誰かから生まれ、何かを受け継いだことに違いはないのですから、それを活かすよう心がけた方が、より人生を充実できるのではないでしょうか。

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