人生に何度あるか分からない「改元」の年の正月なので、元号を改めるということについて考えてみたいと思います。

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 現在30代中半より年長の方は「平成」という元号を記した半紙を、頼りなさそうな表情の「平成おじさん小渕恵三氏がぶら下げているシーンを記憶しておられることでしょう。

 あの当時は、しきりと4コマ漫画などにも取り上げられたように思います。

 当時学生だった私には「平成」が「平城」と似て見え、「平城京」といえば奈良の都ですから、「いったいこの大仏開眼みたいな時代錯誤のネーミングは何事か?」 と思ったものです。

 後から明らかになったところでは、東洋史の山本達郎・東京大学名誉教授の提出した案だったようです。

 元号の制定は「元号制定委員会」なるものが(多分形式的に)承認する手はずとの報道で、原案は誰かが考えるとして、時の首相や内閣官房長官が深くコミットするらしいことを知り、竹下登氏らしい選択だなと思った記憶があります。

 ということは、次の元号は安倍晋三色の強いものになるということなのかしら、などとも思うわけですが・・・。

 どうやら竹下チョイス案らしいソレに権威づけする「元号制定委員会」として、知らなくない人々が並ぶラインナップを見て、ちょっと考えてしまいました。

 平成の元号を承認したことになっている「有識者」として

池田芳蔵 三井物産元会長 日本放送協会会長(当時)

久保亮五 東京大学理学部物理学科名誉教授

小林興三次 読売新聞社長・日本新聞教会会長

中川順  日本民間放送連盟会長

中村元  東京大学文学部印哲学科名誉教授

西原春夫 早稲田大学元総長 日本私大連合会長

縫田曄子 国立婦人教育会館元館長 NHK解説委員(女性初)

森 亘  東京大学総長(当時) 医学部教授 国大協会長

 の8人の名が挙がっていたのですが・・・。

 財界出身で初のNHK会長となった池田氏は、おかしな国会答弁やら言い間違いやらで話題の人物でしたし(実際、3月に国会で会長不適格とされ末日付で降ろされました)。

 久保先生は私が学んだ物理学科の大教授で偉大な業績をお持ちですが、年末の物理学科の会合で「そろそろ物理も解くべき問題がなくなっちゃったんじゃないかな」などと発言したりして、あらあらと思ってもいましたし・・・・。

 中村元、森亘といった方々も穏当というか、あまりノーを言う感じではなく、西原氏は私大連合会長としてであるのだろうけれど、「早稲田は竹下さんの母校だしなぁ」とか思ったものです。

 また、ともかくNHK民放、新聞と、メディアにやたら気を配り、NHK生え抜きで女性初の解説委員に就任したのが縫田さんで、「女性にも配慮しましたと形をつけたのだな」など、仕かけが見える腰けかけ人事と思われました。

 一応形だけ整えたメディア4人、学者4人というバランス、こんなのでいいのかと、当時は生意気盛りの学生だった私は率直に感じたものです。

 同時に、皇太子(現在の明仁天皇)も因果なもので、こんなふうに他人が議論して、奈良時代みたいな名前をつけられてしまうのか、とも思いました。

 ちなみに、2019年の「改元」、後で蓋をあけてみると、安倍首相のお友達がずらりと並ぶことになるのでしょうか?

 何が何でも3選にこだわってなりふり構わなかった一つの理由はこの辺にあったのかもしれません。それはさておくとして、平成というネーミングは実に皮肉なものになってしまいました。

ちっとも平坦ではなかった平成

 制定直後「平成おじさん」の小渕官房長官が読み上げた、その名の由来は

 『・・・『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」』 に由来するとのことで『国の内外、天地とも平和が達成される」という意味』だという。

 奈良時代どころか司馬遷で、現状無関係に「内外平和」かよ、とさらに呆れた記憶があります。

 だってそうじゃないですか、この元号が発表されたのは1989年1月7日でしたが、いまだ冷戦の最末期で、2月6日には「ベルリンの壁」で最後の犠牲者、若干20歳のクリス・ギュフロイが射殺されています。

 ベルリンの壁が崩れるのはその年の11月のことでした。翌1990年夏にはイラククウェート侵攻から湾岸戦争が勃発し、91年にはソ連が崩壊、冷戦体制の崩壊は、一面世界を自由にもしましたが、新たな戦争も勃発しました。

 およそ「国の内外、天地とも平和が達成される」などという寝言が通用する国際情勢ではありませんでした。

 唯一、救いになったのは、そのような波瀾万丈の20世紀末から21世紀初頭にかけて、明仁天皇が平和を希求し続け、「国の内外、天地ともに平和になりますように」と、象徴天皇としての公務に身を挺して奔走されたことでしょう。

 平成天皇は歴史に重要な貢献を残して生前に代を譲る、大きな仕事をされたと思います。即位の時点で56歳ですから、これは本当に大変なことでした。

 今上天皇は実際、天皇制の歴史を大きく変えた面があると思います。

改元=象徴天皇のリセット

 古代中国では、君子が自ら位を譲ることを「禅譲」と呼び、平和な禅譲以外の天子の交代(「放伐」)は「徳」の不足によって「天命」が「改革される」もの、すなわち「革命」と見なされていました。

 これは、広く知られていると思います。

 革命にはこのほか十干十二支の甲子、戊申、辛酉の年に天命が改まるという革年の考え方があり、歴史的にはこのような年に「改元」が行われてきました。

 日本では明治維新以降、一世一元が制度化されたため、「革年」の改元などは行われなくなりましたが、「天子」の代替わりで「おめでたい」「新たなリセットリニューアル」としての位置づけは、結果的に踏襲されているように見えます。

 「平成」という元号が選ばれるにあたっては、最後まで「修文」「正化」の対抗馬2案があったそうです。

 ですが、それ以外の候補も多々登場しながら「元号は縁起物なので、発案者が物故した場合は直ちに廃案」となったと伝えられ、絵馬や熊手のようなイメージで取り扱われていたことが察せられます。

 元号が改まるというのは「おめでたい」こと、なんですね。

 これは個人的な考えですが、「修文」や「正化」という対抗馬は最初からダミーだったのではないかと思います。落とすのが前提の。

 「へいせい」とキーボードを打って変換してみると「兵制」など物騒な漢字も現れます。

 「しゅうぶん」だと「醜聞」が最初に出て来ますし、「せいか」は「青果」「製靴」など、やたら沢山の同音異義語が出てくる。

 この点「へいせい」は、おかしな意味に取られるリスクは低いように思います。

 何であれ「元号」は縁起の良いもので、過去にいろいろマズいことがあっても、それらを綺麗サッパリと洗い流し、新しい気持ちで物事に取り組める「ミソギ」の一種としても機能し得るものになっている。

 これを「象徴天皇」への転換として。歴史に生きるものとされたのが、明仁天皇の大きな貢献、業績だと思います。

 昭和天皇が即位した際には、明治の欽定憲法で「あらひとがみ」とされ、国家神道が諸宗教の上位に置かれて、今日とは全く違う「天皇」の実体がありました。

 全国の学校には天皇皇后の写真「ご真影」と教育勅語を収めた「奉安殿」が設置されて崇敬の対象とされ、万が一そこから火事など出た日には、校長が自殺してお詫びしても不思議と思われない、そんな社会圧が存在していました。

 考えて見れば、写真が焼けた程度のことで自殺なんて、実に馬鹿馬鹿しいことです。

 でも、そういう同調圧力が厳然と存在し、「不敬罪」などの事大主義な刑事罰も振り回された。

 やがて、それはは統帥権の独立と相まって、国の節度に歯止めが利かない状態を作り出してしまった。

 その事実に一番懲りていたのは、自分の誕生日に合わせてA級戦犯の死刑執行が行われた、多感なティーンエイジャーだった明仁皇太子、その人だったと思います。

 まさに戦後の新しい法制度のもとで、それを体現するように成長し、人となりを養われた「第2次世界大戦後の天皇」「純・日本国憲法のもとでの天皇」が、今上天皇その人と言うべきでしょう。

 刑法の團藤重光教授は、東宮参与として明仁皇太子一家と親交を深く持たれ、のち、「最初から象徴の天皇」とは何であり得るかの議論で、様々な相談に乗られました。

 さらに平成即位後は、宮内庁参与として、明らかに激務と言っていい仕事を50代後半からスタートした基礎固めに助言とアドバイスを続けられました。

 私が伺った、その多くをここに記すことはできませんが、美智子妃・美智子皇后の貢献が絶大であったことは強調していいように思います。

 明仁天皇は、史上初の「即位当初からの<象徴天皇>」として、直後からフルスロットルでの活動を開始されます。

 即位6年目で発生した阪神大震災の折は、発生から2週間ほどで被災地を回り、膝をついて被災者と同じ目線で見舞われました。

 その場のアドリブでの行動もゼロではないかもしれませんが、多くは「象徴天皇」としての振る舞いを事前から慎重に考え、発想し、心許せる側近にのみ相談し、可否を検討したうえで、果敢にそれを実践してこられた。

 およそ古墳時代以来の天皇制にかつて存在しなかった<象徴天皇>という像をゼロから作り出してきた、この創造と実行力は、大変なことだと言わねばなりません。

 今回の退位と改元は、浩宮こと皇太子徳仁親王が56歳のとき、つまり今上天皇が極めて遅い即位を迎えたのと同じ年に発表されました。

 今年、浩宮が2月23日に59歳を迎えてから代替わりとなるわけですが、そこには「象徴天皇という新たな激務に就くうえでの、ぎりぎりの年齢でスタート」に対する、明仁天皇、美智子皇后の親心があるようにも思われます。

 一代でゼロから「象徴天皇」を作り上げた今上天皇が、自分の目がまだ黒いうちに、確かに「象徴天皇」のリニューアルバトンタッチを果たしたいという気持ちもあったに違いありません。

 次の新元号がどのようなものになるか、全く想像もつきません。

 また、私の仕事場である国立大学法人の関係文書〈科研費の電子システムなど〉では「平成34年」などの表記も併用される見通しとも聞いています。

 そんな中での生前退位には、どういう意味があるのか?

 私は「徳をもって、よりふさわしい者に位を譲る」という、古来の『禅譲』が本質ではないかと思います。

 その『徳』とは、平和憲法下での象徴天皇としての徳目にほかなりません。

 「徳」の文字は新天皇に即位する浩宮、徳仁(なるひと)親王の名に冠せられた一文字でもあり、出生直後に祖父、昭和天皇から命名されたと伝えられます。

 新たな徳仁天皇には、ぜひ先代がパイオニアとしてゼロから作られた、平和の象徴天皇の「徳」を継承し、発展させてほしいと思います。

 近代天皇としては初の名誉博士号を持つ「文系天皇」であることも、重要なポイントと思います。

 昭和天皇の粘菌、今上天皇の魚類学など、20世紀の天皇は政治向きと関わらない穏当な理科の研究をアカデミックなライフワークとしてきましたが、浩宮は中世の交通史、流通史を研究、オックスフォードにも留学し、自ら手を動かして修士論文を完成させた、極めて真っ当な知の手続きを身に着けた人でもあります。

 のちにケンブリッジ大学から名誉法学博士号を贈られてもいる、ドクターエンペラーということになる。知的なバランスに配慮ある、新しい象徴天 皇像が期待されます。

 力によるのでもなければ、財貨によるのでもない。自粛でも忖度でもなんでもない、「徳」による「象徴天皇」としての<行為としての皇位>を徹底すること。

 「明仁上皇」はそのような史上かつて存在しないスタイルを「美智子皇太后」と共に作り上げ、自ら徳をもって「より若く、未来を担うにふさわしい」次世代に、まさに「徳」をもって禅譲されている。

 そのような「徳治」の系譜を確かに伝えるよう、ギリギリではありますが。いまだ50代の若い年齢で、「徳に基づく禅譲」皇位を譲られたのだと思しいわけですから。

 また、亡くなられた團藤先生もそれを強く望んでおられた事を末尾に記しておきたいと思います。

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