人間、生きていると自分の名前以外に色んな肩書がついたりつかなかったりします。それは職業であったり、地位であったり、名誉であったり……。

しかし、いくら肩書をくっつけたところで、それはあくまでもその人の一側面に過ぎず、その本質を表すことも、価値を高めることもありません。

今回は、そんなことを考えさせられるエピソードなど、一つ紹介したいと思います。

京都府知事・北垣国道、東福寺へ

北垣国道(天保七1836年~大正五1916年)、Wikipediaより。

今は昔の明治時代、京都府知事の北垣晋太郎国道(きたがき しんたろう くにみち)は、かねて交流のあった東福寺の管長・敬冲(けいちゅう)和尚を訪ねました。

この北垣は天保七1836年、但馬国養父郡能座村(現:兵庫県養父市)に生まれ、28歳となった文久三1863年に倒幕運動のさきがけとなる「生野の変」に参加するもあえなく敗走。

しかし、そこで挫折することなく京都、江戸、長州と逃亡生活の末に捲土重来(カムバック)を果たした北垣は、慶応四1868年の戊辰戦争や北越戦争で武功を立て、新政府では要職を歴任します。

明治十四1881年には京都府知事に就任、同十六1883年には宮内大書記官を兼任。

かつてお尋ね者として潜伏していた頃とは打って変わり、堂々たる府政の代表者として京都の地に赴任したことは、北垣にとって恍惚の思いだったことでしょう。

さて、そんな北垣が激務の中で時間をつくり、また、敬冲和尚にも都合をつけて貰って、ようやくアポイントがとれたのでした。

随分とご無沙汰していたが、やっと和尚に会える。

二人はかねてから交流があったと伝えられますが、もしかしたら、かつて生野の変に敗れ、逃げ込んできた北垣に、敬冲が「慈悲を垂れた」事があったのかも知れません。

ともあれ北垣は従者を連れて、京都五山の第四位・東福寺の山門までやって来ました。

来たのは「大書記官」か「晋太郎」か

さて、北垣は従者に、寺へ自分が来たことを伝えさせました。託(ことづか)った従者は、さっそく門前の小僧に伝えます。

「これ小僧、敬冲和尚に『大書記官がいらした』と伝えよ」

「わかりました」

従者に託った小僧は、本堂に上がって敬冲和尚に伝えます。

東福寺・本堂。

「和尚様、門前に『大書記官』様が和尚様を訪ねてお見えです」

それを聞いた敬冲和尚は答えます。

「はて……大書記官?わしにそんなご大層な知り合いはおらんのぅ……うーむ、その御仁には申し訳ないが、あいにく今日は大切な友人と先約があるので、とお断りしなさい」

「わかりました」

小僧は山門へ戻ってその旨を従者に伝え、従者はそれを報告すると、北垣は驚きました。

「そんなバカな。和尚はそのような無体の振舞いをなさる方ではないし、さりとてこちらに不調法があった覚えもないし……いや、待てよ?」

ふと思いついた北垣は馬から下りて、今度は自ら小僧に頼みました。

「のぅ小僧さんや。すまんが敬冲和尚に『晋太郎が来た』とお伝え下され」

「わかりました」

すると今度は敬冲和尚、「待ってました」とばかりの大喜びで、飛び出さんばかりのお出迎え。

喜び出迎える敬冲和尚(イメージ)。

「おぉ北垣殿、お待ちしておりましたぞ。聞けば先刻、宮内『大書記官』をご兼任とのこと、誠におめでとうございますさぁさぁ奥へどうぞ。心ばかりの茶なども進ぜましょうから、積もる話など、たんとお聞かせ下され……」

これを聞いた北垣は内心「(わしが大書記官であると百も承知で)まったく……人を喰った坊主だ」と苦笑しながら、それでも掛け値なしの真心に痛み入り、そのもてなしを心ゆくまで味わったそうです。

めでたし、めでたし。

まとめ

このエピソードは、敬冲が北垣(及びその従者)の「肩書ありき」な交際を暗に否定し、あくまでも互いの「本質」と向き合いたい意思を伝えるものです。

私は、あなたが「京都府知事」だとか「大書記官」だから親しくしているのではなく、あなたが昔から変わらない「晋太郎」さんであることこそ、何より大切に思っている。

いかなる地位や肩書も、そんなものはあくまで天下公益に供すべき「道具」「手段」に過ぎず、いつか立ち去る仮住まいも同じ。

現役時代は出世して、地位や肩書を並べて大威張りだったのに、定年退職した途端、途方に暮れてしまう方をよく見かけますが、いつまでも変わらぬ人間の「本質」を、改めて見据えて頂くきっかけとなりましたら幸いです。

参考文献
蔡志忠『マンガ 禅の思想』講談社+α文庫、1999年4月14日 第2刷

関連画像