大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を受賞した原作を、『陽気なギャングが地球を回す』『ブタがいた教室』の前田哲監督が映画化した『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』。筋ジストロフィーと闘う主人公と彼を支えるボランティアとの交流を描く人間ドラマ――けれど、ただのお涙頂戴!とはまったく違う奥行きを備えた物語なのです。

『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』 (c)2018 「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」製作委員会

『こんな夜更けにバナナかよ』
(配給:松竹)●監督:前田哲 ●出演:大泉洋高畑充希、三浦春馬、萩原聖人、渡辺真起子、宇野祥平、韓英恵、竜雷太、綾戸智恵、佐藤浩市、原田美枝子
12月28日全国ロードショー

あらすじ
幼少のころに筋ジストロフィーを発症、病が進行して首と手しか動かせない鹿野靖明(大泉洋)。24時間、介助が必要にも関わらず、自立して生きる!と病院を抜け出し、札幌市内のケア付き住宅で一人暮らしを始める。大勢のボランティア(=ボラ)を集め、彼らのおかげでなんとか生活を続けられるのにわがまま放題、おしゃべりでどこか偉そうな鹿野。ボラのひとり、医学生の田中久(三浦春馬)に会いに来た安堂美咲(高畑充希)は「鹿野さんは何様?」とブチ切れる……。

原作は高評価を受けたノンフィクション

なるほどなるほど筋ジストロフィーの人がボラの手を借りて自立して暮らす話か。大泉洋が主演だし……笑って泣けるカンドー的な映画かな?――この映画の大まかな内容を読んで、そう考える人は多いはずです。それでいて実際に笑えるし泣きそうなほどぐっとくるのだけど、想像とはぜんぜん違った質の感覚が残ります。『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』はそんな映画なのです。

そもそも原作は大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をW受賞した作品です。鹿野靖明さんは1959年札幌市生まれ。11歳で進行性筋ジストロフィーと診断され、家族と離れて専門の病棟に入ります。18歳車いす生活となり、障害者が自立した生活を目指して働く施設に入所。23歳でそこを飛び出して自立生活を始めます。

原作者の渡辺一史は当時、北海道を拠点としたフリーライターでもともとボランティアに詳しかったわけではなく、依頼を受けてこのテーマに取り組みます。彼がまず興味を持ったのは、なぜたくさんの人が自分の貴重な時間や労力を割いて一銭にもならない鹿野のボラに携わるのか?そこで2年4か月にわたって取材し、『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(文春文庫刊)を書き上げました。

映画を観ていて、ずっと心の中で繰り返し浮かぶ疑問もまさにそれでした。なぜこの人たちは家族でもない鹿野のためにボラを?――その答えを見つけ出そうとあれこれ物思いにふけるうち、この映画が描こうとしている(かもしれない)奥深い真実が見えてくるのです。

高畑充希演じる安堂美咲は、なりゆきで鹿野のボランティアをすることになる。

大泉洋に最優秀主演男優賞⁉

もちろん映画の主人公は原作と同じ鹿野靖明で、筋ジストロフィーという難病と闘う人物です。でもそのキャラクターは原作で描かれる鹿野とはぜんぜん違って思えます。なにしろ演じるのは大泉洋ですから!存在が軽やか!めちゃポップ!大変なおしゃべりで不自由な体をものともせずにしゃべり倒し、憎まれ口もたたき放題でわがままいっぱいに生活しているのですが、なんだかぜんぜん憎めない。ボラの人はわざわざやって来て自分の世話をしてくれ、いやそもそも彼らの介助がないと生きていけないにも関わらず、その態度はつね上から目線。悲壮感を漂わせるとか、同情に訴えるとかはまるでなし……ってなんだこの主人公!?

繰り返しますが、大泉洋でなかったらそもそもこの話は成立しなかったのでは?と思えます。彼はロケ中も食事制限と走り込みを続けて最大10kgの減量を実現したそうです。痩せていて首から下の筋肉が機能していない筋ジスの患者さん特有の体型、車椅子の背にピタリと貼りついて一体化しているようなさまをリアルに体現していてとても説得力があります。

それでいて、ここぞ!というセリフが心に響くのです。例えば劇中で鹿野が「俺は一日一日が勝負なんだ」というとき、そこには多くの感情がこめられるはずです。11歳から死を覚悟して生きてきて、日々確実に病が進行してできないことが増えていく。健康な人間にとって死というのは、いつかはやって来るかもしれないけどそれは遠い未来のことのように思えるとても曖昧な恐怖。でも鹿野にとってはかれこれず~っと、いつでも目の前にぶら下がっていて手で触れられるような、すぐそこにある恐怖です。

そんな死の恐怖と対峙し、けっしてくじけることなく戦い続け、それでいてもちろん人生を楽しみ、なにがあってもヘコたれないと心に決める――そうして生きている人間だからこそ特別に凝った言葉ではないセリフが聞く者の心を捉えるわけで、それをこの映画の鹿野らしいひょうひょうとしたキャラクターを崩さずに表現する。離れ業です。しかもこの映画の大泉は終始ナチュラルにさえ見えます。まさに、最優秀主演男優賞ものの演技なのです。

鹿野靖明役をポップに演じる大泉洋。この表情!

なぜボラは、鹿野のもとへ通うの?

映画は鹿野とそのボラとの関係性が描かれていきます。その主軸となるのが医大生の田中久と、彼とお付き合いをしている安堂美咲。二人の織りなす微妙なバランスを保つやりとりは、それだけでもまるで味わい深いラブストーリーのよう。それぞれに抱える事情があり、若者らしい未熟さからくる衝突があり、悩んだり迷ったりしながら前へ進もうともがきます。

田中役の三浦春馬と美咲役の高畑充希、二人のお芝居もまた一筋縄ではいきません。撮影現場では前田監督を交えてかなり徹底した話し合いがあり、リハーサルをし、細かくカットを割らずに長回しで撮影されたとか。そのせいでしょうか?例えば三浦春馬ならお手のものであるはずの爽やかThat’sイケメン演技!とは違います。人としての弱さからくるあまり正視したくないような一面、普通ならなかったことにしたいような内面の美しくない部分がずるりと顔を出し、その表情の変化はかつてない奥行きを備えるようで見応えがあるのです。

高畑充希がそうした演技を引き出しているようにも見えますが、彼女自身、ボーダーTシャツミニスカが定番の若さあふれるお嬢さんという役回りが新鮮です。そうした役柄も彼女が演じると、どこかぶっとい芯を持つ、けれど根っから素直な人というリアルな人物像に着地します。そんな美咲がこの物語では観客目線となり、鹿野とボラとの不思議な関係性に切り込んでいくため、ごく自然に感情移入できます。

そうして改めて考えてしまうのです。なぜこれほど多くのボラが、鹿野の元へ通うのでしょう?それほど鹿野が魅力的ということ?一見しては理解できないカリスマ性がある?長い間死と対峙し続けた人間だから言葉に説得力がある?24時間誰かと一緒にいて、すべてをさらけ出さないと生きられない嘘のない人だから?自分よりずっと恐ろしい運命と対峙する人を前にすると、そうでない人間はほっとするから?それとも、もはや理由は鹿野にはなく、さまざまなボラが出たり入ったりする、その場が特別な何かになっていたということ???わかりません。答えはそのどれもであって、どれかではないのかもしれません。

ただひとつ確かなのは、映画化にあたってキャラクターに変化はあったかもしれませんが、筋ジスと闘った鹿野靖明という人は実在したということ。彼は不自由な体を含む自分の全部を自分で引き受けて病院を出て、大勢のボラの手を借りて生きたということです。

一人の人間が自立して生きた――この映画を通して、ただそれだけのことがこれほど大きなメッセージになることを知りました。

 
田中(三浦春馬)と美咲(高畑充希)の恋の行方が気になる~。

文・浅見祥子

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