紙芝居作家として歩み出した水木しげる。ところで紙芝居作家の仕事とはどのようなものだったのでしょうか。漫画やアニメとは似て非なる、紙芝居の制作工程を整理しておきましょう。

前回の記事はこちら。

紙芝居作家とは

紙芝居の作り手を紹介する際、わかりやすいように「紙芝居作家」と一言にまとめることが多いのですが、厳密には紙芝居は「作家」「画家」「着色」の3つのセクションに分かれて制作されていました。

作家は脚本を書く、画家は線画を描く、着色は線画に色を塗るのが仕事です。中には3つの作業を1人で行なう画家もいて、これを「丸仕上げ」といいました。加太こうじは丸仕上げで、水木しげるも作画から始めてすぐ丸仕上げに移行したようです。『鬼太郎』も脚本から水木が制作しています。

紙芝居舞台と拍子木

かつて、『ハカバキタロー』という紙芝居があった

さて、紙芝居を書き始めて3年ほど経った昭和29(1954)年のことです。水木は水木荘を手放します。もともと前の持ち主の借金が残る曰く付きの物件だった上に、怪しい住人ぞろいだったアパートをうまく経営できず、きれいさっぱり売り払ったのです。

少ない家賃収入もなくなり、いよいよ紙芝居だけが生活の糧になりました。なんとかヒット作を生み出したいと頭を悩ませていた頃、水木は加太こうじ鈴木勝丸が戦前の紙芝居の話をしているのを聞きました。

「あの頃『ハカバキタロー』って紙芝居が大当たりしたよなあ」

紙芝居の生き字引である2人の思い出話が、水木しげるヒラメキを与えました。

衝撃の怪奇紙芝居!「ハカバキタロー」のストーリー

昭和8年に封切られた(紙芝居は最初の公開をこう言いました)『ハカバキタロー』という紙芝居のあらすじは、こんなものでした。先に断っておきますが、なかなかエグい話です。

とある農村で、姑の嫁いびりの果てに死んだ女が妊娠したまま土葬される。その墓の中で母の死骸から赤ん坊が生まれ、母の屍肉を食べて少年の姿まで成長した後、土から這い出していく。そして母の仇である姑を殺して井戸に落とす。やがて姑の死体が上がり大騒ぎになるが、それは復讐劇の始まりに過ぎなかった……。

……子供向けにしてはダーク過ぎますね。しかし戦前の紙芝居は、こういう復讐ものは珍しくありませんでした。『猫娘』『蛇娘』といった怪奇ものも一つのジャンルとして確立しています。ただし『ハカバキタロー』は人気が出てシリーズ化されると、ヒーローものの要素も出てきて怪奇大活劇へと変化していきました。

すでにピンと来ている人もいると思いますが、『ハカバキタロー』は、『飴屋の幽霊』または『子育て幽霊』などと呼ばれる民話を下敷きにしています。妊娠中に死んだ母が、死後生まれた赤ん坊を幽霊になり育てる、怖ろしくも哀しい怪談です。類話は各地にありますが、京都・六道の辻の物語が名物「幽霊子育飴」とともに有名です。

この物語をモチーフに、伊藤正美は『ハカバキタロー』のストーリーを作り出しました。「墓場」が象徴的なアイテムとして登場するのは『ゲゲゲの鬼太郎』まで引き継がれていますね。

ついに鬼太郎誕生

鬼太郎の誕生に話を戻しましょう。『ハカバキタロー』のあらすじを聞いた水木しげるは、「ちょっと古くさいな」と思ったそうです。20年前の作品ですから仕方ないことですが、水木はそれで終わらず「よし、ハカバキタローを今風の筋に変えよう」と思いつきました。

鈴木も「こういう不況の時代は因果ものがあたる」とすすめたといいます。

こうして書き始めたのが、紙芝居版『墓場鬼太郎』です。漢字表記では「“奇”太郎」だったのを「“鬼”太郎」に変えました。

「え、いいの?」と思われるかもしれません。しかし紙芝居では、過去のヒット作を他の作家が書き直すことは珍しいことではなかったのです。

おおらかな時代なんて言いますが、当時の著作権の感覚は現代とは違いました。かの有名な『黄金バット』も作者が何人もいます。加太こうじは、戦後になって復活した『黄金バット』を書くようになりました。

そんな中でも、水木の『墓場鬼太郎』にとって『ハカバキタロー』は、重要な原型ではあるが別の作品といえるものでした。「墓場で生まれた」「母が幽霊」などの基本設定を『キタロー』『飴屋の幽霊』から受け継ぎながら、世界観は異なるものになっています。キタローは異形の者ではあるが妖怪ではない、という点も大きな違いでしょう。

そうなった原因の一つは、水木が『ハカバキタロー』の実物を見ていなかったためだと考えられます。『ハカバキタロー』は昭和8~10(1933~1935)年に大ヒットしますが、水木の故郷までは届いていなかった可能性が高いのです。

その頃の紙芝居は印刷されない「一点もの」でした。たった一つの原本を貸元が管理し、紙芝居屋たちに貸し出していました。テレビのように全国すべてに行き渡らせることは難しかったわけです。

そして昭和12(1937)年頃から、ブームを過ぎた紙芝居の原本は倉庫に保管されるようになりました。ところが昭和20(1945)年4月、その倉庫が空襲によって焼失してしまいます。『黄金バット』などとともに『ハカバキタロー』も灰になりました。

そんなわけで水木は、『ハカバキタロー』をコピーしたかったとしても出来ませんでした。そのかわり骨組みだけ借り、自由に発想を広げることが出来ました。自然とそこに、水木個人の妖怪への思いや人生経験が盛り込まれ、ほぼオリジナルの鬼太郎のキャラクターが形作られていきます。

やがてテレビ放送が始まり紙芝居が衰退した昭和32年、水木は東京へ移り、貸本漫画家の道を進みます。このとき加太こうじが下宿を紹介するなど面倒をみました。『墓場鬼太郎』を漫画化にする際は伊藤正美の諒解を得ています。

その後少年漫画誌での連載が始まり、『ゲゲゲの鬼太郎』としてアニメ化され国民的作品となったことは、みなさんご存じの通りです。

参考文献
『紙芝居昭和史』加太こうじ(岩波書店)
『ゲゲゲの人生 わが道をゆく』水木しげる(NHK出版)
『ゲゲゲの女房』武良布枝(実業之日本社)
『水木しげるの「妖怪」人生絵巻』(朝日新聞社)
『紙芝居文化史ー資料で読み解く紙芝居の歴史』石川幸弘(萌文書林)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)

画像出典:写真AC

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