日本テレビの人気番組『笑点』のオレンジの着物でお馴染みの落語家林家たい平。実はこの林家たい平という名前だが、実は当代は二代目で昭和40年代に「初代」がいた、という話は落語ファンの間でもあまり知られていない。

 1974年に発行された「週刊平凡」と「林家三平の愛弟子・林家大平(はやしやたいへい)が孤独な死」という記事が掲載されている。

 記事によると、1974年4月17日東京都新宿区のマンションから若い男性の腐乱死体が発見された。死体の主は落語家林家三平(初代)の弟子で漫談家の林家大平だった。林家大平は1968年林家三平に入門。1971年までカバン持ちとして三平の元で修行し、落語家ではなく漫談家として独立した。

 林家大平は地方局でラジオ番組を担当していたほか、山本リンダ歌謡ショーの司会などを担当し、売り出し中の若手だったが、4月13日頃より、音信不通となり、舞台に穴を空けてしまった。普段から真面目で売っていた林家大平が、なんの音沙汰もなしに舞台に穴を空けたことを不審に感じた同業者が、彼の自宅を訪れたところ、大量の郵便物が溜まっており、孤独死が明らかになったのだ。

 林家大平の死体はベットのなかでうつ伏せになりながら死んでおり、手首などはドス黒く変色。少なくとも死後1週間は経過しており、あと数日でウジが湧くところだったという。牛込警察署によると、死因は心臓発作と見て間違いなく、苦しんだ形跡があったという。

 師匠の林家三平は、突飛な発想力を持つ林家大平をブレーンのひとりとして信用しており、愛弟子の死を痛く悲しみ、自宅に祭壇を設けたという。

 そして、林家大平の孤独死から14年が経過した1988年林家三平の総領弟子である林家こん平の元に、埼玉県秩父市出身の青年が入門してきた。後の「林家たい平」である。「たい平」の名付け親は、師匠のこん平であるが、当初の読み方は「たいぺい」であったが、大師匠初代三平の夫人・海老名香葉子の「たいへいの方が良いのではないか」の一声により、「たいへい」という名前に決まった。

 このエピソードの背景には、早世した三平の愛弟子「林家大平」の存在があったのではないかと思われる。

参考文献:週刊平凡

注・「たいへい」でなく「だいへい」であるという説もある

林家たい平