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(撮影:Kotaro Manabe)

昨年10月半ば、パレスチナ自治区にあるアイダ難民キャンプ。長年イスラエルの軍事占領下にあり、その象徴が、町のあちこちに築かれた8メートルもの「分離壁」だ。

約100人の難民の子どもを前にギターを弾くのは、LUNA SEAX JAPANのギタリスト、SUGIZOさん(49)。ギターが鳴り響き、弾むビートに現地の子どもたちは、笑顔で歌い、跳ねまくる。

日本を代表する2つの人気ロックバンドやソロでの音楽活動に加え、多くの社会問題に取り組んでいるSUGIZOさん。彼が、難民キャンプや被災地に赴く理由とは――。

「3歳でバイオリンを始め、オーケストラの演奏家だった両親から音楽の英才教育を受けました。特に父の稽古は強制的で、間違えたら怒られ、何度かミスが続くとぶたれるんです。ボロボロ泣きながら弾いていましたね」

’69年7月8日神奈川県に生まれたSUGIZOさん。

「母も、同居する父方の祖母との折り合いが悪く常にギスギスしていて、僕にとって、家庭は安らげる場所ではありませんでした」

小学校のときに沢田研二にハマり、中学ではジャパンデヴィッド・ボウイを入口にして、パンクにも夢中になる。

「当然、親とは大喧嘩です。だって、父にしたら、クラシックこそが由緒正しくて、ロックなんて亜流という考えでしたから。ただ、高校入学直後に出会った仲間は、初めてできた親友であり、一生の付き合いとなるんです。その1人が、のちに共にLUNA SEAを結成する真矢です」

やがて先輩のバンドに迎えられ、どんどん音楽にのめり込む。

「高1の終わりには、音楽を本気でやりたいと思っていました。父の反対は自然消滅するんです。というのも、高3のときに両親が離婚して、父が家を出ましたから」

髪の毛をツンツンに逆立てて、メークもして登校。音楽漬けの高校生活を終えると、両親が望んでいた音大進学ではなく、迷わずにバンド活動を本格化させた。前出のとおり、LUNA SEA(当時の名称はLUNACY)に真矢さん(49)らと参加したのが19歳。

3年でメジャーデビューを果たし、さらに3年後には初の東京ドーム公演を成功させるなど、名実ともにトップバンドに。意外だったのは、このサクセスストーリーの陰で、幼いころから抱えていた孤独感をより強めていたという。

「チャート1位を取るとか、ドーム武道館でライブをやるとか、世間でいう成功では心のすき間を埋められなかったんですね」

年上の元モデル女性との結婚が25歳。しかし、これも安定した生活にはつながらなかった。

「僕は相手に気を使ってしまうタイプで、それは当時の妻にも同じでした。つまり、子どものころの実家での生活の繰り返しになっていて、家庭で一緒にいて安心感とか自由な気持ちを持てなかった」

またしても孤独感を深めていくSUGIZOさんだったが、ただ一つ、結婚後に「救い」を得た。それが’96年春に生まれた長女の存在だ。

「娘の誕生とともに、まず食に、続いて環境問題について真剣に考えるようになりました。それまでは典型的なすさんだロッカーの生活でしたから、自分でも不思議なほどの劇的な変化でした」

長女が2歳のときにコソボ紛争が起きて、子どもを含む難民の悲惨な姿が連日、報道された。

「僕の娘と同年代の子どもたちが被弾して命を落としたり。北朝鮮の飢えた子どもたちの映像が報道されたのも同じころでした。それを見て、わが子だけじゃなく、世界中の子どもたちが、ちゃんと祝福されて生きていかなきゃいけないと強く思い始めたんです」

このころから、アフリカなどの子どもたちの支援を始めている。

’99年の離婚に続き、3年後には別れた妻子がロサンゼルスへ移住。より孤独感を深めていったが、そこに追い打ちをかける出来事が。

「スタッフの起こした金銭トラブルに巻き込まれました。知らないうちに巨額な借金の連帯保証人にさせされていたんです。自己破産寸前まで追い込まれてしまいました。お金や仕事や友人だけでなく、プライドまで多くを失いました。でも今ふり返ると、人生の断捨離をできて、本当に大切なものだけが残ったのはよかったのかもしれない。そう思えたのは、娘の存在が大きかった。離れてはいても、心と心でつながっていられた。ここで死んじゃったらラクかもなぁと考えたこともありましたが、娘が、自分がこの世から去ることへのストッパーでしたね」

’11年3月11日東日本大震災が起きたときには、バンド単位ではなく、一個人として地震発生から3週間後には現地入りした。

「もちろん、ミュージシャンとして何ができるかと考えました。でも、なんにもないと思ったんですよね。凍えて、明日どうやって食べようかと考えている被災地の人たちに歌を届ける前に、まずは現地に行って、泥かきや炊き出しをするマンパワーが今は求められているのだろうと。だから、石巻でのボランティアにはプライベートで参加しました」

被災地にいたのべ9日の間、泥まみれになりながらシャワーも浴びずにテントで寝て、口にしたのはカロリーメイトなどのみ。

「いちばん貴重な体験は、僕は被災者の方の助けになればと思って行ったんだけど、現地に行って気付かされたのは、逆に救われている自分がいたこと」

倒壊した自宅の前で、「よく来てくれた」と迎えてくれる笑顔といくつも出会った。

「『絶対に負けない』とおっしゃる。故郷を本当に愛し、復興させたいと強く願っている。その姿に僕らボランティアのほうが、エネルギーや勇気をもらうんですね。変な話、オレ、孤独じゃないと思うわけです」

そこで得たぬくもりを糧に、やがてSUGIZOさんの足は世界へと向かう。

「難民支援をしたいとずっと思っていて、’10年ごろからUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の方々とも知り合い、イベントに呼んでもらったり、シンポジウムで勉強させてもらっていました」

’16年春のヨルダンシリア難民キャンプ行きは、UNHCR側からの誘いだった。このときは個人としての訪問だったが、SUGIZOさんがミュージシャンと知った現地の人から「演奏してほしい」と依頼が届いた。

バイオリンを現地の仲間に調達してもらって実現しました。ふだんは異性の前ではなかなか感情を出せない女性や子どもたちも喜んでくれて、僕自身、改めて音楽の力を実感し、また必ずやりたいと考えていました」

国際文化交流事業を行うICEJ代表の山本真希さん(40)がSUGIZOさんに初めて会ったのは、昨年末のLUNA SEAのライブだった。

「私たちのパレスチナ難民支援の記事を新聞で読んだSUGIZOさんが、日本で暮らす難民の青年たちをライブに招待してくれました。その後、『パレスチナの現地の難民キャンプで演奏してもらえたら、うれしいです』と話すと、その場で『僕、やりますよ!』と即答してくれたんです」

10カ月の準備期間を経て、冒頭のとおり、昨秋には難民キャンプなど3カ所でのライブが実現した。最後のライブはナブルスという町。

「『The Voyage Home』というラストに演奏した曲は、シリア難民キャンプを訪れたことをきっかけに生まれた曲。初めはシリアの戦火から逃れる人々を思って演奏していました。それがライブを続けるうちに、あらゆる国の難民や故郷を追われて暮らす人々が、いつか帰郷できて元の生活を取り戻せますようにという祈りの曲になっていた。さらに、その祈りの思いは、福島第一原発の事故で故郷を追われた人や、いまだに仮設住宅で暮らす人にとっても同じだし、また、昨年も各地で豪雨や震災などの災害がありましたが、そうした日本の被災者の方たちも近い境遇を強いられていると気付いたんです」

切なくも美しいメロディの底には、SUGIZOさん自身の望郷もある。

「僕自身、たしかに生まれ故郷の地元はあっても、いまだに心の故郷を探しているんですね。実家でも、結婚しても、家庭というものが、癒されたり、帰りたい場所じゃなかった。ですから、心が安住できる自分の居場所を探し続ける思いが、知らず知らずに込められていたのかもしれません」

孤独を感じ続けていたSUGIZOさんが、音楽を通じて、世界の人たちと心を一つにしていこうと、旅を続ける。

「音楽があれば、言葉は通じなくても、国も信仰も文化も違っていても、すごく一つになれる。魂を込めて演奏に没頭すれば、どこの国の誰とも友達になれるという確信が、僕を難民キャンプや紛争地帯、被災地へと向かわせているのだと思います」