アニメ『どろろ』(→公式サイト)。今日1月28日(月)22:00より、TOKYO MXほかで、第四話「妖刀の巻」が放映される。
Amazon Prime Videoで毎話24:00頃から配信予定。

妖怪にも墓を作る医者
三話は捨てられた百鬼丸を、医者の寿海が拾い育てた過去エピソード。
といっても百鬼丸はこのアニメだと、他人と何もコミュニケーションを取れない状態なので、どろろにその説明は一切できていない。

原作での医者の寿海は、慈愛の心で幼い百鬼丸を育て、その後彼を守りきれず旅に出している、という描写程度しかない。
アニメ版では寿海という人間の感情を大幅に書き換え。なぜ百鬼丸を育てたのか、なぜ送り出したのかを、命に向き合う作品のテーマに沿わせて、全く別の方法で表現した。

かつて寿海が、生きたまま人間を磔にし、身体に杭をうち、耳を削ぎ、指を切り落とし、痛めつけて殺す仕事をしているシーンがある。
室町・戦国時代にあった磔の処刑というよりは、身体を痛めつけながらいたぶり殺す、中国の凌遅刑に近い。寿海は手足を作る技術も大陸で学んだそうなので、そのつながりなのだろうか。
この行為は「身体が欠けた人のパーツを作って形にする」という、後の寿海が、怪我をし身体を失った人に義手義足を施し続ける活動の、対になっているかのようだ。

だが物語は、彼の慈善行動を「罪滅ぼし」として許さない。
寿海を尊敬し、彼の元で働いていた少年(アニメオリジナルキャラクター)は、過去に自分の親を殺した集団の人間だと知って激怒。自分に作ってくれた義足を捨てて、片足で彼の元を去った。
どんなに人を救おうと頑張っても、寿海はかつての過ちを消せないことに気付かされる。

その後身体が何もない百鬼丸を育てることに、自分が生きる価値を見つけた寿海。
ところが彼に教えた身を守るための術である剣術で、百鬼丸は妖怪を自衛以外にも無差別に殺し始めてしまった。

寿海「わしはまた、間違ったのか」という絞り出すような悔いの声。
少なくともここまででは、かつての虐殺のような、「間違った」行動はとっていないはずだ。彼が義手義足を作らなければ救われなかった人はいるし、百鬼丸も見捨てておけば死んでいた。
もう正しいか否かの問題ではない。かつての行動の因果から、何をやっても誰かを傷つけてしまう苦しみの連鎖から脱せなくなった。

誰かを救おうとすれば、他の人が傷ついてしまう。百鬼丸を救えば、別のなにかの命が失われる。何をやっても、誰かを失い傷つけてしまう。
相手が人間か妖怪かは関係ない。たくさん殺してきてしまった寿海にとって、どちらも「命」。

取った行動が、妖怪の死体を埋めて墓を掘り、戦場へ赴いて死体の欠損部分を補ってエンバーミングするというもの。
ついに、生命に触れることすらできなくなってしまった。
死ぬことも、地獄に行くことすらもできず、死体の中を彷徨う寿海。
スタッフの徹底した描写を見るに、殺し続けた彼は、安易に救われることはなさそうだ。
寿海「わしはどこへも行けん、百鬼丸……」

ただ、去っていった弟子は怒りの中、右の義足を置いていった。百鬼丸は足が戻ったことで、同じように右の義足を置いていった。このあたりのシンクロは、無意味とは思えない。何らかの伏線だといいんだけども……。そもそも原作でも、本当に救われた人間はほとんどいないことを考えると、寿海が報われる展開がどうにも見えない。
なお、寿海役の大塚明夫は、アニメ「ブラック・ジャック」で、ブラック・ジャック役も演じているというのはなかなか意味深。

百鬼丸と痛み
百鬼丸が今は赤ん坊状態だ、というのを明確化回だった。
原作では周囲を、テレパシーやセンスで感じ取ることができたので、彼はそこそこ知恵と良識のある青年として描かれていた。

しかしアニメの百鬼丸は知識も良識も、人の感情すらもわかっていない。
彼には今まで神経がなかった、というのがその理由として表現されている。

三話で百鬼丸は、神経を取り戻して初めて焚き火を踏みつけてしまい、あまりの熱さに驚いている。
二話では、身体に何かが刺さっても全く無反応だった彼の感じた、初めての痛みだ。
(順序としては、右足→皮膚→神経の順に戻っている様子。右足は筋肉むき出しで戻っちゃってたので、順番が違ったら拷問だったのでは)

寿海「痛みを知らねば、恐れも感じず、切り刻み、殺し、命を奪い取ることに何のためらいも生じはしない」
子供が熱いものを触って初めて「火は危ない、怖い」と身体で理解できるのと同じ現象が、今百鬼丸に起きている。
今までの百鬼丸からしたら、刺されて痛い、という経験がゼロ。なので、妖怪を倒すのも「眼の前のぼんやり光るものを突いた」程度の感覚なのだろう。相手の痛み、苦しみがわからない。
花をむしったシーンも象徴的だ。生きているので目の前には光があるものの、抜いてしまうと光は消えてしまう。これもなんなのか、前回の魚同様、彼にはまだわかっていない。

ここから先、戦闘の際に百鬼丸には多数の「痛みへの共感」「恐怖」が襲ってくることになる。時にはそれが「ためらい」になるかもしれない。
場合によっては、これはネックになるはずだが、同時に相手を思い憐れむ感情ともつながるだろう。

「痛み」を知った百鬼丸が、どろろと共に歩むことで、苦しんでいる人の気持ちに「共感」できるようになったり、悲しみや笑いなどの「感情」を取り戻したりしていく様子を見ることができそうだ。この変化を一つ一つ学んで行く様子を描くのは、相当な演出力が求められるはず。
(原作の身体を失った子どもたちのシーンが、痛みを知ったこの後出てくるのだとしたら、色々辻褄が合ってきそう?)

同時に彼に良識を教える役として、どろろが据えられたのが面白い。
原作ではついて回る泥棒の子供としての色が強かった。アニメ三話でびっくりしている百鬼丸をあやしているどろろの様子は、まるで親だ。
百鬼丸はどろろに情を、今の所ほとんど抱いていない。原作どろろの「刀を盗む」という大義名分が、アニメでは一切ない。
二人の関係は今後、親子・家族のように、純粋に「そばにいる」という関係に絞り込まれていきそうだ。

第四話の「妖刀の巻」は、人の救われなさが詰め込まれた、原作の名作回。
神経を取り戻した彼が、他人に対して何を考えるようになるのか、もし神経がないままだったらどうだったのか。想像しながら楽しみたい。
ところで、お守りや義手など、明らかに生きていないものも、百鬼丸には見えているのが興味深い。
もしかしたら「念」のようなものがこもっていると見えるんだろうか? だとしたら妖刀の描写がどうなるか、非常に気になる。
改変とリスペクトがものすごく丁寧なだけに、全てのシーンが原作と比較するのが楽しくて仕方ない!
(たまごまご)

手塚治虫「どろろ」三巻表紙