中国では毛沢東大躍進政策の失敗で3600万人が餓死(出生率低下で生まれなかった4000万を含め、7600万人と断罪)する「人類史上最悪の悲劇」が起き、「すでに半世紀以上が経つというのに、国内には本が一冊もない」。

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 これは、記者生命を懸けて楊継縄が2008年に香港で刊行した『墓碑』(日本語版『毛沢東 大躍進秘録』)にある言葉で、出版時点で同書の中国本土での発行、持ち込みは禁止されていた。

 元新華社通信高級記者(局長級)の600ページの大著から感じ取ることは、30万人の市民を日本軍が虐殺したとして国家を挙げて日本糾弾に奔走する「南京大虐殺」の報道と全く裏返しの好一対ということである。

 共産党が国家ぐるみで“ありもしなかった”「南京大虐殺」を演出してきた、そして今も演出し続けているのではないかと。

 そして、著者が言うように、言論の自由が封殺され、指導者が決めたことを称揚する以外は一切許されない極権制度(筆者注:一党独裁)がもたらすのではないだろうか。

 劉少奇(毛失脚時の主席)が毛沢東に向かい「これほど多くの餓死者を出し、歴史はきっとあなたと私のことを書くだろう。人が人を食べたことは必ず歴史に残るだろう!」と言ったという。

 しかし、慰霊碑は心に建てることしか許されないし、ほとんどの国民は大悲劇を知らないため、教訓を汲み取ることさえできないというのである。

歪曲された中国100年の近現代史

 国家ぐるみの行為のすさまじさ、自国民だけでなく、外国人も完全に騙せるということが如実に分かる。

 たまに、党機関紙が習近平主席を批判したなどの記事が出るが、これは当局が「主席(あるいは自国)を批判することは自由ですよ」と思わせる油断を誘う一手なのだ。

 国家が許す範囲内での“自由”でしかないし、本当の意味での「言論の自由」などではない。

 主席や自国を批判する勇気がある人物が書いた本だから、信用できると思わせる。そしてその中で、「一寸した嘘」を紛れ込ませると、読者は当然ながら、その「嘘」を信じてしまう。

 記者は幼少時から徹底した洗脳下で育てられる。共産政権が強権力で「共産党のやることには間違いがない」として、一寸でも反論しようものなら、反動分子として運命が定まってしまうから、親たちも反動分子が出ないように育てなければならなかったという。

 頭が良かったので、どこでも級長などをやり、また早くから共青団の一員となって党活動にも参加する。長じて精華大学を卒業すると、新華社通信に配属される。

 「新華社の記者は、普通ならけっして接触できない階級の人たちに接触することができる。私は教科書に述べられた党史と一致しない沢山の真実を知ったばかりか、都市労働者の貧しい生活をも目にした。・・・新聞の『ニュース』がいかに作られ、マスメディアがいかに政治権力の『代弁者』になっているかを知った」という。

 中国外務省の報道官が日本批判をする時、「嘘は百回言えば本当になると思っているようであるが、一万回言っても嘘はウソだ」と時折発言するのを聞いて、自分たちこそ党が強いる「嘘を言わされている」と思うと、同情の念を抱かずにはおれない。

 「党は、抗日戦争時、共産党だけが日本軍と戦い、国民党は投降し妥協した、と教えていた。現在、私は、国民党が抗日戦の主戦場を支え、何百人という将軍が国のために命をなげうったことを知っている」

 「党は、自然災害により少数の地域で飢饉が発生した、と教えた。現在、私は、まったくの人災により何千万という人々が餓死したことを知っている」とも記者はいう。

 そして「(8つの箇所と)四川省の多くの場所で、ほとんどすべての家が餓死者を出し、多くの家が全滅し、全村が死に絶えた村もあった」という。

 「飢餓は死そのものより恐ろしい。トウモロコシの芯、野草、樹の皮を食べつくし、鳥のフン、ネズミ、綿の実、それらすべてを口にした。・・・死者の肉は、他人だけでなく家族ですらが食糧にした」

 「当時、『人肉食』は特別なことではなかった。・・・この時期、自分の子供を食べる事件が多発していた」のだ。

 「当時を知る人たちから聞くもおぞましい人食いの話を聞いている。人肉を食べた人にも会って、人肉の味についての話も聞いている。そして、人食いの記録は全国で少なくとも1000は下らなかった」と記している。

 総括して、「中国共産党史、ここ百年間の中国史は、いずれも党の要請に従い歪曲され編成されたものだということを、私は知り始めた」というのである。

ポチョムキン村はいまも存在する

 香港に逃げた難民や海外華僑の国内にいる親族からニュースが伝わり、一部の西側メディアは、中国大陸で飢饉が発生していると報道した。

 それらの報道は断片的で極めて不完全なものであったが、中国政府はそれらすべてを「悪辣な攻撃」「デマによる中傷」として排斥した。

 そして、「世界の世論を変えるため“友好人士”を中国に招待し、彼らのペンを借りて『真相を明らかにしよう』とした」のである。

 「中国への訪問者に対し、中国政府は綿密周到な準備を行い、訪問地、接触する人々、接待時のセリフなど、入念な用意をした」

 「外国からの客は一般庶民とは完全に隔離され、衣食が足りている偽の状況がわざわざ用意された場所もあった」のである。

 中国は産経新聞をしばしば排除する。中国にとって都合の悪い情報も書くからである。

 欺瞞体質を表す言葉に「ポチョムキン村」がある。

 ロシアの女帝エカテリーナⅡ世の寵愛を受けたポチョムキンは地方の政治を任される。

 女帝が視察することになると、女帝らが通る道筋や船から見える川岸だけを「張りボテ」で美しく見える村々や家々を建て、何マイルにもわたる大規模な偽装をして誤魔化したエピソードである。

 中国はポチョムキン村を造って外国人を歓迎していたのだ。新華社の国内部副主任であった方実は外国人のお供で安徽省の視察に出かけたことを記者に語っている。

 「騙された外国人は国に帰ったのち、『身をもって経験した』中国の『偉大な成果』を賛美し、中国に飢餓がないばかりか人々は十分に衣食が足りている」と書いたそうである。

 英国人記者は1965年に、「1960年に厳格な食料配給制が行われていた中国を歩いたが、多くの人が飢えている状況はみなかった」と書いており、これは名著になっているそうである。

 筆者はアイリスチャンの『ザ レイプ オブ ナンキン』を思い出す。

 記者は続けていう。「中国でよく知られているエドガー・スノウは、自分が騙されたのち人々を騙した外国人の一人である。これら外国人の文章は新華社によって翻訳され、・・・『参考資料』上で発表され、思想を統一し国内の異なる意見を抑える道具となった」と。

本多勝一著『中国の旅』

 『中国の旅』は表装を変えながら1972年以来、長年発刊されてきた。

 取材のための「訪中目的は、すでに入国申請のときから中国側に知らせてあったように、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から聞き歩くことだった」という。

 入国申請は1971年初めで、入国了承が5月15日、そして6月13日の入国となる。行く先々では省の革命委員会の共産党員や新聞編集者らの説明などを受ける。

 1995年発刊の朝日新聞社刊『本多勝一集14 中国の旅』まで、「中国の旅」の写真を主とした『中国の日本軍』も含め、単行本や文庫本として刊行される。

 しかし、取材に当っての謝辞は「跋文」や「あとがき」で、本文中に名前が出る人と、日中両国の多数のご協力に感謝すると述べるにとどまっており、共産党かかわりに思い至らなかった読者も多かったのではないだろうか。

 いうまでもなく、中国共産党が党を挙げて協力したことには変わりない。

 藤岡信勝拓殖大学客員教授は「シリーズ 日本虚人列伝『本多勝一』 南京大虐殺のウソを広めた朝日の元“看板”記者は、いま何を思う?」(『正論』平成30年2月号所収)で以下のように記している。

 「中国共産党中央委委員会は、本多を招待し、40日間にわたって国内を取材させた。中国共産党に仲介したのは、ぬやまひろしこと西沢隆二であった」

 「西沢は徳田球一の娘婿で、1950年日本共産党が分裂して以降、中国共産党の『盲従分子』の流れに属していた人物である」

 強行スケジュールで中国各地を引き回し、「共産党がお膳立てした『語り部』に日本軍によって受けた『被害』を本多に語らせた。本多はこれをひたすら書き取って記事にする。・・・本多はもはや完全な中共の代弁者であり、伝声管である」

 1983年と84年の上海から南京に至る取材で書いた『南京への道』の「あとがき」には、「中華全国新聞工作者協会国際連絡部」の主任や副主任らの名前を明記し、「非常な便宜を図っていただきました」と書く。

 同様に南京市市長や副秘書長、記者、大学教授、江蘇省外事弁公室主任など多数が列挙されている。また取材の途上でお世話になった大学教授や記者、地方の党書記や宣伝部長などなどが、ほぼ1ページにわたって記載されている。

 日本人による戦時中の銃殺や刺殺などとは思えない、中国の『資治通鑑』などに記されている酷刑もしばしば出てくる。日本人が労働者を強制連行し、心臓と肝臓を抜き取り、あとで煮て食ったという話も出てくる。

 ベトナムの報道記述を批判したことから本多氏と最高裁まで20年にわたって争い、3連勝した殿岡昭郎氏は、「『中国の旅』はひどい本である」と書き、理由として「報道と取材の自由のない中国で、中国側の言いなりに記事を書いている」(『体験的本多勝一論』)ことを第一に挙げ、方法論を問題視している。

 また第2に、「とうてい信じられない逸話が満載されていて、しかも本多記者の疑問の提示が全くない」と内容的な問題を挙げている。

 1970年の取材では、訪中目的を知らせてから入国までの約半年間で、目的に合致するポチョムキン村を作り上げるには十分だったろうと思うのは筆者だけであろうか。

自信を深めていく本多氏を見る

 最初の単行本(1972年1月刊)では、取材日程や「中国側での取材にもとづいて報告していますので、事実に対する日本側の資料あるいは反証があれば、できるだけ双方のくいちがいをただしたいとぞんじます。報告のなかに出てくる当人をも含めて、これらの事件に関係した方の証言を歓迎します」と低姿勢である。

 半年後の『中国の日本軍』(1972年7月刊)では、「支持や激励と同時に、他方では非難や脅迫的反応もかなりありました」と述べ、注目したものとして本多氏が連載した平頂山事件の記事を読んで朝日の購読をやめ、またこんな記事が何の意義があるかとした投書を取り上げる。

 本多氏はこの投書者は真面目で良心的な人だけに、「一層、骨の髄まで『偏向』させられてしまった実例」とみなし、「明治以来百年にわたる教育の『成果』を前にして、私のごときのいかに非力かを悟らされます」とし、「まじめな方から出てくる背景」を読者自身が考察や検討されることを希望すると結んでいる。

 6年後のすずさわ版の『中国の旅』(1977年刊)になると、「反動勢力の代弁出版社として定評のある文藝春秋が、その雑誌や単行本を総動員し、山本七平氏ら子飼いのライターを使って、この報告の発表以来その影響力を阻止すべく涙ぐましい努力を払ってきました。残念ながら、多大かつ長年にわたるかれらの努力にもかかわらず、報告の内容について私が反省すべき何の必要もなければ、日本軍を擁護すべき何の反証も出てこなかった」と書いている。

 かなり挑戦的な物言いに代わっているが、好調な売れ行きを反映していたからであろう。

 10年後の文庫本(1981年刊)では、個人的事情もあって親しく接した郭沫若氏、中国の苦悩を一身に背負っているかに見えた周恩来首相、学生時代からその著書を愛読した毛沢東主席が鬼籍に入ったと、余裕綽々の体である。

 また、中国共産党中央委との橋渡しをしてくれた西沢隆二氏の冥福を祈りたいとしている。

 そして1995年版である。

 「この深刻な『旅行記』は、発表いらい日本社会に『深刻な』反響を呼んできました」と述べ、従来の「日本人の『戦争』への反省の主流は、・・・被害体験を土台としたものがほとんどで、・・・『戦争責任』問題には加害の認識が欠如あるいは少ない傾向がありました」と述べ、「この『旅行記』では日本(人)自身が加害責任の当事者」だからだという。

 さらに「新聞連載のあと・・・右翼からの脅迫がはげしくなりました。言論界では月刊誌『諸君!』をはじめとする株式会社文藝春秋系のメディアが、皇国史観文化人や侵略否定ライターを使って、じつに20年間ちかくも私を攻撃し続けることになります。とりわけ彼らが標的にしたのは南京大虐殺でした。これに対して、歴史学者を中心とする『南京事件調査研究会』(洞富雄代表)が発足、私も加わって何回も現地調査を重ね、さらに日本軍側の虐殺実行者が名のり出たり第一次資料(陣中日記など)が発掘されたりして、南京大虐殺論争は否定派の完敗のうちに終結しました」と、勝利を確認している。

おわりに

 日中戦争時に劣勢に立たされた蒋介石国民党がいかに対外宣伝に努める算段をしたかについては、北村稔著『「南京事件」の探究』に詳しい。

 簡単に言えば、上海戦の敗北直後の1937年11月プロパガンダ機構を改編して、自分たちの顔を出さないようにして第3国の記者や宣教師、教授等があたかも現場を見て発信する情報であるかのごとく工作する。

 党中央に宣伝部を設けて対外宣伝工作を仕切り、実際に印刷物発行や放送などを行う宣伝処は蒋介石に直属して政府と共に行動し、支部や事務所などをニュヨークシカゴワシントンロンドン、そしてカナダオーストラリアインドシンガポールの主要都市に設立した。

 こうして、蒋介石に買収され党や政府の顧問などになった外国人記者や宣教師らが、南京での殺人、掠奪、強姦、放火など、それも中国人兵士などがやった可能性が大な事件をすべて「日本軍の悪行」として発信し、ロイターなどを通じて世界に流布する。

 それが南京で戦っている日本の将兵に逆流情報としてもたらされ、「どの部隊がそんなひどいことをやっているのか」と疑心暗鬼にかられる。

 戦後の中国共産党プロパガンダに於いては国民党の戦略の延長線上にあり、三戦(世論戦、心理戦、法律戦)に力を入れて、むしろ強化してきた。

 南京大虐殺毛沢東が未曾有の餓死者が出ているにもかかわらず、衣食満ち足りたポチョムキン村を作って、そこに外国人を招待し発信させた構図と瓜二つのように思えてならない。

 すなわち、政府が綿密周到な準備を行い、“友好人士”のペンを借りて「無を有にする」世論戦ではなかったのだろうか。

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