このところ、サイバーセキュリティを巡って、新たなリスクのオンパレードのような状況が連発しています。
回転ずし大手の「くら寿司」で、アルバイト従業員による「不適切な動画」が公開、炎上を招きました。
同様のケースはカラオケ店の「ビッグエコー」や「セブンイレブン」などのコンビニエンスストアでも、アルバイターが悪ふざけを動画に収録してアップロードし炎上する騒ぎが続き、波紋を呼んでいます。
関西の「くら寿司」から発信された<問題動画>、報道で目にされた方も多いかと思います。
まな板の上で包丁を入れられた魚の身を、惜しげもなくゴミ箱に投げ入れ、直後に取り出して再びまな板に載せるといった風景が録画、発信され、民事のみならず刑事の責任訴求が準備と報じられています。
「いたずら」を行った(元)従業員、また撮影した(元)従業員が、何を考えてこんな遊びを実行し、また不特定多数のアクセスするネットに無防備に投稿したのか、私にはよく分かりません。
現実には「くら寿司」を経営する「くらコーポレーション」の株価は130円下落、損失は時価総額27億円に上るなどと報道され、解雇した元従業員に対して、会社側は法的措置の準備に入ったと伝えられています。
言うまでもなく、このいたずらの「犯人」たちは、自分たちのちょっとした遊びが、27億円の損失を生み、それを請求されることで、その後の人生が大きく変わるなどと一切考えていなかったはずです。
今後の類似犯、模倣犯根絶も念頭に、司法当局は非常に厳しい判断を下すことが予想され、刑事事犯としては、偽計業務妨害その他、様々な罪名が候補に挙げられています。
この動画公開が2月4日、この原稿は1週間後の11日に書いていますが、まさに注意1秒で、下手すると一生もの、少なく見積もってもかなり尾を引くのダメージを(元)従業員たちは自ら背負い込んでしまった可能性が高い。
資産経済、情報経済がマネーの動向を大きく左右するなか、ほんの些細な情報の公開が、予想もしない大きな影響を社会全体に及ぼす可能性が常にある・・・。
ものすごい時代になってきたものです。
これについて、すでに報道などで伝えられている範囲を少し深掘りするアプローチと、報道では触れられていない、より根深い側面の双方を考えてみたいと思います。
P2P音声動画配信ことはじめ
要するに、了見が低いというか、狭いというか、仲間内のギャグ、冗談のつもりで、こういう動画を撮影、公開したのだと思いますが、不特定多数に公開してしまうと取り返しがつきません。
そういう「情報事故」を防ぐために「メディア・リテラシー」の教育がなされてしかるべきなわけですが、全くそういうものがない世代が、こうした事件を起こしてしまう。
私が大学の教壇に立って情報リテラシーなどにもタッチするようになったのは1999年でしたが、当時はいまだナローバンドで、動画の送受信は「来るべきブロードバンド時代に実現されるであろうこと」にとどまっていました。
それでも、2001年9月11日の同時多発テロは、コマ数の少ないGIFアニメなどの動画で繰り返しアップロードされましたし、2004年10月にイラクで発生した日本人青年殺害事件の直後には、その模様を写した動画が不特定多数に公開される事態となりました。
私たちのラボではこの2004年から、こうしたネット上の視聴覚コンテンツの与える不可逆な影響を脳認知計測を併用して評価する「予防公衆情報衛生」の取り組みを続けてきました。
2007~08年にはルワンダ共和国大統領府と、同国で1994年に発生したラジオ放送の濫用によるジェノサイドの再発防止プロジェクトなど、様々な取り組みを続けてきました。
翌2005年に米国ユーチューブ社創業、スマートフォンの普及とあいまって、ネット上のP2P音声動画送受信は、あらゆる一国法の規制を超えて、技術がいち早くグローバルな既成事実を作り上げてしまった形になっています。
今回の「くら寿司」バイトの元従業員は、高校生とも専門学校生とも伝えられます。
2019年時点で15~20歳程度の年配層ということになりますから1999~2005年頃に生まれた世代、物心がつくのが6~7歳とすれば2006~2011年頃以降の世界だけを見て育った。
自分のスマートフォンを持たせてもらえるのが15歳前後とするなら2014年このかたの状況を、子供の了見で眺めていた世代が、このような「覆水盆に返らず」を演じてしまっていることが考えられます。
覆水は盆に返らない
一方で、現在30代以上の世代は、このようなP2P音声動画放送、つまり、家庭内で撮影したホームムービーのようなものを不特定多数に対して公衆公開できるなど、想像もできなかった時代を知っているはずです。
私は1997年から99年まで、テレビ番組「新・題名のない音楽会」の音楽監督として毎週の番組制作に関わりましたが、この当時、このような「不特定多数に対する公衆放送」を一般の素人が行うなどということは、想像もすることができませんでした。
いまも忘れることができないのが、1997年12月16日にテレビ東京系列で発生した「ポケモンショック」光てんかん放送事故です。
ピカチュウの技「10まんボルト」などの場面で、フラッシングその他の効果が連続して多用され、これを推定で4~12歳の子供約350万人が視聴しており、各地で体調不良を訴える子供が続出。
病院搬送が600人以上、100人以上の子供が入院し、一大社会問題となりました。
このとき、私自身を含め、テレビ放送に関わっていた者が局で頻繁に耳にしたのが「放送法」「電波法」による縛り、とりわけ放送免許を取り上げられたりしたら、一大事という状況認識でした。
善くも悪しくも玉虫色の幕引きで、この問題はうやむやになりました(そのようにした人たちが誰であるかもよく知っていますがここには記しません)。
しかし、不特定多数に不用意なコンテンツを流すとトンでもないことになるというのは、業界関係者の心胆を寒からしめるのに十分なものでありました。
この当時、テレビ放送もアナログでしたし(デジタル化移行は2003年)、家庭ではそれをVHSに録画するのが普通でしたので、タイマーなどでVHS録画した「ピカピカ」を見ないよう、繰り返し呼びかける「お詫び」の放送を今もよく覚えています。
一度放送してしまうと、エアチェックされた情報の完全な回収は二度と不可能・・・。
こんなアナログ放送末期ですら、その意識を放送関係者は持っていたわけです。その後のデジタル化は、こんな牧歌的な時代とは似ても似つかぬ状況を現出させてしまいました。
「くら寿司」「ビッグエコー」「セブンイレブン」などの単語と、各々関連する鍵語で動画検索をすれば、善くも悪しくも「問題動画」とされるものを、私たちはいつでも検索し、何度でも視聴することができます。
その完全な回収は不可能ですし、サーバが残り続ける限り、半永久的にこれらのコンテンツは残ります。
それらの影響で、株価の下落を筆頭に、どのような損害が発生するか、その総額を見積もることは不可能です。
これは上限を評価できないということで、企業価値に無限の損害を与えると言い換えてもいい。要するに「取り返しがつかない」ことをしていることになります。
かつてのように「放送法」「電波法」で縛られ、これらを奪われたらビジネスが成立しないという緊張感をもって、プロがコンテンツを作っていた時代は完全に終わりました。
いまや、子供が家庭内でどんなおふざけを撮影しても、全世界の不特定多数に対して公衆放送が技術的にはいとも簡単に可能になっており、リテラシー不在からリテラシー不能の状況に事態は完全に悪化してしまいました。
さらに消せないサブリミナル効果
このあたりまでは、すでにメディアでも言及されていると思います。
私たちの研究室で2004年来続けている脳機能可視化に基づく視聴覚コンテンツの影響評価では、さらに「記憶」や「フラッシュバック」という、人間の脳内に刻み付けられたコンテンツの影響が甚大であることを検討しています。
イラクで人質になり、悲惨な最後を遂げた青年の動画も全世界に拡散され、それを視聴してしまった子供が保健室に運び込まれるなどの事態が発生しました。
私自身、その動画を用いた脳認知実験の被験者となってデータテイクを行い、いまだにそれらの画像を記憶しています。二度と見たくないと思っていますが、そう思えば思うほど、焼きついてしまっています。
同じことが、回転ずし、カラオケ、コンビニなどの「問題動画」についても成立してしまっています。
いまこの原稿を書く手を休めて両目を瞑らなくても、脳裏には、水色のゴミ箱に投げ入れられる血合の多い魚の切り身とか、何が嬉しいのかモンキーダンス風の踊りに満面の笑みで興じるコンビニバイト、どういう動機か分かりませんが、両手に持った冷凍の唐揚げらしきものを床に刷りつけてから油のカゴに導入する様が焼きついています。
私は職業柄、楽譜の暗譜という仕事上の必要に迫られて、10代からこうした画像を鮮明に記憶するトレーニングを重ねているので、より記憶がハッキリ残ってしまいやすいのかもしれません。
しかし、喜怒哀楽の情動に「修飾」された(と専門的には表現します)このような画像記憶は、文字だけ、あるいは音声だけで提示されるより、はるかに強く、また永続して、視聴者の脳裏に刻み込まれます。
それと同時に、喜怒哀楽の感情をも想起させるトリガー、引き金を引く役割も担うと考えられています。
皆さんも、生涯の中で遭遇した印象的な場面、良いものもあれば良くないものもあると思いますが、鮮明に記憶しておられるケースがあると思います。
印象的なCMが脳裏に焼きつくように、あるいは企業は広告における好感度に非常に敏感で、ちょっとでも問題のあるタレントなどはすぐに下ろされてしまうように、こうした問題には本当の意味での「終わり」がありません。
本質的な「視聴覚メディア・リテラシー」の再教育の必要と、その社会的な周知、定着の努力が、必要とされる時代が到来しつつあると言えるでしょう。
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