前回のあらすじ

鎌倉時代、頼朝公亡き後の政争によって「鎌倉一の郎党」梶原景時が暗殺されると、景時に恩義がある越後の御家人・城(じょう)一族がその仇討ちに挙兵。

「いざ出陣!」勇躍越後より進発する城長茂(イメージ)

一族の女傑・坂額御前(はんがくごぜん)は、上洛する兄・城平四郎長茂(じょうの へいしろうながもち)を見送り、甥の小太郎資盛こたろう すけもり)と共に国元を守りながら吉報を待つのでした。

いざ挙兵!仇敵めがけて殴り込む

さて、京の都に到着した長茂らは正治三1201年1月23日、大番役(おおばんやく。警護役)として赴任していた小山小四郎左衛門尉朝政(おやまのこしろう さえもんのじょうともまさ)の宿舎を襲撃。

朝政は景時の追放・暗殺に深く関与しており、まさしく「恩人の仇」でしたが、長茂らが三条東洞院にあった朝政の宿舎に殴り込むと、あいにくの不在でした。

早くも出鼻をくじかれた長茂らは、腹いせに留守番の家来たちと一戦交えてから天皇陛下土御門天皇)のおわす仙洞御所へ乗り込み、四方の門を閉じて立て籠もりました。

藤原為信『天子摂関御影』より、土御門院の御影(肖像)。鎌倉末期~南北朝初期

「畏れながら申し上げます!無実の罪で殺された梶原景時殿の仇を討つため、鎌倉におる逆賊どもを成敗する勅許(ちょっきょ。天皇陛下の許可)を下さいませ!

しかし、長茂の訴えも虚しく勅許は下らず、このままでは勝ち目がないため、朝政らが戻って来る前に清水坂(きよみずざか。現:京都市東山区)辺りに潜伏。ゲリラ戦に持ち込んだのでした。

越後武者の意地を見せ、城長茂かく戦えり

朝政らの放った飛脚によって、幕府に長茂謀叛の報せがもたらされたのは2月3日鎌倉中が大騒ぎとなったそうです。

混乱の中、朝廷では「縁起が悪い」と思ってか2月13日改元が行われ、正治三年から「建仁元年」となったことから、長茂の謀叛は後世「建仁の乱」と呼ばれるようになりました。

この期間中、長茂らは山中に隠れ潜んでゲリラ戦を展開、神出鬼没のヒット&アウェイ(攻撃してはすぐ逃げる)を繰り返して鎌倉方の朝政らを悩ませましたが、やがて徹底的な捜索によって大和国吉野山(現:奈良県和歌山県の県境にまたがる山岳地帯)に潜伏していることが発覚。

吉野山。長茂たちはどこに潜んでいたのでしょうか。

2月22日、もはや退路を断たれた長茂らは鎌倉方と決戦に臨み、あえなく玉砕。長茂らの首級は京の都に晒され、2月29日には長茂の甥で小太郎資盛の弟に当たる小二郎資家(こじろうすけいえ)と小三郎資正(こさぶろうすけまさ)、そして奥州藤原氏の生き残りとして京に潜伏していた藤原四郎高衡(ふじわらの しろうたかひら)も討ち取られ、京の都から梶原景時のシンパ勢力が一掃されたのでした。

(※機を見るに敏なる公家たちは、景時が殺された時点でとっくに見限っています)

後に続く者たち

長茂ら討死の報せは間もなく越後にいる小太郎資盛と坂額御前の元へ届けられました。

「叔父上!小二郎!小三郎!」

号泣する小太郎を、坂額御前は叱咤します。

歌川豊国『古今名婦傳』より、坂額御前(板額女)肖像。文久二1862年

小太郎殿……かくなる上は、一矢報いましょうぞ!

「おう叔母上!やらいでか!」

かくして小太郎らの号令一下、城一族は越後国鳥坂(とっさか。現:新潟県胎内市)に城を構えて立て籠もり、大いに奮戦するのですが、この続きはまた次回に。

【続く】

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