天皇皇后両陛下

平成の御代もあと、2ヶ月余りで終わる。平成という時代はどういう時代だったのか、「日本国民統合の象徴」として平成を歩まれた今上天皇をどう見るのか?

諸々の知識人・政治家にインタビューしていく。第一回目は里見日本文化学研究所所長、亜細亜大学非常勤講師、月刊『国体文化』編集長、日本国体学会理事の金子宗徳博士に聞いた。

 

■弱者に寄り添う姿勢を鮮明に

———今上陛下の30年余年の歩みをどうご覧になりましたか?

金子:今上陛下は、即位後朝見の儀において「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」とおっしゃいました。この御発言に対し、当時の右派は「憲法改正が遠のく」と当惑したのです。

 

ゴリゴリの右翼少年で、バブル景気を背景とする浮わついた社会的風潮に生理的嫌悪感があった私も、現状を肯定する御発言ではないかと違和感がありました。

 

それから30年あまり、今上陛下は御発言の通り日本国憲法の枠内で行動され、政治的な発言はされませんでした。その一方、日本国憲法に規定されていない領域、いわゆる「公的活動」とされる領域において、積極的に活動されます。

 

大規模災害の被災者や戦死者、さらには障碍者や公害病患者など社会的弱者に寄り沿う姿勢を鮮明にされました。

 

これは、皇室の伝統からすれば当然のお振舞いなのですが、結果として、それまで皇室に批判的だった左派からも「尊皇」を標榜する人々が出てくるようになったのです。

 

かくして、皇室の基盤は昭和時代の末期より強固になりました。今上陛下が御譲位の意思を表明された際、反対したのは右派の一部だけでした。

 

この意思表明は政治的発言であり、日本国憲法に抵触するおそれがあります(だからこそ、御譲位について定めた皇室典範特例法は今上陛下の御意向を忖度してという体裁になっているのです)。

 

そのため、以前であれば、左派は「天皇の政治的発言は許されない」と反対したでしょうが、そうしたことは起こらず、ほとんどすべての国民が今上陛下の御意向を受け入れたのです。

 

私は、この様子を見て、少年時代の自分が浅はかだったと思いました。今上陛下は、日本国憲法を守り抜くことで日本国憲法の制約を乗り越えられたのです。

 

■「象徴」の意味を突き詰めて

———今上陛下は「象徴」に徹するように努められましたが、それをどう評価されますか?

金子:「象徴」という概念について、左派は「本来なら天皇など要らないのだが、すぐにはなくせないから『象徴』として政治的な力を削ぎ落そう」、右派は「本来なら天皇は元首として国家の統治権を総攬せねばならないが、取り敢えずは『象徴』で我慢しよう」と、双方とも暫定的かつ消極的なものとして捉えてきました。

 

これに対し、今上陛下は「象徴」として行動するということの意味を突き詰めて考えられたように思います。その結果が、先にも触れた積極的な「公的活動」です。

 

これにより、ともすると忘れ去られがちな社会的弱者を慈しまれ、日本社会の一員として統合されたのです。これは、「日本国民統合の象徴」という日本国憲法第一条の規定に適うものであると同時に、歴代天皇と同じく日本国の統治者としてのお振舞いである、とありがたく思います。

■「母」のように被災者と向き合う

金子宗徳

———平成は震災のときでした。天皇・皇后陛下が被災地を訪れ、被災者と同じ目線で語りかけるというスタイルが「平成流」と言われましたが、どのようにご覧になりましたか。また、今上陛下の被災地訪問についてどう思いますか?

金子:御譲位の是非を巡る議論の中で、右派の一部は「天皇は存在し、祈られるだけで尊い。体力の問題があるなら、わざわざ被災地に出向かれる必要はない」と主張しましたが、私は違うと思っています。

 

古語に「しろしめす」という言葉があります。これは「お知りになる」という意味です。古来、天皇は「しろしめす」存在でした。「百聞は一見に如かず」という言葉がある通り、「知る」には実地を「見る」ことが一番です。

 

今上陛下は、被災地の国民の様子を知るため、実際に「見る」という選択をされたのだと思います。これは今上陛下に限らず、昭和天皇は敗戦後に国内を御巡幸されましたし、明治天皇大正天皇も全国各地に足を運ばれました。

 

その上、被災地を実際に訪問されるということには、さらなる意味合いがあります。第一に、かけがえのない家族や大切な財産を失い、希望を失っている人々に対して「決して貴方たちを見捨てはしない」というメッセージを直接的に伝えられるという点。

 

第二に、被災地御訪問の報道を見聞きすることにより、他の国民が「同じ日本人なのだ」という思いを持つようになるという点。

 

これもまた、「日本国民統合の象徴」という日本国憲法第一条の規定に適うものであると同時に、歴代天皇と同じく日本国の統治者としてのお振舞いである、と思います。

 

いわゆる「平成流」について、右派の一部から批判がありました。天皇を「父」、国民を「子」とする意識に立って、上から義を示すべき「父が子に媚び過ぎだ」と思ったのでしょう。

 

私も、天皇を「親」、国民を「子」とする意識を有する者ですが、親は「父」に限りません。幼子が辛くて泣いている時、目線を合わせて慰めてくれる「母」もまた親です。今上陛下は、「母」として被災者に対しておられるのだと思います。

 

■激戦地を御訪問された意味は

———今上陛下の「平和の旅」とも呼ばれる、たとえばサイパン訪問・ペリリュー島訪問などをどうご覧になりましたか。

金子:サイパン島には、私も慰霊のため訪れたことがあります。多くの軍人や民間人が身を投げたバンザイクリフスーサイドクリフなどで鎮魂の祈りを捧げました。青空の下に広がる穏やかな海の際に遺るトーチカや砲台を見ると、何とも切なくなります。

 

大東亜戦争を侵略戦争と決めつける左派の歴史観は間違っていると思いますが、コミンテルンによる謀略に左右された部分を含め、負けるべくして負けた戦争だったと思います。

 

けれども、そうした歴史観の相違を超えて、戦死者を悼む気持ちは全ての国民が持つべきでしょう。

 

敗戦から七十年あまりが経過し、国民の大東亜戦争に対する意識が風化してきています。そうした中で、今上陛下が激戦地を実際に御訪問されたということ。これは、被災地御訪問と同様の意味を持っていると思います。

 

即ち、第一に、祖国防衛のために生命を捧げた死者に対して「決して貴方たちのことを忘れない」というメッセージを直接的に伝えられるという点。

 

第二に、激戦地御訪問の報道を見聞きすることにより、私たち生者が「日本人としての来歴」を確認する契機となる点。

 

これもまた、「日本国民統合の象徴」という日本国憲法第一条の規定に適うものであると同時に、歴代天皇と同じく日本国の統治者としてのお振舞いである、と思います。

 

先般、靖国神社の宮司が今上陛下の激戦地御訪問に対して批判がましい発言をして辞職に追い込まれました。戦歿者の御慰霊というなら、是非とも御親拝を賜りたいという思いが昂じてのことでしょうが、勇み足としか云いようがありません。

 

陛下の御親拝を実現するためには、それを可能にする社会情況が必要です。その一環として、靖国神社も様々な教化活動を展開しており、私も崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」の一員として活動した時期もありますが、思うところあって辞めました。

 

崇敬者の一人として、靖国神社当局には、まずは足元を固めてもらいたいと思います。

 

■真の「国民統合」を

———最後に平成の御代が終わる感慨・ご感想をお聞かせください。

金子:私は、昭和50年生まれの43歳です。今上陛下は、私が13歳・中学1年生の時に即位されました。それから30年、今にして思えば、私は「平成人」です。

 

この30年間、社会は大きく変化しました。バブル崩壊後の不況、経済のグローバル化、IT技術の飛躍的発展。多くの人々がスマートフォンを持ち歩くようになり、外国人の姿も増えました。

 

それは、社会に大きな利便性をもたらした一方で、新たな歪みをもたらしましたことは否定できません。

 

今上陛下は、昨年11月の静岡県に際して浜松市にある外国人学習支援センターを訪ねられました。これは日本人と外国人労働者との融和を願われるお考えによると思われますが、その一方で、日本人の引き籠りやニートが忘れ去られるようなことがあってはならないと思います。

 

不本意な形で社会から切り離された引き籠りやニートに社会的役割を与えることは、「国民統合」の見地からして重要です。来るべき新しい御代においては、これらの人々にも目が向けられることを心から願います。

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(取材・文/しらべぇ編集部・及川健二 つねに弱者に寄り添われ続けた両陛下。 取材協力/金子宗徳)

平成の御代を振り返る 金子宗徳博士に聞く「日本国民統合の象徴」に徹された天皇陛下