これまでのあらすじ

頼朝公の死後、鎌倉幕府の功労者であった梶原景時(かじわらの かげとき)が失脚・暗殺され、景時に恩を受けていた越後の豪族・城長茂(じょうの ながもち)は仇討ちに挙兵するも、あえなく討死。

遺された妹・坂額御前(はんがくごぜん)は甥の小太郎資盛(こたろうすけもり)と共に国元の越後・鳥坂(とっさか)に城を構えて挙兵したのでした。

決死の覚悟で一矢報いん

越後の挙兵が鎌倉に報されたのは、建仁元1201年4月2日。近隣の地頭たちが寄ってたかって攻めかかるも、ことごとく撃退されてしまったようです。

「さて、どうしようか?」

紛糾する軍議(イメージ)。ああでもない、こうでもない……。

さっそく幕府では善後策が協議されましたが、公式史料『吾妻鏡』の記述を読む限り、あまり遠征に熱心ではなかったようです。

「越後のゴタゴタなんかで鎌倉の御家人を死なせたくないから、さっさと現場に始末させろよ」

【原文】……なんぞ一人といへども當參の壯士を失ふべけんや。早く在國の士に仰せらるべし……

※『吾妻鏡』建仁元1201年4月3日

それじゃあ早速……と思ったら、現場にこれと言った人材が見当たりませんでした。

この時ちょうど越後の守護であった佐々木三郎兵衛尉盛綱(ささき さぶろうひょうえのじょうもりつな※1)は時の将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)公のご機嫌を損ねて上州礒部郷(現:群馬県碓氷郡)に謹慎していたのですが、急ぎ盛綱を現場復帰させることにしました。

(※1)この時は出家して「西念」と号していますが、便宜上「盛綱」で統一します。

「越後の一大事とあらば、謹んで拜命致します!」

歌川国芳画・佐々木盛綱肖像(部分)文政年間

かくして復帰した盛綱は、名誉挽回の好機と越後・佐渡・信州(現:新潟県長野県)から大軍勢を動員。4月8日には鳥坂へ到着したのでした。

「いつ、どこで戦いましょうか?(※当時の合戦は、予め軍使を交わし、お互いの日程調整をするのが作法でした)」

盛綱からの書状を受け取った小太郎資盛・坂額御前らは、圧倒的少数であったため「籠城」を選択。元より勝利は望めない以上、鳥坂の天険を恃みに「一矢報いん」と決したのでした。

決戦・鳥坂城!坂額御前の武勇

さて、いよいよ盛綱の大軍勢が鳥坂城めがけ、攻め寄せて来ました。

城方(しろかた。守備軍)は雨のように矢や石を飛ばして決死の抵抗を試み、盛綱の嫡男である佐々木小三郎兵衛尉盛季(ささき こさぶろうひょうえのじょうもりすえ)はじめ多くの将兵を負傷させるなど、大いに苦戦せしめたそうです。

月岡芳年「芳年武者无類 阪額女」明治十八1885年

そんな中、坂額御前は矢倉(やぐら。櫓)に上って矢を放ち、その腕前は

【原文】百發百中の藝ほとほと父兄に越ゆるなり……(中略)……これ(矢)に中(あた)る者死せずといふことなし」

※『吾妻鏡』建仁元1201年5月14日

という父(城資国)や兄ら(城資永、長茂)も顔負けの凄まじさで、盛綱の郎党たちも多く討ち取られたそうです。

しかし、信州の御家人である藤原四郎清親(ふじわらの しろうきよちか)は鳥坂城の裏山に回り込み、高いところから矢倉の上に奮闘している坂額御前に狙いを定め、彼女の両脚を射抜きました。

「あなや!」

倒れ込んだ坂額御前が清親の郎党らに生け捕られてしまうと、それを知った城方は総崩れとなり、小太郎資盛も慌てて鳥坂城から脱出。その時、先祖伝来の名刀を紛失してしまったそうです。

その後、小太郎資盛の行方は杳(よう)として知れず、ここに越後の名門・城一族は滅亡してしまったのでした。

鎌倉そして甲州へ

かくして囚われの身となった坂額御前は、どうにか歩けるようになってから鎌倉に護送されたのですが、6月28日将軍・頼家公の前へ引き出されると、「越後の女傑を一目見よう」と御家人たちが押しかけて、市場のような騒ぎになったと言います。

京都建仁寺蔵 源頼家公肖像、江戸時代

幕府の重鎮たちに囲まれた中、坂額御前は頼家公の前へ進み出ると、微塵も怯まず、命乞いもしなかったそうです。

此度兵を興せるは、大恩ある景時様の仇に報いんがため。たとえ兄・長茂ともども武運拙く敗れようと、何一つ恥じることはございませぬ!

その堂々たる態度は敵ながら天晴れ、と多くの者を感心せしめたでしょうが、その中に甲斐国(現:山梨県)の住人・阿佐利與一義遠(あさりの よいちよしとお。浅利とも)という武士が、頼家公にお願いしました。

菊池容斎『前賢故実』より、浅利與一義遠。江戸時代後期

「越後の女傑ですが、あれをそれがしに下さらぬか。妻にしとう存じます

それを聞いた頼家公は、訝しがって訊ねます。

あれは天下の大罪人(無双の朝敵)ぞ。それを求めるとは、その方、謀叛でも企んでおるのか」

睨みつける頼家公に、與一は笑って答えます。

いえいえあれだけの女傑ですから、男子(おのこ)をたくさん産ませ、幕府のお役に立つ豪傑に育てたいのです」

そう聞いて頼家公は苦笑します。

「あやつは美人じゃが、気性の荒きゆえ他に欲しがる者もおらんじゃろう……よし、くれてやるから連れてゆけ。それにしても物好きじゃのう

【原文】「件の女(坂額御前)面貌よろしきに似たりといへども、心の武(たけ)きを思へば、誰か愛念あらんや。しかるに義遠が所存、すでに人間の好むところにあらざる由、しきりに嘲弄せしめたまふ……」

※『吾妻鏡』建仁元年6月29日

歌川豊国「與一妻はんがく」嘉永五1852年。武勇は婚前の姿と推測。

かくして(本人の意思も聞かずに)坂額御前は阿佐利與一義遠に嫁ぎ、甲州へ移住。その後一男(後の浅利太郎知義)一女をもうけ、余生を送ったそうです。

終わりに

山梨県笛吹市にある「板額塚」は坂額御前の墓所と伝わっており、彼女が生まれたとされる新潟県胎内市飯角(※2)に鎮座する熊野若宮神社の境内には、その武勇を称えて「鳥坂城奮戦800年記念碑」が建立されました。

(※2)「飯角(はんがく)」と読み、この地名が呼び名の由来となったとも言われています。

かつて恩人の仇討ちに決起し、死力を尽くして闘い抜いた女傑のエピソードは、今なお多くの人に愛され続けています。

【完】

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