2月26日、奇しくも2・26という日付でしたが、私の連載コラムとともに、佐藤けんいちさんのコラム「知られざる戦争『シベリア出兵』の凄惨な真実」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55568)が公開され拝見、心を打たれました。

JBpressですべての写真や図表を見る

 読者の皆さんに、私自身の原稿より、むしろこちらにご注目いただきたいとSNSで呼びかけたりもしましたので、それをご覧になった方がいるかもしれません。

 佐藤さんはお祖父様がシベリアに出征されたとのことです。

 私も、母方の曽祖父が外務省の立場でシベリア出兵にコミットし、父方は親父が第2次大戦後に満州で捕虜となり、強制収容所で3年間重労働に従事し、病院船で帰国できたおかげで私が生まれた経緯があります。

 この話題は完全に骨がらみで、多くの読者が関心を持ってくださるようであれば、何より有り難いことだと思っています。

 一方では朝鮮戦争の終戦が議論され、並行して北方領土についても机上のやり取りを報道で目にするわけですが、日頃から大変に不満に思うことが多く、整理していくつか記しておきたいと思います。

うちの家作を返せ!

 まず最初に、一番不満なのは、北方領土交渉の絵に描いた餅加減、個人の顔が見えないアサッテぶりで、率直に申せば「ふざけるな」と常々思っています。

 仮に一部の領土が日本に戻ってきたとしても、それは国対国の問題であって、個人の犠牲は永遠に償われません。

 私事にわたって恐縮ですが、私の家は南樺太にそれなりの規模の家作を持っていました。

 当主はベトナム沖で魚雷轟沈(昭和19年)、長男は学徒出陣したシベリアで強制収容所に抑留され、廃人同様で命からがら復員し、戦争で資産はすべて失われました。

 返してくれ、というか「返せ!」というのが、常々率直に思っているところにほかなりません。

 私のルーツは薩長土肥の肥前で、明治維新の中途半端な負け組です。

 肥前出身の維新の志士といえば、江藤新平が下野して「佐賀の乱」でさらし首で処刑されるなどロクなことがありません。

 大隈重信が政治的に失敗して早稲田大学を作ったように、パワーウォーズでは完全に負け、実業や学芸などでその分をリベンジしようとしますが、<S・A・G・Aサガ>は「日本のチベット」などとお笑い芸人が自虐ネタにしたりもしています。

 菩提寺のある佐賀県小城というところは、「小城羊羹」という、ザラメが浮き出したような羊羹が「名産」になっています。

 各地で販売もされており、ご存知の方がおられるかもしれませんが、この羊羹、原料はほとんど佐賀で生産されていません。

 砂糖、小豆、いずれも北海道や樺太の製品が福岡・小倉あたりまで運ばれ、佐賀で加工されて唐津あたりから大陸に運ばれました。

 嗜好品ではなく、軍事物資、乾燥した軽い羊羹を背嚢に括りつけて、兵隊が203高地攻略戦などに持参した、明治中期以降の兵站食品として開発され、普及したもので、背景には鍋島水軍300年の歴史と北前船400年、日本海海路1000年の歴史が存在しています。

 朝鮮半島から満州、シベリアへと権益線拡大を狙っていた明治日本政府は、日清日露戦争での兵員への栄養補給源として軽量で高カロリーの糖を乾燥した羊羹を利用することとし、佐賀がその加工地となりました。

 親族は大阪、函館、小樽、大泊(樺太)など流通路の各地に分散しましたが、戦争で北の家作はすべて奪われ、どうしようもなくなりました。

 ところどころに「島は奪われた」みたいな看板を目にすることがありますが、何を言ってるんだ、というのが率直なところで、いまさら何を、とも思います。

 樺太が日本の領土だったのは1905年から45年までの40年間、私の親族が現地に進出したのが正確にいつなのか知りませんが、30年以上は根を張っていたかと思います。

 私が生まれたのは戦後20年目でしたから、子供の頃、祖母などにすれば「樺太の財産が残っていればねぇ」は率直な溜息でした。

 すでにそれから50年、戦後に入植したソ連/ロシア人たちの歴史の方が70年を超して、いまさら何を、ということになります。

 日本の領土政策がどれくらい長期的な計画性を持って戦略的になされたのか、全くもって疑問としか言いようがありません。

なぜ田中大隊は「全員全滅」させられたか?

 先ほど引いた、佐藤けんいちさんのコラムの4ページ目(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55568?page=4)には「ユフタの田中支隊全滅」の記述が出てきます。引用してみますと

 「・・・19192月25日には、シベリア鉄道沿線のユフタで田中勝輔少佐が率いる田中支隊がパルチザン部隊に包囲され全滅するという惨事が発生した。負傷して戦線を離れていた4人を除いて、44人がことごとく戦死した」

 おいおい日本軍の戦闘は「玉砕」が増えていくわけですが、1919年、つまりいまだ日露戦勝から15年というイケイケの思い上がりだった帝国陸軍にあっては、戦線離脱していた若干名を除いて全員が完全に死亡するという、かつてない「全滅」状態を呈し、官報には簡潔な報告が出ていますが(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954092)その詳細は伏せられ、国民の大半が広く知るところとはなりませんでした。

 翌1920年、北樺太よりも北のアムール河口の貿易都市ニコラエスク・ナ・アムーレが焼き討ちされ、日本人居留民と日本人守備隊が虐殺される「尼港事件」が発生します。

 このときは、長崎や天草出身の女性が「からゆきさん」として多く渡航していたとされますが、どうして長崎か、我が家のファミリーヒストリーからもお察しいただけると思います。

 対馬暖流に乗って日本海の不凍港を結ぶ海の道は、樺太の大泊から遠くカムチャツカ半島まで伸びており、九州北部で生活に窮した人々が南方から満州、シベリアまで、様々な土地に新たな活路を見出して散り散りになっていたわけです。

 田中勝輔少佐率いる支隊が全滅した場所が「ユフタ」であったことには、実は知られざる理由があります。

 1919年の全滅から四半世紀を経た1945年秋、すでにポツダム宣言が出され第2次世界大戦終結直前の8月9日に戦線布告されたソ連の対日参戦。

 満州・北朝鮮と南樺太・千島エリアを主要な戦闘地とし、最新兵器である戦車、タンクで押し寄せるソ連軍に日本側の残兵はなすすべもなく、生き残った将兵は捕虜となって「戦犯」扱いされてシベリア奥地に輸送されました。

 そんな中に、私の父もおり、また私が親しくお教えをうかがう、元関東軍陸軍獣医中尉、石黒貞彦さんもおられました。

 現在は神奈川県にお住まいの石黒さんが、復員後70数年、毎朝1人で数キロ散歩されながら1人でお歌いになる歌(正確には軍歌の替え歌)を教えていただきました。

 今年発売予定の私の新しいCDには、この歌のドキュメントを含む「黒河の星空」という短い音楽作品が収録されています。

シベリアの風 肌を刺し
ユクタの村を 離れ来て
二条の煙   立つところ
これあり   石黒作業隊

 石黒少尉たち、シベリアに抑留された招聘は、どこまでもどこまでも直線で伸びる単線のシベリア鉄道を、北へ北へと連行されたそうです。

 それが、森のど真ん中の何もないところで突然止まった。

 「今日はここで野営する」と列車を下ろされ、その場で見上げた星空を、74年経った現在も石黒さんは決して忘れることがないとおっしゃいます。

 翌日から木こり作業が始まり、まず家を作りました。自分たちが住むところ、つまり強制収容所を日本兵自身がゼロから建設したのです。

 寒さを防がないと凍死してしまいますが、兵士の中には大工も左官職もあり、実に立派な強制収容所が完成します。

 寒さにも耐えて、石黒作業隊は、1人の事故死を除いて全員がダモイ=帰還することができた。

 奇跡的な抑留の真実に触れて、私は早くに死んだ父の無念の何かが昇華するのを感じました。

 さて、ソ連軍がそんなふうに、森の中の何にもないところに石黒さんたちを計画投入し、森を切り開いてシベリア開発させたのはなぜなのか?

 その「森のどまん中」こそが「ユクタ」であり、26年前に田中勝輔少佐以下が全滅させられた「ユフタ」の地にほかなりません。

 実際にはYukhta(https://en.wikipedia.org/wiki/Yukhta)。

 シベリア鉄道路線図を細かに調べると、アム―ル州シマノフスク駅ズヴォボードヌイ駅との間に、

 シマノフスク・・・セレトカイ・・・ドシャトバ・・・レディナヤ・・・ドム・オトドイハ・・・ブズリ・・・ユフタ・・・ウスト=ピョーラ・・・ズヴォボードヌイ

 と「ユフタ(Yukhta)」の駅名は見えますが、グーグルアースで見る限り、そこに駅舎は現在も見当たらず、ユフタの村は現在も人口450人程度の寒村であることが分かります

 では、どうして、そんなシベリアの森の真ん中に、日本の捕虜を計画投入して開墾事業を行ったのか?

 もっと言えば、パルチザン部隊が投入されて、見せしめ的な惨殺を含め(手元にある松尾勝造「シベリア出征日記」には詳細が記されています。折があれば記したいと思いますが)日本軍を徹底排除したかったのか?

 21世紀の利器、グーグルアースは、その答えを映像で示してくれます。

 ユクタ、あるいはユフタの地に現在存在するのは「Renaissance Heavy Industries」の石油精製所AGP3にほかなりません。

 シベリア抑留や、それに先立つシベリア出兵でのパルチザンとの戦闘については、冬の寒さや理不尽さ、残虐さといった面が強調されるように思われてなりません。

 しかし、これらを遂行したソ連当局、とりわけスターリン体制化指導部の決定は、徹底的に合理的で、ゲンキン過ぎるほど分かりやすい理由に徹しています。

 「化石資源権益の保守」あるいはもっと露骨に「石油開発」

 分かりやすい目的と、それを伏せられたまま戦われる戦闘、劣悪な環境下での強制労働と、そこで失われていった幾多の若い日本人青年たちの命・・・。

 それらを、いたずらに感傷的に捉えて、その背後にある合理性、いやもっと言えば「利害打算」を見ない姿勢を、私は疑問に思います。

 田中支隊が全滅したとき、日本が真剣に検討すべきだったのは、敗戦の隠蔽でもなければ、表面的な赤化防止のプロパガンダでもなくもっと冷静な国家100年の計であったと思います。

(当時ロシアは革命直後で、初期ソ連はいまだウラジーミル・イリイチ・レーニンが指導していました)

 それからちょうど100年、すでにソ連が崩壊して30年を経ようという2019年にも、北方領土問題で日本は外交音痴ぶりを露骨にさらけ出しています。

 70年前に青年たちの骨を凍土に埋めた合理的なシベリア開発の結果、アムール州にはレディナヤやブズリの石油コンビナートが稼働している。イデオロギーなど全く関係ありません。

 基幹動力源ひとつを見ても、日本に戦略的な先見の明がどれほどあったということができるか、程度が知れてしまいます。

 さらにそれは、過去のこととして片づけられるものなのか?

 およそ終わっていないと言わざるを得ません。

 未来の失政失策を避けるのは、今日を支える私たちの義務というべき、重要な課題にほかなりません。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  AIから考える統計不正問題

[関連記事]

普及率たったの3%、AIスピーカーの今後

日本の司法の質が問われる「コインハイヴ裁判」