著名な文学作品が、その舞台となった時代や登場人物のイメージを決定づけてしまうことは珍しくありません。例えば日本では、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、乃木希典が二百三高地の攻略で多数の軍人を犠牲にした「愚将」として描かれています。しかし、現在の研究では、その評価は正当ではないとされています。

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 世界史に目を転じれば、後世における評価に大きな影響を及ぼしている代表例に、シェークスピア(1564〜1616)の作品群を挙げることができるでしょう。イングランドテューダー朝、なかでもエリザベス1世の時代の華やかなイメージは、実は同時代に活躍したシェークスピアによって決定づけられました。

 一般的にエリザベス1世の時代(在位:1558〜1603)は、スペイン無敵艦隊を破ったり、東インド会社がアジアとの貿易に乗り出したりしたこともあり、イングランドの「黄金時代」と受け止められています。当然、経済も大いに発展したと思われがちです。

 しかし、現在の研究では、エリザベス女王時代のイングランド経済は、実は不況だったというのが定説になっています。そうした意味で、シェークスピアが書いた戯曲は、エリザベス女王時代、そしてテューダー朝の時代を実際より輝いていた時期と思わせる効果を今なお発揮し続けていると言えるでしょう。

内戦「バラ戦争」

 さて前回の記事で、百年戦争イギリスが敗れた結果、イングランドが島国に「なった」ことを解説しました。このフランスとの戦争に敗れたイングランドは、ヨーロッパ大陸に持っていた領土をほぼ失い、文字通りの「島国」となってしまったというわけです。

(前回)「イギリスはいかにして強国となったか」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55576

 この戦争の終結から2年後の1455年、イングランドは今度は内戦の時代に突入します。

 王位継承権を巡るランカスター家とヨーク家との間の30年にも及ぶ争いで、前者が赤バラ、後者が白バラを家紋にしていたことから、「バラ戦争」と呼ばれている内戦です。

 このバラ戦争も紐解けば数々のドラマがあるのですが、今回はさっと触れるだけにしておきましょう。ランカスター家から王位を奪ったヨーク家が、ヨーク朝を打ち立て、3人の王を輩出しますが、1485年8月にランカスター家の一族であるリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが、ヨーク朝の王・リチャード3世を敗死させ、バラ戦争を終結させます。

 このヘンリ・テューダーが、ヘンリ7世(在位:1485〜1509年)として王位につき、新たにテューダー朝を開くのです。

テューダー朝を美化したシェークスピア

 ランカスター家の血筋だとはいえ、テューダー家はウェールズ出身で、家系的にはランカスター家の傍流に過ぎませんでした。一説にはヘンリ7世は自分にとって都合の悪い史料は焼却したといわれており、その家系は今なお謎に包まれた部分があります。

 そうした背景もあってか、ヘンリ7世は、「バラ戦争の時代にイングランドは荒廃してしまった、リチャード3世は非常に悪辣な王だった」と宣伝しました。しかし、これは自らの王位の正当性を主張するためだったと考えられます。

 30年に及ぶバラ戦争ですが、実は戦闘自体はごくわずかで、民衆を巻き込むこともなかったようですし、戦闘によって市街地や農地が荒廃することはほとんどなかったようです。

 また現在では、「リチャード3世は醜悪な暴君だった」との評価に異議を唱える人々もおり、従来の人物評の妥当性も揺らぎ始めています。ただ明確に言えるのは、そのような評判が定着したのは、シェークスピアが、エリザベス1世の時代に書き上げた戯曲『リチャード3世』で、彼を稀代の奸物として描いた影響が非常に大きいということです。結果的にシェークスピアの作品は、テューダー朝を擁護する役割を果たしたのです。

 その一方で、イギリス史においてはテューダー朝こそが近代史の出発点であり、その路線を敷いたのがヘンリ7世であるとも言えます。テューダー朝の時代に、現代のイギリスの枠組みは形成されたのです。

カトリックから離脱するイングランド

 テューダー朝を開いたヘンリ7世の時代には、王権に反対する貴族を裁くため、ウエストミンスター宮殿の星の間に「星室庁裁判所」が設立されます。これにより王権の強化が図られました。

 ヘンリ7世の死後、王位を継いだのは、息子・ヘンリ8世でした。ヘンリ8世は、王妃キャサリンとの間にもうけた子で、元気に育ったのはメアリという女の子だけでした。王位継承のためには男子を、と考えたヘンリ8世は、キャサリンと別れ、彼女の侍女アン・ブーリンとの結婚を願うようになります。

 しかし、彼が帰依するカトリック教会は離婚を認めていません。ただ抜け道もありました。ヨーロッパの王族・貴族はそれぞれが複雑な血縁・婚姻関係で結びついているため、「この結婚は血縁関係同士の結婚なので、そもそも無効であった」という理屈をつければ実質的な「離婚」は可能だったのです。ヘンリ8世が「離婚」を申し出たのは、当時の国王としては別に不思議なことではなかったのです。

 しかしこのとき、ローマ教皇はヘンリ8世の離婚を許可しませんでした。そこで、ヘンリ8世は離婚を強行するため、1534年に国王至上法を制定し、イングランド国王がイングランド国教会(いわゆる「イギリス国教会」)の長となり、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会とは決別する道を選びます。これがイングランドの宗教革命の嚆矢となりますが、この時の国教会は、プロテスタントというよりも、「ローマ教皇の支配から離脱したカトリックの一派」という位置付けでした。

 それはさておき、こうして王妃キャサリンと離婚することができたヘンリ8世は、アン・ブーリンと結婚します。しかし彼女との間に生まれたのは、望んでいた男子ではなく、やはり女児でした。これが後のエリザベス1世です。

 ヘンリ8世が亡くなると、王位に就いたのは、彼の三番目の妻との間に生まれた男子、エドワード6世でした。幼いまま王となったエドワード6世は、摂政の力を借り、新教へのシフトを進めます。彼の時代に一般祈祷書が制定され、カトリックとは違った、国教会の礼拝方法が決められました。

血まみれメアリ

 しかしこのエドワード6世は若くして亡くなってしまいます。次に王位に就いたのは、ヘンリ8世と最初の王妃キャサリンとの間に生まれた一人娘、39歳のメアリでした。

 メアリは、母キャサリンに敬虔なカトリックとして育てられていました。そこでメアリ1世として女王となった彼女は、イングランドカトリックに復帰させます。さらに同じカトリック国家であるスペイン皇太子アストゥリアス公フェリペ(後のスペイン国王・フェリペ2世)と結婚。そして国内の新教徒に対しては、打ち首、火あぶり、さらし首など残忍な方法を用いて、激しい弾圧を加えるようになるのです。こうした犠牲者は数百名に上るとされ、彼女は「ブラッディー・メアリ」(血まみれメアリ)と呼ばれ恐れられました。

 ただ、メアリ1世の治世も長く続きませんでした。病気により42歳でこの世を去ってしまうのです。

 次の王位継承権者は、ヘンリ8世と2番目の妻アン・ブーリンとの間に生まれた女の子、エリザベスでした。彼女の母と結婚するためヘンリ8世はカトリックと決別したわけですから、彼女はもちろん新教徒です。

 それだけに、メアリが女王の時代、エリザベスは過酷な生活を強いられてきました。

エリザベスの過酷な半生

 アン・ブーリンとヘンリ8世の婚姻期間は3年ほどしかなく、エリザベスが2歳半の時、すでに「元王妃」となっていたアン・ブーリンは処刑されます。国王の娘であるエリザベスも、庶子とされ、一時期、王位継承権を失ってしまうのです。

 王位継承権者に復活してからも困難に直面しました。

 最大の危機は、カトリックメアリ1世が女王になり、彼女とスペインの王子フェリペとの結婚に反対する暴動が起こったときでしょう。この暴動鎮圧後、エリザベスは反乱に加担した疑いで、ロンドン塔に収監されてしまいます。当時、ロンドン塔は監獄・処刑場の機能も持っていました。エリザベスもいつ首をはねられてもおかしくなかったのです。ましてやカトリックであるメアリ1世にとって、新教徒のエリザベスは、好ましからざる存在だったので、エリザベスはまさに身の凍る思いを経験したはずです。

 その後、証拠不十分としてロンドン塔から解放されたエリザベスでしたが、監視付きの幽閉生活を強いられるのでした。

 さてメアリ1世の死により25歳で女王となったエリザベス1世は、即位の翌年、1559年に国王至上法を復活させ、イングランド国教会を再度カトリックから切り離します。さらに統一法を制定し、一般祈祷書を用いた儀式の統一を行い、新教の浸透を図りました。

 こうした動きに対して、カトリック側も巻き返しを狙ってきました。1570年、ローマ教皇はエリザベス1世を破門にしてしまいます。また、イングランドスペインカトリック諸侯たちによる反乱も計画されていました。この計画には、エリザベス1世の従妹で、スコットランド前女王メアリー・スチュワートも絡んでいました。彼女はイングランドの王位継承権を主張しており、従妹ながら、エリザベス1世にとっては政敵でもありました。

 この反乱計画は事前に漏れ、反乱は防がれましたが、エリザベス1世は、その王位を狙う者と常に戦わねばならなかったのです。

弱小国イングランドと大国スペイン

 敵は海の向こう側からもやってきました。当時のイングランドフランススペインという大国に挟まれた弱小国家です。ただこのころのフランス国内は、カトリックプロテスタントが争うユグノー戦争で混乱し、イングランドを脅かす余裕はありませんでした。

 しかしスペインは違いました。アメリカ大陸フィリピンインドアフリカ大陸などに領土を持ち、「太陽の沈まぬ国」となった強国でした。またレコンキスタによって、ムスリムに支配されていた国土を回復したスペインは、ローマカトリックに改宗しない異教徒を厳しく弾圧するなど、極めて純粋なカトリック国家です。そのスペインにとって、カトリックから離脱したイングランドは許せぬ存在でした。

 さらにスペインが許せなかったのは、フランシス・ドレークらイングランドの海賊の存在でした。彼らは、新大陸から金銀を積んで帰ってくるスペイン船に海賊行為を働きましたが、ドレークらはエリザベス1世から海賊行為を認める特許状をもらっていました。つまり女王公認の海賊だったのです。

 それらの理由から、スペイン国王フェリペ2世は、当時世界最強と言われた「無敵艦隊」をイングランドに差し向けます。1588年のことです。

 スペインの強大な海軍力を相手に、弱小国イングランドが勝てる見込みは非常に小さなものでした。艦船の数も全く違います。イングランドにとってはおそらく史上最大の危機でした。そして、もし敗れるようなことになれば、スペインにとっては「異端宗教」のトップであるエリザベス1世は処刑されても不思議ではなかったのです。

奇襲「火船攻撃」

 しかしこの海戦で勝利を収めたのはイングランドでした。艦隊の副司令官に引き立てられたドレークらによる奇襲が功を奏したのです。カレー沖の海上でスペイン軍とにらみ合ったイングランド軍は、深夜、強風が吹く中、風下に位置するスペイン軍に向けて火をつけた大型船8隻を放ったのです。

 巨大な火船に急襲され、スペイン軍は大混乱に陥りました。そこにイングランド軍の砲撃も加わり、世界に名高い無敵艦隊は多数の犠牲を出しながら敗走するしかありませんでした。

 辺境の二流国が、超大国に勝利したこの結果は、ヨーロッパ中に衝撃を与えました。その後もイングランドスペインの戦いは続きましたが、スペインの国勢はこのころから徐々に低下していくのでした。

 そして肝心のイングランドでは、エリザベス1世の治世が45年も続き、その間、1600年に東インド会社を設立し、海外発展のきっかけを作るなど、後の飛躍の基礎を形作ったのでした。

通貨改鋳が原因で毛織物輸出に大ブレーキ

 さて、テューダー朝は、エリザベス1世が亡くなり、スコットランド王ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王になる1603年まで続きました。テューダー朝118年の間、イングランドの経済は、実はあまり進展しませんでした。もちろんエリザベス1世の時代においても同様です。

 中世のイングランドの主要産業は、羊毛の輸出でした。それが15世紀初頭から中葉にかけると、未完成の毛織物の輸出がメインになります。経済学的にいえば、第一次産品の輸出国から中間財の輸出国へと変貌していたわけです。

 イングランド産の毛織物のほとんどは、まずはロンドンに集積され、そこからネーデルランドのアントウェルペン(アントワープ)に送られていました。近世イングランドの毛織物の輸出において、ロンドンが全体の8〜9割を占めていたのです。

 また一般には、完成品ではなく半完成品の輸出をするのは低開発国のビジネスとみなされます。経済の先進国は、中間財ではなく、完成品を売るものなのです。その点からしても、イングランドは経済的にも二流の地位に甘んじていました。

 しかも、未完成の毛織物を輸出する市場はほぼアントウェルペンに限定されていました。アントウェルペンは当時、ヨーロッパを代表する国際都市の1つで、毛織物の染色・仕上げ工業が発達していたのでした。ですから、言ってみればロンドンはアントウェルペンに隷属する「衛星都市」だったわけです。

 ここで、イングランドの毛織物の輸出量を見てみましょう。

 表1にあるように、16世紀前半は輸出増の時代でしたが、後半になると増えなくなります。まず16世紀前半に輸出が増えた理由は、イングランドで貨幣の銀含有量を低下させる「悪鋳」が行われたため、ポンドの価値が下落。これが輸出には好都合に働きました。

 それがエリザベス1世の時代には、「悪貨が良貨を駆逐する」の言葉で有名な国王の財政顧問トーマス・グレシャムの進言により、改鋳が行われました。するとポンドの価値が高くなり、輸出量は伸びなくなりました。エリザベス1世は、通貨改革を実施した結果、今度は輸出の大ブレーキに悩まされることになるのです。

 そこでイングランドは、西欧以外の地域に毛織物の輸出先を求めました。1551年にはモロッコに、1553年にはギニアに船が送られ、さらに同年、ロシアとの交易を目指し、スカンディナヴィア半島の北側を廻る北東航路での航海が実施されます。1570年代には、レヴァント地方(地中海東部地方)と直接貿易することが試みられました。こうした試みは、やがてイギリスが帝国を形成する端緒となっていくのです。

 またイングランドは、多くの船舶を建造する必要から、木材資源が豊富なバルト海地方から海運資材を輸入します。それらは、スカンディナヴィア半島とデンマークシェラン島の間に位置するエーアソン海峡を通って輸入されました。この海峡のデンマーク側にあるのがクロンボー城であり、そこを通る船舶はデンマーク王室によって巨額の通行税を課せられていました。

 シェークスピアの『ハムレット』の主人公ハムレットデンマークの王子であり、クロンボー城に住んでいたのは、このような事実を下敷きにしています。この点では、シェークスピアの作品は事実を正確に描写していると言えます。

「販路開拓」が植民地獲得への基盤固めに

 毛織物の販路を拡大するため、イングランドではさまざまな工夫がなされました。それまでは厚手の毛織物が主流でしたが、オランダから技術を導入して、薄手の毛織物が作られるようになります。このことで、それまでの北海・バルト海地方市場ではなく、薄手の毛織物に適した地中海市場へと重心を移すことが出来ました。

 また毛織物のビジネスから外国人商人を排除する傾向も強まりました。この「経済的ナショナリズム」により、ロンドンは、アントウェルペンの影響下から次第に離脱していくのでした。

 シェークスピアの活躍がその戯曲によって、華やかに見えるエリザベス時代ですが、経済的に見れば、主要産業の毛織物輸出が落ち込み、パッとしない時代でした。この時代は、不況からの脱出の道を模索し続ける期間といえます。エリザベス1世の時代には、その落ち込みを補うため、ドレークやジョン・ホーキンスといった海賊たちに、敵国の船を攻撃することを許可し、そこから利益を得たり、彼らに密かに奴隷貿易を行わせたりしていました。彼女の治世には、そうした黒い一面もあったのです。

 そして、それらの行為が、やがて始まる新世界での本格的な植民地開発に結び付いてゆくのでした。テューダー朝は、そのための準備をしたといえるでしょう。

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