発達障害うつ病などで離職後、「もう一度働きたい」と願う若者の就労を支援する学校が4月1日東京都新宿区に誕生します。「キズキビジネスカレッジ」という、会計などのビジネススキルを学べる学校で、講師陣には、身体障害者や休学経験者など何らかの課題を抱えながら生きてきた人もいます。事業立ち上げの担当者として奔走しているのが、公認会計士として働いていた監査法人を辞めて転職した林田絵美さん(26)。彼女もまた、「当事者」の一人です。

空っぽランドセルで登校

 埼玉県内で育った林田さん。幼い頃から「前兆」はありました。後先考えずに行動する、退屈に耐えられない…。

「授業中、おしゃべりが止められなくて、小学1年のときは、教卓の目の前の席に座らされていました。それでも隣の男の子と話し続けて…。忘れ物はしょっちゅう。親が学校に何度か呼び出されました。ランドセルの中身が空っぽのまま登校したこともあります」

 幼い頃なら「子どもだから」で済まされたことも、成長後も続くと周囲の目が変わってきます。注意力散漫な面がある一方、「何かに集中すると他人に声をかけられても気付かない」という特性も、理解できないクラスメートは「無視」と取ったようです。さらに、衝動的に発言してしまう「直球過ぎる言葉」が相手を不愉快にさせたことも。中学では「居場所」を失いました。

「同級生の女の子のグループが『あいつ、話し方変だよね』と私に聞こえるように“陰口”を言い始めました。だんだん、誰も口を聞いてくれなくなって、休み時間も一人。一番つらかったのは修学旅行です。5人部屋で、ほかの4人が全く口を聞いてくれない。お風呂に入るとき、無理やりついていこうとしたけど、走って逃げられて。体調が悪い生徒用の部屋に『避難』しました」

 そんな環境から離れようと、東京の高校への進学を目指します。最長で1日12時間以上勉強して、有名私大の付属高校に合格。大学までの道が確保できたこともあり、将来のことを考えるようになります。

「勉強も人付き合いも、みんな自分よりうまく、自然にやっている。私はみんなが普通にできることを何倍も時間をかけて努力しないといけない。これからも、きっと」

「手に職を付けよう」と選んだ職業は、公認会計士。試験当日、「マークシートの回答欄を1行ずつ間違えて全部塗りつぶしてしまい、終了間際に慌てて書き直す」というハプニングも乗り越え、大学3年のとき、難関といわれる試験を突破します。

障害と正面から向き合う

 大学卒業後、監査法人に就職しましたが、初日から問題を起こします。

「集合時間を間違って、慌てて電車に乗ったものの、なぜか1駅手前で降りてしまったんです。違う駅なのに、本来の最寄り駅と同じ出口番号『A5出口』から歩き始めて…。もちろん着くわけありません。普通なら『駅に引き返そう』と思うんでしょうけど、冷静になれず、どうにもできずにただ歩き続けて。結局1時間遅れで事務所に着きました」

 仕事でも、メールの誤字や脱字、上司の指示の聞き間違い、言い間違いが続きます。罪悪感、悔しさ、情けなさ。自分を責め続け、限界が来ます。ある日の仕事中のことでした。

「急に過呼吸が始まって、気が付いたら、床に倒れていました」

 数日後、会社には「皮膚科に行きます」と言って、生まれて初めて精神科を受診しました。「ミスが多い」「忘れ物が多い」といった自分の状態をインターネットで検索し、思い当たることがあったからです。仕事を続けながら通院して検査を続け、社会人になって半年後、発達障害の一つである「注意欠陥多動性障害(ADHD)」と診断されました。

ショックはなくて、すっきりした気持ちでした。自分の『ダメっぷり』を自己嫌悪感だけで捉えていたのが、原因があるんだと分かったので」

 ごく身近な人だけに打ち明けました。ミスや忘れ物が多いことが症状の一つであることも。しかし、周囲の反応は予想と違いました。

「『誰だって苦手なことはあるよ』『気にしすぎだよ』と。『努力不足じゃない?』とも言われ、だんだん周りに話せなくなっていきました。そして、『やっぱり自分の努力が足りていないだけだったのかな』と、自分でも『障害』を受け入れられなくなりました」

 通院を一時中断。鎮静効果があり、衝動的行動を抑える薬を処方されていましが、飲むのをやめました。症状が再び現れ始めます。

発達障害の当事者が、抱えている困難さを周囲に理解してもらえないことから、うつ病などの二次障害につながることは珍しくありません。『発達障害かもしれないと思い、周りに相談したけど、「逃げ」「甘え」と言われてしまった』という相談を、私も複数の人から受けてきました。

確かに、『障害者だから』と障害を補うための工夫を全くしなかったら、それは『甘え』かもしれません。しかし、障害と正面から向き合って、工夫の仕方を探すのは『逃げ』でも『甘え』でもありません。服薬もその工夫の一つです」

 2カ月ほどで通院を再開。周囲の支えもあり、仕事にも慣れてきました。公認会計士の仕事にやりがいを感じてはいましたが、一つの思いが林田さんの中に芽生えてきます。それは、自分と同じように苦しむ発達障害の人たちのために、自分が何かできないか、ということでした。

「『生きづらさ』を感じてきた私だからこそ、できることがあるはず」

上司の言葉に背中を押され

 最初に考えたのは、発達障害うつ病の人たちに情報発信をするウェブメディアづくりでした。背景には、林田さんがネット検索でADHDを知った経験がありました。一方で、発達障害の人たちが「生きる手段」を身につける会計士予備校をつくれないか、という思いもありました。

 そんなとき、「うつ病の人を対象にしたウェブメディアを運営したい」というフェイスブックの投稿を見つけます。投稿者は、不登校引きこもりの人たちを対象とする個別指導塾「キズキ共育塾」を日本全国で展開する実業家の安田祐輔さん。安田さん自身も、うつ病発達障害の診断を受けた「当事者」でした。

「ウェブメディアの対象に、発達障害も入れられませんか」

 2017年9月、安田さんに連絡を取り、「予備校」のアイデアも話しました。うつ病発達障害の人たちを対象にしたビジネススクールの構想が動き始め、転職を考えます。

 安定した監査法人勤務を辞めての、ベンチャービジネスへの挑戦。退職を申し出ると、上司は引き止めました。慰留される中で、自分がADHDであることを打ち明けました。そして、自分と同様に発達障害で悩んできた人たちのために「自分だからこそ、できること」をやりたいと話しました。上司は、こう言ってくれました。

「上司としては引き止めるけど、個人としては応援するよ」

誰かを支える立場に

 2018年9月、キズキグループに入り、「学校」の立ち上げ準備が本格化しました。設立資金集めのためにクラウドファンディングを始め、そのサイトで、ADHDであることを公表しました。

「診断当初のこともあって、あまり周囲には話してなかったので、いきなり大々的なカミングアウト。サプライズですね(笑)」

 4月開設予定の「キズキビジネスカレッジ」は障害者総合支援法に基づく就労移行支援事業で、対象者は無償で利用できます。「会計」「マーケティング」「プログラミング」「ビジネス英語」などのビジネススキルプログラムの中から、各人の興味や特性に合わせた講座を受けられますが、スキルの習得以上に重視しているのが、グループワークや面談などを通じた「自己理解」です。

発達障害うつ病の人だけでなく、誰にでも『得意なこと』『不得意なこと』があります。自分の特性を知り、自分にどんな仕事や職場が合っているかを知る。それが大切です」

 林田さんには「当事者だからこそ、伝えたいこと」があるそうです。

発達障害うつ病から離職した人たちは、社会から孤立感があると思います。『頑張ろう』と思えるようになるには、今の社会のハードルは高いです。でも、特性を理解してくれる人がいれば変わってきます。私たちが思いを共有する中で、自分の可能性を見いだしてもらいたいんです」

 力強い言葉、しっかりした口調。「治療や薬の効果もあって、今は普通に仕事ができているのでは?」と問うと、林田さんは「ダメっすね」と笑います。

「今でも闘ってます。何度も名前を呼ばれても気付かないことはいまだにあるし、ミスもあります。でも、こんな私でも助けてくれる誰かがいて頑張ってこられました。今度は、私が誰かを支える立場になりたい。それは『生きづらさ』を知る私だからこそ、できることだと思うんです」

オトナンサー編集部

開校への意気込みを語る林田絵美さん