『空中ブランコ』(文藝春秋) 著者:奥田 英朗


第131回(2004年上半期)直木三十五賞

受賞作=奥田英朗空中ブランコ」、熊谷達也「邂逅の森」/他の候補作=伊坂幸太郎チルドレン」、北村薫「語り女たち」、田口ランディ富士山」、東野圭吾「幻夜」/他の選考委員=阿刀田高、五木寛之、北方謙三、田辺聖子、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇四年九月号

秀作と快作

『語り女たち』(北村薫)の冒頭には、約千三百字の、精緻で美しい文章で綴られた、物語の枠組が置かれている。読書三昧の日々を送っていた男が、視力が急に落ち出したのをきっかけに、広告で集めた女たちの話を聞くことにするというのが、その枠組である。そう思い立ったのは、細かい文字を読むのが面倒になったこともあるけれども、なによりも、〈絵空事というのが馬鹿馬鹿しく感じられ〉はじめたのと、〈作家の才覚によって作られた物語を読むより、市井の人の、実際の体験談を聞く方が、興味深かろうと思い当たった〉からだ。こうして男は十七のお話を聞くことになるが、残念ながら、この魅力的な枠組は生かされることなく終わる。というのは、十七の掌編には、枠組で否定された絵空事のお話が多いからである。男が聞きたかったのは(枠組からするならば)実人生の最中にふと生まれる人間の真実のようなものだったのではないか。もとより手だれの作者、中には「眠れる森」や「梅の木」のような佳品もあるにはあるのだが。

『幻夜』(東野圭吾)を、それこそ寝食を忘れて読んだ。阪神淡路大地震のときの暗い因縁から捩じくれて結ばれた社会登攀者の女と、その女を陰から支える男。女が社会の階段を駆け上がって行くときの展開の巧さとその快い速度感は、この作者の独壇場だろう。けれども、寝食を忘れたのは半ばまで。あるところまで登りつめたとき、女は、突然、作者の奴隷になってしまう。作者が力ずくで女を動かしているのが、女をむりやり物語に奉仕させているのが、はっきりと見えてくる。そしてそのとき、それまでの迫真の人間劇がその厚みを失って行った。

富士山』(田口ランディ)を、評者は買った。世界は悪意と暴力とによって、とてつもない病気にかかっている、この世界をどう生きればいいのか、どうすれば生きる力を手に入れることができるのかという、この連作の主題は切実であり、さらに主題展開の軸を「富士山」に据えたのは、めざましい工夫だった。中でも「樹海」は、三人の少年の冒険を語りながら、森の夜のおそろしさを新鮮な文章で書き切っていて、胸おどる読書体験だった。とりわけ最後の数百字は、大自然との一致という点で、あの『暗夜行路』の大山の場面に匹敵するかもしれない。しかし、支持は少なく、評者としては次の作品を心待ちにするしかない。

チルドレン』(伊坂幸太郎)は、五つの短篇を連ねて、その中から不敵で突飛な言動をとって周囲を悩ます人間、陣内くんを浮かび上がらせようという、あかぬけした構造を持つ。主題は、「人間は常になにかに成りすましている」。人質に成りすます銀行強盗(バンク)、父親に成りすます闖入者(チルドレン)、通行人に成りすます警官たち(レトリバー)、公務員に成りすますミュージシャンチルドレンⅡ)、熊に成りすます陣内くん(イン)……各篇に、なにかに成りすました人たちがぞろぞろ登場する。陣内くんはなんとなくそれを知っていて、「うわべの虚飾を剥ぎ取って人間の本質を見なければならない」と考えているらしく、それが彼の突飛な言動のもとになっている。知的でスマート、なかなかの思想性、面白い人物造型である。しかし、各篇とも勝ち味の遅い展開ぶりで、話に隙と穴が多く、なによりも作者と登場人物との関係があまりにも淡すぎて、なにか他人事のように書かれているところが気になった。

『邂逅の森』(熊谷達也)は、自然に向かって人間はどうあるべきかという大きな主題をしっかりと据えて、狩りを生涯の仕事にした一人の男の人生を、揺るぎのない筆致で堂々と書き切った秀作である。里言葉と山言葉の巧みな使い分け、簡潔に書かれながら迫力十分の性愛場面、出入りする登場人物たちの個性の多彩さ、おもしろさ、女たちの男に接するときの温かさと運命に向かうときの勁●つよさ……どれもこれもみごとなものだ。また、たとえば、三八銃採用と村田銃払下げ、第一次大戦と鉱山景気、シベリア出兵と毛皮需要の増大、満洲事変とウサギイタチの民間飼育ブームなど、物語のうしろで歴史が動いていることを暗示する筆の捌きも作品に幅と奥行きを加えている。とりわけ感服したのは、主人公が山の主であるコブグマに向かっていう次のような言葉である。〈俺はおめえの仲間をさんざん殺めてきたからの。かまわねえがら俺を喰え。俺を喰って力ばつけて生きながらえろ。この山のヌシとして、いつまでも生き続けろ。したら、俺も本望だべしゃ……〉(四四四頁)。この視点を持つことによって、本作は二十一世紀の小説になった。つまり、古風なようでいて、じつは新しい作品なのである。

空中ブランコ』(奥田英朗)は、前作『イン・ザ・プール』に引き続いて、精神科の、あの怪しい名医、伊良部一郎先生が活躍する快作である。先生の治療法は前作と同じだ。まず愚者と同じ症状におちいってみせる、それも患者よりも重い症状になってみせる、そのことによって、患者に自分自身の症状を気づかせる。もっといえば、患者の上を行って、逆に患者に医師の役を演じさせて、心のこわばりをほぐしてやるという破天荒なものである。前作における患者群は市井の人たちばかりだったが、今回はちがう。空中ブランコ乗りのスター、やくざ界のスター若頭、大学医学部スター講師、プロ野球界のスター三塁手、そしてスター女流作家など、いってみれば患者全員が、それぞれの世界ではピカピカに光る存在ばかりである。したがって、先生の治療法もばかばかしいほどハデにならざるをえない。この物語構造そのものがすばらしい発明であるが、今回、作者はこの構造に絢爛たる笑いの花を満開に咲かせた。とりわけ、「ハリネズミ」と「義父のヅラ」には、さんざん笑ったあとに人生の真実にふれたような感動をおぼえ、前作同様に強く推した。

【この解説が収録されている書籍】

『井上ひさし全選評』(白水社) 著者:井上 ひさし



【書き手】
井上 ひさし
1934-2010)作家・劇作家。山形県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。『ひょっこりひょうたん島』(共作)、『手鎖心中』『吉里吉里人』『きらめく星座』『ムサシ』『化粧』『父と暮せば』『井上ひさしの読書眼鏡』『井上ひさし全選評』他、多数の小説・エッセイ・戯曲の著作あり。演劇賞、文学賞を多数受賞。故郷山形県川西町には井上の蔵書20数万点で作られた図書館、遅筆堂文庫がある。

【初出メディア
オール讀物 2004年9月号

【書誌情報】

空中ブランコ

著者:奥田 英朗
出版社:文藝春秋
装丁:文庫(282ページ
発売日:2008-01-10
ISBN:4167711028
空中ブランコ / 奥田 英朗
【第131回(2004年上半期)直木三十五賞】物語構造そのものがすばらしい発明。絢爛たる笑いの花を満開に咲かせた