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「釜石鵜住居復興スタジアム」は、自然と調和する美しい競技場だ。目の前に大槌湾、メインスタンド後方には、深い森がある。昨年8月に完成したこのスタジアムで今年9月25日、「ラグビーW杯2019」が開催される。

8年前の東日本大震災で、ここ、鵜住居地区は、巨大な津波に襲われた。地区の根浜海岸に立つ浜べの料理旅館「宝来館」も2階まで津波にさらわれ、女将の岩崎昭子さん(62)も一度は津波にのまれている。地区の死者・行方不明者は583人に上り、宝来館の従業員も3人が犠牲になった。

「でも、生きっぺしと思ってね」

突き抜けるような明るい声で、岩崎さんはそう言った。「生きっぺし」とは、「生き抜くぞ」「生き続けよう」と、自分に言い聞かせる方言だ。

そして震災直後の5月から、宝来館再建と同時に、ラグビーW杯招致に向けて、奔走し始めたのだ。彼女がいなかったら、震災被害が甚大だった釜石で、W杯開催など、誰も思いつかなかったことだろう。そう、岩崎さんは、釜石のW杯誘致の言い出しっぺなのだ。

’11年3月11日は、うちで板前をしていた上澤隆年くん(享年49)の息子さんの結婚披露宴がありました。内輪だけの会でしたが、和やかないい会だったんです」

会がお開きになり、岩崎さんが旅館に隣接する自宅に戻ったとき、激震が襲った。岩崎さんは急いで宴会場に走り、残っていたお客さんに声をかけた。

「ラジオを持って、外サ、駐車場サ行って!」

宝来館は、避難指定ビルになっていた。駐車場に、集落の人々が続々と集まってくる。旅館の裏山には、避難のための登山道も造ってあった。根浜海岸では毎年、津波を想定し、海水浴客を誘導して山に避難させる避難訓練もしていた。

そのとき上澤さん一家が、親戚と車で帰ると言ってきた。

「明治29年、昭和8年にも大津波があり、この地域では地震から津波が来るまで20分ほどかかることはわかっていました。一瞬、間に合うのかなと思ったんですが、『すぐ帰って。津波、来るから』と、止めなかったんですよね……」

ラジオの速報が知らせる津波の高さが3メートルから6メートルになったとき、集まった人々が列をなして、裏山の登山道を上り始めた。岩崎さんも上りかけたが、途中で駐車場に人が残っているのに気づき、女性スタッフと迎えに戻った。逃げ遅れた人たちと、再び登山道へと走り出したまさにそのとき、津波が背後から押し寄せてきた。

「登山道の入口が渋滞していて、後から来た2人のお母さんを押し上げて。さぁ、上ろうとした瞬間、水の中だったんです」

背後から津波にのまれ、岩崎さんは水の中であおむけになった。

空を見上げて浮いた格好になっていました。その空がまた、すごく奇麗な青空で。痛くも怖くもないんです。あ~、私、54歳だけど、これで死ぬ運命だったんだな、と」

諦めにも似た思いもよぎったが、突然、目の前が暗くなり、息が苦しくなった。小型ボートが彼女の上に覆いかぶさったようだった。その息苦しさに、正気に戻った。岩崎さんは、強く思った。

「生きっぺし!」

運よくボートが頭上から外れ、立ち泳ぎをして浮かび上がった。

「あのがれきをつかめば何とかなると手を伸ばしたら、ふわ~っと温かなんです。がれきじゃなくて、女性スタッフの手だったんです」

「女将さん、手を離さないで」という声が聞こえた。一緒に流された2人の女性スタッフと助け合い、マイクロバスの屋根によじ登り、山の斜面に飛び移って山の急斜面を駆け上がった。間一髪で命をつないだ。宝来館に逃げた人からは1人も犠牲者が出なかった。しかし、津波の前に自宅に向かった板長の上澤さんは、助からなかった。

「津波で屋外に投げ出された上澤くんは、電線につかまって、奥さんと手をつないでいたけれど、奥さんの手が離れると『ちくしょー』と叫んで、後を追ったそうです。生き残ったのは娘さんだけでした」

ほかにも、2人の仲居さんが津波の犠牲になっている。

「従業員だけではありません。この根浜の村だけで14人が亡くなっています」

震災の夜、岩崎さんは宝来館の屋上から懐中電灯で海を照らした。

「誰かが砂に埋まって助けを求めているかもしれない。まだ、生きている人がいるかもしれない。途端に怖くなったんです。でも、『ごめん』としか言えなかった……」

電気は遮断されたまま、海は陸との境もわからない暗黒だった。

「そしてまた、思うんです。生きっぺし、と。自分たちは生きている。だったら、生きっぺし。生き抜くことが使命。義務なんです」

震災から2カ月後の5月3日、2人の男性が宝来館を見舞いに訪れた。新日鐵釜石ラグビー部を受け継いだクラブチーム「釜石シーウェイブス」の事務局長だった増田久士さんと岩手県出身で元日本代表のラガーマン・笹田学さんだ。

3人で海岸を歩いた。震災前の根浜海岸は、日本白砂青松100選に指定された景勝地だった。2キロあった砂浜は、津波で半分になり、松林は50メートルほどしか残っていない。松林の残骸を撤去するブルドーザーが行き交う浜を眺めながら、笹田さんが言った。

「ここはニュージーランドオーストラリアラグビー場に似ているよ。港から芝生が見えて、すぐ近くにスタジアムがあるんだ。ここでW杯がやれたらいいね」

岩崎さんははじけるように、叫んでいた。

「やってけれ! 絶対に釜石でW杯をやってけろ!」

’60年代、製鉄の街として隆盛を極めた釜石は、ラグビーの街でもあった。新日鐵釜石ラグビー部は、’79年から日本選手権7連覇を遂げ、8度、日本一となって「北の鉄人」と呼ばれるほどの活躍を見せた。当時、20代だった岩崎さんも、当然、熱狂した。

ラグビーの街にW杯が来る。これほどピッタリなことはない。世界じゅうから根浜の海に、ラグビーファンが集まるんです!」

岩崎さんの夢が広がった。ラグビーW杯は、夏季五輪、サッカーW杯と並ぶ世界3大スポーツの祭典だ。試合は全国12カ所のスタジアムで行われ、開催を受け入れる自治体には大きなスタジアムがあることが条件だった。

しかし、釜石は大震災で壊滅状態に陥ったばかり。街はがれきがあふれていた。「とてもW杯どころじゃない」というのがラグビー関係者の共通認識だった。後日、釜石の復興をラグビーで支援する「スクラム釜石」が東京で立ち上がった。その第2回会合で、岩崎さんは熱い夢を語った。

「復興も大事ですが、私たちには夢が必要です。釜石でW杯をやりましょう。私たちはスポーツで夢をもらいたい。夢をください」

岩崎さんのこの一言が、大きな一押しになった。震災のその年に、釜石有志による「釜石ラグビーW杯2019を語る会」が開かれ、W杯招致をしていくことが正式に決まったのだ。

最初は誰もが半信半疑だった。ラグビーのW杯なんて――。安全が確保されていない被災地に、選手やファンを呼ぶことを危惧する声も強かった。それでも岩崎さんは訴え続けた。

「津波が怖いから、何もやらないでは、何もできません。大地震を経験して、私たちにはどうすれば生き残れるかという知恵がある。津波は防ぐことはできない。でも、避難場所を造って、津波が来る前に、てんでんこ(バラバラ)に逃げる。それを教えていくのが、震災で生かされた私らの役目です。いま、夢を語らねば、いつ語るんですか」

’15年3月2日、W杯を開催する12都市が発表された。「札幌」に続いて「か」が聞こえた瞬間、大歓声が起こった。後は「釜石、釜石」の大合唱。釜石が開催地に決まった――。

宝来館の少し先にある夫婦岩の岩場は、ハマギクの自生地だ。花言葉は「逆境に立ち向かう」。秋になると、丘一面にギッシリと咲き誇る。

「その先をさらに行けば、スタジアム。釜石で試合をするW杯の選手たちは、必ず、このハマギクの丘を通るんです。あ~、ハマギクの季節が待ち遠しいですね」