『イデオロギーとしての日本文化論』(思想の科学社) 著者:ハルミ・ベフ


大学院の演習でハルミ・ベフの『イデオロギーとしての日本文化論』を読む。

ハルミ・ベフは日本名別府春海。ロサンゼルス生まれだが、少年期を日本で過ごし、アメリカで高等教育を受けた文化人類学者である。日本語がすらすら読めて、アメリカン・スタイルの分析方法を縦横に駆使する、インターフェイシャルな知性である。こういう人の日本文化論批判はひと味違うだろう、ということでテキストに採用したのであるが、望外の収穫があった。どういう収穫かというと・・・まあ、読んでみよう。

ベフの立場は明快である。

日本文化論と称して巷間流布している言説の過半は学術的なものではなく、単なる大衆消費財であり、その主なイデオロギー的機能は保守党支配の日本のstatus quo の維持と、夜郎自大な自民族中心主義的幻想の培養基である、というのである。

なんという直截さであろう。これでもうほとんど話は終わったも同然である。

ベフは「文化論」という言説そのものがイデオロギー的な虚妄であることを鋭く暴き出す。

「まず、当然ながら、文化論は、ある文化を共有する集団-たとえば日本民族-が自己の集団を他の集団から区別する手段である。その手段として自己の集団のもつ、文化的、社会的特徴を論じたものが文化論である。」(「『日本文化論』とは何か」、36頁)

という論定からこの分析は開始される。

この冒頭の一文がすでに際だって徴候的な語法で書かれていることに注意深い読者は気がつかれたかもしれない。まあ、ふつうは気がつかないだろう。私も最初は気がつかずに、すらすら読んでしまったもの。この「徴候」についてはあとでまた触れることにしよう。

ベフはこう続ける。

「その特徴が自己の集団を他の集団から区別するためには、他の集団とは違ったものでなければならない。」(Ibid.)

この場合の識別指標はできるかぎり対立的なものが望ましい。だから「たとえば、欧米は『契約』の社会であるのに対して、日本は『黙約』の社会」である、とか「欧米国家は『騎馬型』であるのに対して、日本は『農耕型』」「西欧肉食文化に対する日本米食文化」「森林的性格をもつ日本文化と砂漠的性格をもつ欧米文化」といったわかりやすい二項対立図式が好まれる。

この場合、日本文化と差別化される「他の集団」は任意の集団ではなく、日本にとってなんらかの痛切な利害関係をもつ集団である。日本文化論において対比の対照項となるのは、ほとんど「欧米社会」か、隣国であり、「日本文明に過去大きく影響を与えた」中国である。(この本の初版刊行は1987年であるので、その後として韓国との比較論が際立ってきたことには言及されていないが、これも同じロジックで説明できるだろう。日本文化論は日本がなんらかの理由で「それとの差別化を強調したい集団」を関連項として成立している言説である。)

つまり、日本文化論という言説は、何かを「・・・である」として実定的に指示するために、というよりは何かを「・・ではないもの」として示差的に指示するために、語り出されるものだということである。

それゆえ、文化論においては、ある集団の文化の特質が「その文化の担い手全員にひとしくあてはまるかの如くに考えられる」ことにある。

日本文化論を語る人間は平然とつぎのような文章を書く。

「日本人は自然、とくに四季の変化、天象気象、動物植物などに対して、きわめて繊細鋭敏な感受性を持っている」(喜多川忠一、『日本人を考える』

このような記述がその好個の適例である。

およそ日本文化論と称するものはすべて日本人なる集団が全員ある種の精神的傾向を共有しているかのような書き方をする。しかし、これほど事実と隔たっていることはない。

まず日本には地域性の差がある。

「例えば文化論では日本人の人間関係、思考のユニークさを説くとき、必ず標準語が分析の対象になり、方言は分析されない。これは当然といえば当然だろう。東北弁を分析すれば、東北人の人間関係、思考法はわかっても、それが日本人全体にあてはまるかどうかは分からない」(45頁)からである。

そればかりではない。「日本にも、アイヌ、朝鮮人(北朝鮮人、韓国人)や華僑その他の日本民族以外の人々が住んでいることを『同質論』は無視している。」(46頁)

ベフの議論はまだ始まったばかりなのだが、私はなんとなく、もうこの先を読む意欲を失ってしまった。

というのは、この人はここまでですでに致命的な論理の混乱を来しているからだ。

ハルミ・ベフは日本人は同質であるという前提を疑わない日本文化論を反証するにここで「地域性の差」を持ち出している。

日本文化論は標準語を分析しているから、「東北人の人間関係、思考法は分からない」とベフは言う。

そう言ういう以上、ベフは「東北人」なるものが固有の「人間関係と思考法」を有しているとという前提を採用していることになる。

しかし、同じロジックを適用させていただくけれど、数百万人からなる集団である「東北人」などというもの同質性があるはずはない。

当然ながら、ベフのロジックによれば、「福島県民の県民性」とか「青森県人の県民性」といった、さらに下位の「地域差」が無視されてよいはずがない。しかし「福島県民」のあいだでも「福島地方」と「会津若松地方」では県民性に際だった差異があると福島の人々はたしか主張していた。そして、その「会津若松」の人たちだって、一人一人に尋ねれば、おそらく「隣町」との歴然たる地域差を語ってくれるのではあるまいか。

「・・・文化というような同質的なものはない」という議論はたいへんに正しいけれど、残念ながら正し過ぎる。

集団の文化的特性は、つねにそこにふくまれる多様で個別的な差異を無視して語られているというのはほんとうである。だが、それはよろしくない、ということになると、私たちは最終的には集団に固有の文化的特性などというものについては語るべきではなく、個人についてのみ語るべきである、というすっきりしているけれど、なんだか面白くもおかしくもない結論に至ることになる。(それに私の個人的見解を言わせてもらうと、個人の内面にさえ複数の人格特性が混在している。「ウチダって要するに・・・な奴だよな」というような決めつけに私は一度として納得したことがない。だって、私の中には「他の要素」だってあるからだ。)

だから、「日本文化の同質性なるものは幻想だ」と言いたい人は、こう続けるべきなのだ。「なぜなら、日本には人間が二人以上いるからだ。」

ご覧の通り、この命題は、完全に正しく、完全に無意味である。

「文化」は個人では成立しない。

「文化」はある種の集団の(いくぶんか無意識的な)合意の上に成立している。それは「同質である」という事実認知ではなく、「同質になろう」という遂行的願望を表している。

それはベフに指摘されるまでもなく、常識に属することがらである。

「日本文化論者は『日本人はこうである』といいながら、暗に『日本人はこうあるべきだ、レッキとした日本人ならこう行動すべきである』と主張している。どのようにして記述が規範にすりかえられるのだろうか」(49頁)とベフは不満顔である。

しかし、「・・・文化論」というのは、記述ではなく、そもそものはじめから規範なのである。

例えば「慶応ボーイ」とか「早稲田の蛮カラ」というような形容がある集団文化について言われる場合、それは「同質的な学生たちが集団をつくっている」という事実を「記述」しているのではない。そうではなくて、、「その集団に入ると、ある種の示差的な行動様式や価値観が成員に規範的に意識される」ということを述べているのである。

「慶応ボーイとか言いやがって。けっ。俺はそういうこと言ってちゃらちゃらしているやつらが大嫌いなんだよ。おれはあくまでおれよ」というようなことを言う慶応大学生はその発語の瞬間に「慶応ボーイ」という理念型を、まさに「そういうやつら」を非難するという仕方で堅固な現実として造型している。つねに、そういうしかたで、集団の文化というのは構築されるのである。

それと同じように、「日本人は四季の変化に敏感だ」というようなことを和辻哲郎が書くとき、彼は「日本人よ、四季の変化に敏感たれ」、さらには、「四季の変化に敏感でなければ、あなたは日本人とは言われない」というような威嚇的な、鋭くイデオロギッシュな遂行的命令を下しているのである。

でも、そんなのは当たり前である。

和辻哲郎の『風土』を読んで、「おお、これはまさに私自身のことを書いている」と思うのはよほどおめでたい人である。ふつうの日本人は和辻を読んだら、宿題をもらった小学生のような気になるだろう。

「・・・文化」というようなものはつねに、本質的に、徹頭徹尾イデオロギー的なものである。

だから、仮にイデオロギー的な「メイン・カルチャー」に対して「サブ・カルチャー」を対比させる、という反論を試みても、「サブ・カルチャー」もまた、ミニチュアのイデオロギーに他ならない以上、それが「文化」のイデオロギー性についてのラディカルな批判になることはありえない。

そもそも「サブ・カルチャー」が「メイン・カルチャー」を攻略するという構図そのものが「メイン・カルチャー」を「メイン」なものとして造型するためにビルトインされているのである。

「・・・文化」なるものは、批判的な文脈であれ、肯定的な文脈であれ、その名詞が発語された瞬間に存在する。

「コギャル」(古いね)とか「新人類」(もっと古いや)とか「全共闘世代」(やれやれ)とかいう言葉は誰かが最初に発語した。そしてその瞬間に、そのような集団と集団の文化が「現実」のものとなって、圧倒的なリアリティを獲得してしまった。

これらはすべて、「それを否定的な文脈で論じるために語り出され、それによって、同質的なものとして現実化された」集団名称である。

「日本文化の同質性なるものは幻想だ。なぜなら、日本にはアイヌや朝鮮人や華僑もいるからだ」というような発言は、その瞬間に「サブ・カルチャー」としての同質的文化集団である「アイヌ」や「朝鮮人」や「華僑」をイデオロギー的に造型し、それと同時に、それらのサブ・カルチャーを抑圧している「ドミナントな人種集団の同質的文化」にも圧倒的な現実性を賦与してしまうのである。

ベフはそのようなイデオロギーのしたたかさに対していささか「脇があまい」ように私には思われる。

同質的で自己同一的な「日本文化」という概念に無批判によりかかっている凡百の「日本文化論」が学術的検証に耐えないことは、たしかにベフの言うとおりである。

しかし、そうやって「大衆消費財としての日本文化論」を睥睨するベフの「メタ文化論」なるものが本人が信じているほどに「学術的」であるかどうかというと、私は懐疑的である。

「日本文化の特殊性と普遍性」という論文でも、ベフはドミナントな民族集団による文化的な抑圧について批判的な言を繰り返している。

「日本は日本民族によって代表され、日本に在住する日本民族以外の民族はアイヌ民族にしろ朝鮮民族にしろ、日本国家のアイデンティティを論ずるに当たって無視されてきた。ということは、日本国家の大多数を占め、また経済的にも政治的にも日本を支配する日本民族の文化を基礎にしたディスクールが日本国家のアイデンティティを作り上げていることを意味する。」(259頁)

しかし、これは日本に限らず世界中のすべての国民国家で見られる現象である、とベフは続ける。

「これとまったく同じ現象は他の国家でも見られる。たとえば、イスラエル(・・・)多民族国家であることをうたっているアメリカも、この点では日本と同じだ。(・・・)いまだに、西欧伝来の価値観と、それを継承した、白人アメリカの新大陸上陸以来の歴史にアメリカを代表する世界観を求めるものが主流である。」(260-61頁)

イスラエル文化とは要するに「ユダヤ文化」であり、国内のアラブ系市民の文化はサブ・カルチャーにおしこめられている。アメリカ文化とは要するに「ワスプ文化」であり、他のエスニック・グループの文化は決して「アメリカ的なるもの」として表象されることはない。アメリカの民族文化を構成する「一連の価値にはメキシコ系アメリカ人や黒人のような非白人種民族の伝統的価値は反映されていない」(263頁)のである。

これをベフは主流民族による少数民族の「対抗アイデンティティ」の抑圧というふうにとらえる。

「現代の国民国家は多民族国家でありながら、同時にその国家的アイデンティティは主流民族の文化によって象徴され、少数民族はそのアイデンティティに表象されていない。そしてそれはその国家の少数民族に対する偏見、差別待遇をそのままに表している。」(263頁)

たしかベフは前の方で「東北人」は「日本人」に「表象されていない」ということを指摘していた。それを論拠に「日本人」という概念には厳密には実体がない、と主張していたのである。

ベフのロジックにしたがえば、当然ながら「九州人」も「関西人」も「日本人」には「表象されていない」ということになる。

では、この人たちもまた「そのアイデンティティを表象されていない」少数民族ということになるのだろうか?

まさかね。

では、「アイヌ」と「東北人」はどこが違うのか?「ウィスコンシンのトウモロコシ野郎」と「メキシコ系アメリカ人」はどこが違うのであろう?

ベフはそれについては何も書いていない。

「東北人」とか「ウィスコンシン州人」は「自分のことを勘違いして『主流民族』だと思っている」少数民族のことなのだろうか?「アイヌ」と「東北人」の違いは「勘違い」しているかしていないか、だけの違いだということなのだろうか?

私にはよく分からない。たぶん問題をこんなふうに立てること自体が適切ではないのだ。

分かるのは「主流民族の文化」というものは「実体はない」にもかかわらず(あるいは、実体がないがゆえに)現実には、「抑圧的に機能しうる」ということである。

そして、何かが「抑圧的に機能している」ときにそれに現実的に対処しようと思ったら、それに名前を与え、それを実体化する以外に打つ手がない、ということである。

右手で壊したものを左手で作り直すことなしには、話が進まない。(そして、現にさっぱりベフの話は先へ進まない。)それが民族とか文化について「学術的に語ろう」と望むものの陥る罠である。

そしてハルミ・ベフもその例にもれないのである。

彼は日本文化論が「日本人のユニークさ」をもっぱら外国人の日本論を通じて基礎づけようとする傾向を指摘したあとで、それはアメリカ人の決してしないことだと断言している。

「アメリカ人は概していまだに世界一を自負している。とくに自国の事情について自分よりよく外国人が知っている、外国人から自国について学ぶべきことがある、という自覚がほとんどと言っていいほど欠如している。むしろ外国人がアメリカ人について、アメリカ人以上に知っているはずがない、という前提のもとにアメリカ人は思考し、行動する。」(271頁)

この文章で、ベフはずいぶん気楽に「アメリカ人」の一般的特性について語っている。これを読む限り、どうやらすべての「アメリカ人」は同一のしかたで「思考し、行動する」かのようである。

日本人については、すべての日本人が同一のしかたで思考し、行動するかのように語る言説を「大衆消費財」として切り捨てたベフは、どういう「学術的裏付け」があって、アメリカ人については彼らの思考と行動の同質性を語りうるのであろうか。

たしかアメリカには、主流民族の文化に表象されていない無数の少数民族が存在しているはずではないのか?それとも、彼らもまた「世界一を自負している」のだろうか?

主流民族の文化的特性を「国民文化」の特性と錯認するジャーナリズムの誤謬を辛辣に批判した以上、ベフは「アメリカ人は・・・である」という言い方を可能な限り自制すべきだろう。

あるいは自制にも限界があった、ということなのだろうか?

「日本人は・・・である」というような言い方はしないほうがいいんだけどさ、ついしちゃうんだよね、というのがベフのこの「学術書」の結論であるように私には思われる。もう少し学術的に言いかえれば「集団の同質性はつねに過大評価される」ということになるだろうか。

私はこの結論は正しいが、いささか貧しいと思う。

私たちはこれを「結論」とするのではなく、これを「出発点」として文化について考えなければならないからである。

【書き手】
内田 樹
哲学者。1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学文学部助教授・教授を経て2011年に退職。現在、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学客員教授。昭和大学理事。神戸市内で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰。合気道凱風館館長、神戸女学院大学合気道部師範、合気道七段。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『先生はえらい』など。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞、『日本辺境論』で2010年新書大賞。執筆活動全般について第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の天皇論』、『変調「日本の古典」講義』(安田登との共著)、『ローカリズム宣言』。

【書誌情報】

イデオロギーとしての日本文化論

著者:ハルミ・ベフ
出版社:思想の科学社
装丁:単行本(281ページ)
ISBN:4783600899
イデオロギーとしての日本文化論 / ハルミ・ベフ
言説そのものがイデオロギー的な虚妄であることを鋭く暴き出す