主君や家族や友人の名誉や汚名返上のために自分の命を懸けた者たちがいました。それはいつしか仇討と呼ばれ、後世では武士の生き様の一つとして私たちの知るところとなっています。

今回はそんな日本を代表する3つの仇討を紹介したいと思います。

幼き兄弟は父の無念の為に復讐を誓う

一つ目は曽我佑成(そがすけなり)と曽我時致(そがときむね)の兄弟が行った曽我兄弟の仇討です。

歌川国芳画:曽我兄弟/Wikipediaより

この仇討の発端は2人の祖父と工藤佑経の所領争いに遡ります。父であった河津佑泰は恨みを買われた祖父と共に佑経の刺客に襲われ、不幸にも絶命してしまいます。

残された曽我兄弟は佑経に恨みを抱きながら生き、一方で佑経は源頼朝御家人となり、寵臣として悠々とした人生を送っていました。

しかし、転機が訪れます。それは建久4年(1193)に行われた富士の巻狩りでした。これには頼朝と佑経も参加していて、夜になり酒を飲んで酔っていた佑経を2人は討ち果すことに成功します。

しかし、騒ぎを聞きつけた武士たちによって、佑成は仁田忠常によって討たれてしまい、時致は頼朝を討ち果たそうと向かっていきますが、拘束されてしまいます。

頼朝は翌日、時致から仇討に至った理由を聞き助命を考えます。しかし、佑経の子・犬房丸が泣いて訴えてきたため、時致は処刑されてしまうのでした。

この仇討がもとで頼朝の弟・源範頼は頼朝の信頼を失ってしまい、修善寺に幽閉されてしまいます。

全ては主君の名誉のために…

二つ目は旧浅野家家臣47人が行った赤穂事件です。

二代目山崎年信画:吉良邸討ち入り/Wikipediaより

この仇討の発端は赤穂藩主・浅野内匠頭が高家の吉良上野介に対する恨みから始まります。

内匠頭は吉良に対して恨みを持っていて、我慢しきれなかった内匠頭は江戸城松の廊下で吉良を斬りつけました。

この時の江戸城は最も格式の高い行事を行っていた最中でした。このような事態を起こした内匠頭に幕府は許すはずもなく、即日切腹を申し付けると同時に赤穂藩はお取り潰しとなってしまいます。

内匠頭だけ処分を受けることに対して赤穂藩の家臣は反発を起こし、大石を中心に吉良討伐に向けて動き出します。そして、元禄15年(1703)の冬、47人は吉良邸へ潜入し、見事吉良を討ち取ります。

吉良を討ち取った46人(1人は逃げたとされています)は幕府にこのことを報告し、これを受けた幕府は処罰方法に斬首を考えていました。

しかし、46人の武士の面子を通すため一番名誉ある死である切腹を命じ、46人は潔く切腹しました。

愛する弟の命を奪った仇のため、義兄弟起つ!

三つ目は渡辺数馬(わたなべかずま)と荒木又右衛門(あらきまたえもん)が行った鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討)です。

渡辺数馬/玄忠寺ホームページより

この仇討の発端は数馬の弟・渡辺源太夫を巡る恋愛関係から始まります。源太夫は池田忠雄(岡山藩主)の小姓でしたが、恋をした河合又五郎が関係を迫ってきます。

もちろん、源太夫は断るのですが、それが原因で殺害されてしまいます。その後、又五郎は脱藩し江戸で旗本に匿われました。

やがて、忠雄が病気で亡くなり、又五郎が旗本と岡山藩の抗争の処罰として江戸追放を受けると数馬は忠雄の意志を受け継ぎ脱藩し、又五郎討伐を決意しました。

しかし、剣に自信のない数馬は義兄弟の荒木又右衛門から剣の指導と助太刀を頼み、寛永11年(1634)に又五郎の居場所を突き止め、道中の鍵屋の辻(現在の三重県)で決闘が挑みます。

長い決闘の末に又五郎を討ち取り、2人は本懐を成し遂げました。この仇討で数馬と又右衛門は賞賛を受けますが又右衛門は翌年に亡くなっています。

最後に

誰かのために命をかけることは誰でもできることではありません。その死を恐れない覚悟と最後まで忠義を尽くした姿が人の心を惹きつけ、今でも語り継がれているのだと思います。

関連画像