英国の欧州連合(EU)からの「離脱期限」であるはずの2019年3月29日を迎えました。しかし、事態の推移はいまだ定かでありません。

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 3月に入ってから英国議会では水際の攻防戦が続きました。3月12日、英下院はEUが取りまとめた新たな離脱案を否決します。

 テリーザ・メイ首相がEUに押されてまとめてきたような離脱案が、「受け入れられるか!」というわけです。

 しかし、翌日の3月13日、同じ英下院はEUからの「合意なき離脱(No-Deal Brexit)」の回避を求める決議案を可決します。

 このままでは大変なことになるという現状認識は多数が共有している。

 さすがに現実は否定しがたく、無策な離脱は回復困難な経済的打撃を英国にも与えることを、普通の認識の人ならだれもが共有していることを示していると言っていいでしょう。

 翌3月14日、英下院は政府から提出された動議、EUからの離脱期限である3月29日を延期することを、賛成多数で可決しました。

 分かりやすく言ってしまえば、上記のように現時点では打開策は全く見えていないわけですから、結論の引き延ばしに過ぎません。

 メイ政権は現状の案で押したい様子ですが、それが長期的に見て英国のためになる保証は全くありません。保守党のためにはなるかもしれませんが・・・。

 そもそもの離脱期限、3月29日、正確にいえば2019年3月29日午前11時まで定められていますが、この日付は英国側が設定したもので、それを英国が自ら先延ばしする形になっている。

 この原稿を私はベルリンで、ドイツの仲間とやり取りしながら書いています。私は特段、英国に敵対的でもなければ、EU側にのみ親和的ということもありません。

 しかし、欧州サイドから見る英国の人騒がせな動き、EUのブレグジット疲れには共感するところが多いのが正直な気持ちです。

 経済の一部の話題だけですが、欧州連合側と対策を協議する場も共有していますので、日本国内で一般的に伝えられるのとは少し違う切り口で、この日付での観測を記してみたいと思います。

誰もブレグジットを頼んでいない

 欧州サイドの率直な意見を言うならば、誰も英国に欧州離脱などしてほしいとは頼んでいないわけです。

 「やめてくれ。国として、また国際社会の一員として、まともな姿勢を取ってくれ」というのが、一貫したEUサイドの意見にほかなりません。

 それくらい、「英国」の言い分や行動は支離滅裂である、という基本的な事実から確認しておきましょう。

 デビッドキャメロン前首相は、あんな馬鹿げた国民投票など、一切行う必要はありませんでした。

 その結果、自分で自分の祖国の首を絞める結果になってしまった。49歳の元若者が首相などといった器に余る地位について、国を壊してしまったと言っていいかもしれません。

 「冗談ではない。もうこれ以上やめてくれ」というのがEU側で責任を持つ立場の本音であることは、微動だにしません。

 2017年11月、ブレグジットの具体的な日程として、約1年5か月後にあたる「2019年3月29日、グリニッジ標準時11時」と時間まで定めたのは英国の国内法であって、EUから頼んだものではありません。

 これは、日本時間に直すと、翌30日土曜日の午前8時にあたりますから、この記事が公開されてからまだまる1日ほど後になります。この期限を設定したのも、またそれを先送りしたのも、言ってみれば英国の独り相撲に過ぎません。

 その背景にあるリスボン条約(修正EU条約)第50条の離脱条項には具体的な手順が定められていません。

 よく言えば臨機応変という念頭だったのだと思われますが、かくも重要な問題でありながら定まった手順がないわけですから、交渉は難渋を極める、当然のことと言えるでしょう。

 リスボン条約は「離脱の2年の期限内に手続きを終えるべし」としていますが、これとて、全加盟国の同意があれば延期することが可能です。

 永久延期といった解決策すらあり得るはずですが、メイ首相は自分のおかしなビジョンに凝り固まっているように見えます。

 EU側からすれば、ある意味どのようにでもなる状況の中で、英国の自作自演(混乱)に付き合わされているというのが、実際のところでしょう。実にみっともないことになったものだと言わざるを得ません。

何のためのEUか?
「資源の山」の共有から

 ここで、改めて、「なぜEUか?」「どうして欧州は1つであるべきか」という理念が掲げられたのかを確認してみましょう。

 個人的には、これは日本国内での「憲法」ないし「憲法9条」を巡る議論と、完全に並行する構造が見て取れると考えています。

 周知のことと思いますが、欧州統合の最初のアイデアは、英国首相を務めたウインストン・チャーチルから提案されています。

 英国は。1940年9月に始まるナチス・ドイツの「稲妻作戦」で空襲攻撃を受けており、もう戦争はこりごりというのは掛け値なしの本音であったと思われます。

 一方で経済の統合があり、他方、安全保障の統合があって、戦争は回避することができます。

 1949年、北大西洋条約が結ばれ、NATO(北大西洋条約機構)の枠組みが出来上がります。

 ヒトラードイツに融和的に関わったために戦争を起こしてしまったため、スターリンのソ連は鉄のカーテンで封じ込めなければ、というのが大まかな流れだったと言えるでしょう。

 1950年には(西)ドイツの再軍備も解禁され、同年5月に「シューマン宣言」が出されます。

 これは、ドイツ・ロマン派の作曲家(ロベルト・シューマン)ではなく、フランスの首相・外相を務めたロベールシューマンが提唱したもので、これがダイレクトに発展して8年後の1958年1月、EEC(欧州経済共同体)が発足、今日のEUに直結します。

 「シューマン」というドイツ風の名前から察せられる通り、ロべール・シューマンのルーツはドイツ系で、独仏国境のアルザス・ロレーヌ地方、もともとの名で言えば神聖ローマ帝国の領邦ロートリンゲン公国、ドイツ系の地域でした。

 これが、宗教改革の混乱を収拾するべく「ウエストファーレン条約」(1648)で神聖ローマ帝国からフランスに割譲、併合されて「ロレーヌ」となった経緯があります。この時点では独仏間での政治的なバーターという意味合いしかありませんでした。

 この地域について(少なくともかつては)よく知られていたのが、フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」(1873)です。

 かつては教科書などにも載っていましたが、いつの間にか消えてしまったようです。この小説は非常に政治的なものでした。

 普仏戦争(1870-71)に負けたフランスは、アルザスの大半とロレーヌがプロイセンに割譲され、先生からの「今日がフランス語で行う最後の授業です」という話に主人公フランツ少年がハッとする・・・。というような筋立てです。

 現実のアルザスは、ドイツ語の方言というべきアルザス語が話され、「最後の授業」の主人公も「フランツ」少年とドイツ名、仮に生粋のフランス系なら「フランソワ」などと名づけられるべきところです。

 そんなドイツ系住民の土地がフランス領となっていたものが、再び「プロイセン」に併合され、やがてプロイセン中心の「ドイツ帝国」の一部になったのは、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクが推進していた重工業化の核となる、石炭と鉄鋼が、この地域から得られたことによります。

 中世には独仏間の自然地峡でしかなかった山が、実は近代重工業国家としてドイツが成り立つカギを握る「資源の山」であったことが、この争いを熾烈なものにしていました。

 そんなロレーヌで1837年に生まれたフランス国籍の父親は、普仏戦争後はドイツ国籍となります。

 そんな父親と、これまた悲惨な運命をたどってきたルクセンブルク生まれの母親の元に、1886年、ルクセンブルクで生まれたロベールシューマンは、血統主義でドイツ国民とされ、第1次世界大戦が終わってアルザス・ロレーヌが再びフランス領となった33歳時点でフランス市民権を得るという複雑な出自。

 ボン大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学などドイツの主要な教育機関で学び、最終的には「エルザスのシュトラスベルク大学」現在はフランス、アルザスのストラスブ―ル大学で学んで弁護士となります。第1次大戦後は国籍上「フランス人」になりました。

 ここから「敬虔なカトリック」で「ドイツ語が母国語でなまり丸だしのフランスの弁護士・政治家」として戦中、戦後を通じて独仏和解に奔走、戦後はフランスの財務大臣・首相・外相・司法相を歴任。

 ソ連による東独分割と迫り来る冷戦の脅威のなか、シューマンは米国の資金を背景に、自らの故郷で欧州でも名だたる鉄鋼・石炭の産地であるアルザス・ロレーヌを独仏共同で開発していこう、という「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」の設立〈1952年7月〉に漕ぎ着けます。

 自らの故郷である、独仏国境の鉄と石炭という「資源の山」を共有するところから、ドイツフランスを一つにする「欧州」の一体像を描いたシューマン1963年に亡くなります。

 カトリック教会は追々彼を聖人に列することがまず確実視されています。

 すでに「列福」の準備が進んでおり、私たちがみなこの世を去った後になるでしょうが、2100年代に「聖ロベールシューマン」として、教会暦に記念日などもできることが、ほぼ約束されています。

 欧州の歴史の厚みというのは。こういうところに表れる典型と思います。

英国のゴネ得を許さない

 この「欧州石炭鉄鋼共同体(ESEC)」が「欧州経済共同体(EEC)」(1958)となり、「欧州共同体(EC)」(1967)、「欧州連合(EU)」(1992)と発展してきたのは周知のことと思います。

 ECSC発足の1952年当時、英国はかつての「大英帝国」を失った直後でした。今回と同様、「主権が制限される」という800年来の<光栄ある孤立路線>の声が高く、これに参加することがありませんでした。

 しかし、第2次世界大戦ドイツの超高度成長を横目に政治的、経済的な力の低下は否みようがなく、1958年に設立されたEECに「英国も入れておくれよ」と1961年に参加を申請します。

 「そんな虫のいい話は認められるか!」と蹴っ飛ばしたのが、連合国EUの中核というべきフランスでした。

 当時のフランスは、「国民投票クーデター」とでもいうべき第5共和政へのレジームチェンジを成し遂げたシャルル・ド・ゴールが大統領に就任(1958)したばかりでした。

 彼の標榜する「独自路線」は英米と一線を画す「地中海ビジネス」というシナリオを持ち、ベルギー財界などとの協力のもと欧州統合を進めたい意向でしたから、EECへの英国参加はおよそ認められるものではありませんでした。

 背景にはアフリカ利権におけるアングロフォン(英語地域)とフランコフォン(フランス語地域)の利権対立などがあり、1967年のビアフラ戦争から冷戦終了後の1994年ルワンダ大虐殺まで、様々な対立にも繋がるものです。

 結局、ドゴールが引退し、後継首班となったジョルジュ・ポンピドゥー(1912-74)の尽力で、英国はようやく欧州の仲間に入れてもらうことができました。

 背景にはポンピドゥーがかつてロンドンロスチャイルド銀行頭取などを務めた経緯なども深く関わっていると思われます。

 そんな英国は欧州連合発足後、マーストリヒト体制に参加はしつつ、独自通貨「ポンド」を堅持し、人の往来を自由にするシェンゲン協定にも不参加という独自のスタンスを取り続けます。

 ここでも英国の言い分は「主権の侵害」とりわけ「関税自主権の堅持」という、日本近代史にも登場する国家の「威信」(見栄と言った方がよいかもしれませんが)を錦の御旗にするわけです。

 この見栄が現実の政治や経済と乖離していることが、最も嘆かわしい問題であると指摘せねばなりません。

 英国の離脱に対して、EUは極めて厳しい姿勢で臨まざるを得ません。

 「やめた方が有利だ」などという先例を作ってしまったら、2匹目のドジョウを狙う「離脱ドミノ」を防ぐことは難しく、欧州だけでなくグローバル経済は大混乱に陥り、多くの財が失われることは確実です。

 その意味で、英国の「ごね得」を決して許さない、厳しい姿勢がEUに求められるのは必然です。

「EUの平和」を具現していたベルファスト合意

 ロベールシューマン以来の「一つの欧州」という理想は、二度と欧州地域内で戦争を起こさない、という強い決意のもとに打ち立てられています。

 それを最も切実に具現化しているのがアイルランド分割、つまり南北アイルランドの政治的、経済的な一致/分断と、21世紀に入って沈静化している「アイルランド問題を再燃させるべきか?」という問いにほかなりません。

 北アイルランド問題の詳細は、紙幅に余りますから別論とするとして、おかしなブレグジットを認めてしまうと、ここ20年来、北アイルランドの和平を保証してきたベルファスト合意(1998)の大前提が崩れてしまうことになります。

 現在自由に通行している場所に「壁」を設け、税関を置き・・・といった「完全自主権の再主張」が、どれほどのコストとタイムラグ、政治的緊張や場合により暴力紛争を引き起こしかねないものか、すでにこの連載でも触れたことがありますし、いまさら強調して言うまでもないでしょう。

 そもそも、そんな「アイルランドの長城」を築く物理的な余裕も予算も時間もありませんし、税関のシステムも人員も全く確保の見込みがありません。

 もし仮に税関に長蛇の列ができるような事態になれば、そのタイムラグだけで会社更生法適用といった「破綻ドミノ」をわざわざ創り出しているようなものです。

 そもそもの「国民投票」賛成多数という、21世紀世界史に特筆されるであろう衆愚的な入れ札が、すべての病の元凶になっている。

 だからと言って、強い権力を集中的に掌握する政権が、独断的な政策で事態を乗り切ることは不可能なのです。

 そのような、非民主的出遅れた政治体制によるグローバルな調和と共存を脅かす存在を許さない、というのが、EUの基本的な方針であるからにほかなりません。

 米国が今見るような無残な状況を露呈している2019年、英国のEU離脱問題は、人類史の立憲民主制そのものが問われる側面があるといっても過言ではないでしょう。

 仮に米国や英国の衆愚的な右往左往がどうなっても、揺るぎのない自由貿易圏の補強といった、ブレない施策が必須不可欠であることだけは間違いありません。

 壊れて初めて後悔するのが、平和やごく当たり前の市場取引にほかなりません。

 英国はすでに一度、国をおもちゃにして壊してしまったわけで、これ以上おかしなハッタリで、せっかく張りかけたかさぶたをむしり取らせるべきではない・・・そういう大人の分別が必要不可欠というのが、欧州サイドの落ち着いた有識層大半の認識でしょう。

 英国がどう混乱しようとも、それを外側からカバーする配慮と分別が必要不可欠という一点は、欧州の大半のセクターが、異論なく合意するところだと思われます。

(つづく)

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