すでに多くが報道されているとおり、横綱白鵬が「平成最後の大阪場所」で行った「三本締め」が問題にされています。
新元号「令和」最初のコラムとして、この問題を考えながら、フレッシュマンへのエールを送ることにしたいと思います。
「万歳三唱」から「三本締め」へ
横綱白鵬には、すでに2017年11月の九州場所で40回目の優勝を果たした際、インタビューの締めくくりで「万歳三唱」を行い「厳重注意」を受けた経緯がありました。
さらに、この「万歳三唱」に先立っては、白鵬自身が関わる場での、横綱日馬富士による貴ノ岩への暴行事件が発覚、それ以来、様々な問題がドミノ倒し式に繋がっていますが、ここでは多く踏み込まないことにします。
唯一、記しておいてよいと思うのは、貴ノ岩の四股名をもつ元力士の青年はアディヤ・バーサンドルジ(1990-)、暴行を働いたとされる日馬富士はダワーニャミーン・ビャンバドルジ(1984-)そして白鵬もムンフバト・ダヴァジャルガル(1985-)と、みな30代前半以下のモンゴル人、日本語を母語とせず「相撲道」のあれこれをどれほど理解しているか分からない、外国人アスリート間での出来事だったことでしょう。
「国技」といい「相撲道」といい、あるいは「相撲の神様」などと、大義名分では言いますが、その実の角界は、一面では熾烈なスポーツとして、また他方では様々な組織のあれやこれやを引きずった業界として、およそ一筋縄でいくような代物ではありません。当然のことです。
「暴力事件」周りの不祥事を、土俵上の勝負で乗り切って優勝インタビューに臨んだ際に白鵬ことムンフバト・ダヴァジャルガル青年の脳裏に何が去来したかは分かりません。
しかし、いまだ息が上がった状態で、アナウンサーの日本語の質問にやや的外れな答えなどしながらも、彼は何かを考え、「万歳三唱」を行い、結果的に矢のバッシングも受けました。
その経験があったうえで、今回も右腕の負傷などを抱えながら42回目の優勝を全勝で飾り、歴代2位の大鵬の記録(32回)を10回上回る成果を出しました。
その直後のインタビューで「またしても」白鵬は、今度は万歳三唱ではなく「三本締め」を行った。一定の覚悟があってのことでしょう。
そして、それを現在進行形で批判される中で、「平成」の30年が終わり、日本だけの新時代「令和」が始まろうとしています。
白鵬の「万歳三唱」へのバッシングの大半は「スタンドプレー」「いつからそんなに偉くなったんだ」「そもそも、万歳三唱というものは宗教的な意味があるわけであって・・・」式の意見でした。
バッシングでなくても、「あんなに頑張った後でこんなことでミソつけて可哀想・・・」程度の意見がおおかった。
少なくとも私が見る限り「遠い異国から日本の最も保守的な世界に入門して、あえて実力で全部ひっくり返してやろうとうしている。その魂胆も含めてあっぱれだ」などという意見は目にしません。
私は、この青年にそういうエールを送ってやりたいと思います。誤解のないように、この連載を長くお読みの方は、私が<有職故実>の類にかなり細かく、うるさい方だとご存知と思います。
どのような因襲があり、それをどう正面からひっくり返すか、全部分かったうえで、実力でねじ伏せていけるのなら、どんどんやったらいい、そういうエールです。
やれ国技だ、伝統だ、しきたりだ、などと言いますが、「女性は経血で穢れている、よって神聖な土俵には・・・」式の議論が、いま国際社会でまかり通るのでしょうか?
固有の伝統万々歳なら、「ISIL(イスラム国)でもアル・カイ―ダも全然オーケー」などとなりかねません。
以下ではスポーツマンシップを巡る、客観的な見方として、一点に絞って整理してみましょう。
「神事としての相撲」を考える
神話史書に残る最も古い、人間同志が対戦する相撲の記録は「垂仁天皇7年」(元号などまだないとされる神話時代)です。
歴代天皇ご存知ですか?
「神武綏靖安寧威徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇仁垂仁・・・」
11代目ということになっていますが、百何歳か生きて事績の記録が少ないので、実在したかどうかはよく分からないですね。
その推認・・・もとい垂仁天皇7年に「野見宿禰」と「当麻蹴速」が相撲を取ったといいます。
「蹴速」というくらいで足技、蹴技が中心だったらしく、この「相撲」では「野見宿禰」が「蹴速」の脇の骨を蹴って折り、倒れた「蹴速」の腰骨を踏み割って殺してしまったという。
もし、こんな<伝統の形>で相撲などやっていたら、現在のような興隆は望むべくもありません。
天皇の面前で死闘を繰り広げ、相手の命を奪うまでやめず、勝った方が賞賛される・・・。
「こんな相撲はダメだ!」という伝統への反逆があったかどうかは、何分神話のことですから分かりませんが、全く違うものを時代時代で作ってきたから、その柔軟性のおかげで延命しているのは間違いありません。
相撲が神事と言われるもう一つのゆえんとして、占いとしての側面が挙げられます。
つまり、神前でしめ縄を張って、神聖な土俵の上で取り組みを行うことで、五穀豊穣や豊漁を祈りながら、その勝敗によって天候不順や豊作凶作、豊漁不漁などを占ったというわけですね。
この考え方に従うなら、相撲の勝敗は相撲取りの「実力」ではなく、相撲道に精進する力士の取り組みを通じて「神意」が示されているわけですから、
「アイム・ザ・チャンピオーン!」と見えるようなスタンドプレーなど、もってのほかということになります。
この種のメンタリティは21世紀の今日もまだ脈々と息づいています。
昭和の大横綱などと言われた人たちが、みな一様に寡黙でそっけなく、精進の結果、勝たせていただいている、式の謙虚なコメントを好む日本人は、現在のティーンエージャーにも見られるのではないでしょうか?
同じことを欧米由来のスポーツ、例えば野球やサッカー、陸上やアイススケート、あるいは将棋などの世界に持ち込めるでしょうか?
「将棋の神様に勝たせていただいた・・・」なんて棋士もいなければ、スケートの神様のお陰でF難度に成功、なんて思うアスリートもいないでしょう。
ただ、万事、こういうことは、自分との闘いですから、「アイム・ザ・チャンピオーン!」みたいなスタンドプレーは、あまり感心されないかもしれません。
逆にプロレスや総合格闘技みたいなショーで、その手のアピールがなくなったら、およそ素っ気ないことになるでしょう。
「SUMO」が現代日本現状のようにローカルなスポーツとして続くのか、どのような国際化があるのかないのか、栄えるのか廃れるのかは分かりません。
ただ、世界から優秀な若者が集まって来るような状況では、過去の価値観は必ず相対化されることを免れないでしょう。
正当なる後継者とは:覇者が王者に変わるとき
古いルールが通用しない、新しい世代の実力者が登場したら、その人なりの若い価値観でどんどん推し進めればいいと思います。
もしそれが通用しないなら、様々な厚い壁が立ちはだかり、その人自身のキャリアも終わってしまう可能性があるでしょう。
また、我流を貫いて、ついにそれが受け入れられるようになったなら、ルールブック自体が書き換えられる、革命が起きるわけです。
白鵬は日本に残って親方になりたい意向だそうです。
30年後に外国人初の理事長になって、優勝力士はファイトポーズをアピールして万歳三唱、三本締め、何でもオーケーと提案したとして、それがまかり通る世間であり角界になっていたら、本当の「相撲の革命」になるはずです。
別段「相撲の革命」は珍しいことではなく、過去にもいろいろな事例がありました。
100年前の相撲関係者から見れば、女性が表彰式で土俵に上がるなんて「世も末」と思ったに違いありません。
実際、社会は動き、法もまた動いていく(團藤重光)のです。それが「革命」と、陽明学を引き合いに、團藤先生は生前、幾度も力説しておられました。
私たち、西欧音楽の世界には、最も的確に前時代を全面否定した人が、正統なる歴史の 後継者として認められるという「破壊」に基づく「革命の伝統」があります。
J.S.バッハ、L.vanベートーヴェン、R.ヴァーグナー・・・一切例外はありません。
そんな観点から、ひとり白鵬のみならず、また外国人とか何とかいうこと無関係に、新しい意欲に燃える人(若い人とすら限定もしません)に、エールを送りたいと思います。
これから始まるであろう「令和」の時代、次世代標準を創り出す気概があるなら、どんどん古いものは壊していけばよいでしょう。
通用せず、負けることが、まあ98%だと思います。でも、1%でも2%でも、もし強行突破できるものがあれば、未来はそこから開かれていくものです。
百折不撓で、終わりのない挑戦を!
令和新年度のエールをお送りしたいと思います。
[もっと知りたい!続けてお読みください →] 現在進行形で見る大英帝国800年の黄昏
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