新元号「令和」ゆかりの地として、九州の古都で朝廷の出先機関だった「大宰府」が注目されています。歌人としても有名な大伴旅人(たびと)が、大宰府の長官を務めていたときに開いた「梅花(ばいか)の宴」で歌われた「梅花の歌」32首の序文が「令和」の典拠とされているからです。「大宰府」は現在の福岡県太宰府市にありましたが、今回の報道でも、点のない「大宰府」と点のある「太宰府」を混同する報道機関が見受けられます。「大宰府」と「太宰府」、2つの表記が存在する理由について、太宰府市文化財課の担当者に聞きました。

使い分けのきっかけは九大教授?

Q.「大宰府」と「太宰府」は、どういう違いがあるのでしょうか。

担当者「太宰府市では現在、古代の役所や遺跡(政庁跡など)は『大宰府』と点なしで表記し、現在の市の名前や天満宮などは、点ありの『太宰府』と表記しています。

諸説あるのですが、現在残っている古代の印影(押印された印の文字)が『大宰之印』で点がなく、正史(日本書紀などの六国史)でも点を使っていないので、古代の正式表記は点のない『大宰府』だったと考えられています。

『大』は大小の大。7世紀、筑前や肥前といった地方は『国宰』が管轄し、いくつかの国をまとめたのが『大宰』だったとされます。一方、『太』は『甚だしく大きい(それ自体が大きい)』という意味で、例えば太陽や太平洋は比較ではなく、それ自体が大きいということですね。そうした考えから、古代は点をつけた『太宰府』ではなく、『大宰府』だったとも言われています。

中世からは、点のついた『太宰府』と表記する文書が多くなり、近世以降はほとんど『太宰府』です。ただ、古代の文書にも『太宰府』と表記しているものがあり、いつが『境界線』かは分かりません」

Q.古代と現代での使い分けは、九州大学の先生が始まりと聞きました。

担当者「長年、大宰府の研究をされていた方で、九州大学考古学研究室の初代教授だった故・鏡山猛(かがみやま・たけし)先生が昭和30年代終わりごろ、地名や天満宮は『太宰府』、それ以外は『大宰府』と表記されたことをきっかけに、一般に古代律令時代の役所、およびその遺跡に関しては『大宰府』、中世以降の地名や天満宮は『太宰府』と表記するようになったと言われています。ただし、これにも諸説あります」

Q.点がなくなった理由は。

担当者「今のところ分かっていません」

 太宰府市の楠田(くすだ)大蔵市長は4月1日、臨時記者会見を開き、新元号が太宰府市ゆかりであることについて、「太宰府市にとって大変光栄なこととなりました。地元市民とともに喜んでおります」「新しい御代(みよ)が初春のように清新で、『和(やわらぐ)』時代となることを願います」などと喜びを表しています。

オトナンサー編集部

「大宰府」と「太宰府」の違いは?