1989年1月8日に日本で始まった「平成」。日本では31年にわたって使用されてきたが、2019年4月30日をもってその時代が終わりを告げる。

日本サッカーにおいても激動の時代であった「平成」だが、目をヨーロッパに向け、同じ時代で印象に残ったレジェンドチームを超ワールドサッカー編集部が選出。記憶や記録に残る50チームを紹介していく。

vol.3

1991-92シーズン/バルセロナ
〜エル・ドリームチーム〜


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奇跡の2連覇&初めての欧州制覇

1990-91シーズンに6年ぶりとなるスペイン王者となったバルセロナは、1960年以来となる連覇を目指してシーズンをスタートさせた。しかし、開幕から5試合で3敗を喫するなど、スタートダッシュに失敗。逆に、アンティッチ率いるライバルのレアル・マドリーは開幕から好調を維持。そのため、バルセロナの連覇を期待する声は少なくなっていた。しかし、このシーズンのバルセロナには地力があった。シーズンが進むにつれて調子を上げたバルセロナは、残り3節の時点で首位のマドリーから勝ち点2差まで浮上。そして、バジャドリーに6-0で勝利した後、エスパニョールとのダービーを4-0で制したバルセロナは、最終節を前にマドリーに勝ち点1差まで詰め寄る(当時は勝利=勝ち点2)。そして迎えた最終節、バルセロナはビルバオに勝利し、マドリーがテネリフェ相手に引き分け以下で終われば逆転という状況。マドリーがテネリフェに2-0とリードした時点でバルサの逆転優勝は潰えたかと思われた。しかし、そこからテネリフェが“奇跡”を演出。マドリーを逆転し、3-2で勝利を収めたのだ。一方のバルサは、ストイチコフの2ゴールでビルバオを撃破。ドラマのような大逆転劇でリーガエスパニョーラ2連覇を達成した。

流動的なシステム

基本システムは4-3-3。しかし、中盤から前線でのポジションチェンジが激しいため、型にはめることはできない。ラウドルップが前線に入り、エウセビオがインサイドハーフを務める形や、アンカーアモールを配してベギリスタインが左サイドアタッカーに入る形など、メンバーによって組み合わせは様々に変化した。当時の規定により、外国人枠は3名。不動のレギュラーだったクーマンとストイチコフ、ラウドルップがその3枠を埋めた。

攻撃の起点となるのは、チームの頭脳だったピボーテのグアルディオラ。このシーズンから本格的にトップチームの一員となったカンテラ育ちのグアルディオラは当時20歳だったが、確かな足元の技術を駆使した展開力と明確なゲームビジョンを有しており、守備的MFの位置からチームをコントロール。タレント集団を見事にオーガナイズしていた。

1人で得点を量産できるセンターフォワードが不在だったチームだが、アタッカー陣に得点力ある選手が揃っていたため、問題にはならなかった。シャドウストライカーのバケーロ、華麗なテクニックを有するラウドルップ、爆発的な左足を持つストイチコフは、3人でリーグ戦46ゴールを記録するなど、決定力をいかんなく発揮した。

ピックアップ・プレイヤー

DFロナルド・クーマン(28)
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当時のバルセロナの最終ラインを統率した不動のレギュラーがクーマンだ。リーグ戦では35試合に出場し、16ゴールを記録。PKは11本蹴って、1度も失敗することがなかった。圧巻だったのは、サンプドリアとのCL決勝。バルセロナは、93年の歴史で一度も欧州王者に輝いたことがなかった。試合は、バルセロナが再三のチャンスを逸するなど押し気味に進めたが、サンプドリアも鋭いカウンターで得点を狙う。そして、ゴールレスのまま延長戦へ。延長戦でも得点が生まれずに後半に入ると、勝負はPK戦に持ち込まれるかと思われた。しかし延長後半6分、ゴール正面の約27m地点でフリーキックを獲得すると、大黒柱のオランダ人DFが魅せる。クーマンが右足から放った鋭い弾道のシュートが、サンプドリアのゴールネットに突き刺さり、ついにバルセロナが試合の均衡を破った。結局、このクーマンのゴールを決勝点としたバルセロナが初のCL戴冠。クーマンはバルセロナを初めて欧州王者に導いた立役者として歴史に名を残すことになった。
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