一昨日、4月3日毎日新聞の夕刊に、「私だけの東京 2020に語り継ぐ」という連載企画に、JFA(日本サッカー協会)元会長、Jリーグ初代チェアマンで、現在は日本トップリーグ連携機構会長や東京五輪の組織委員会の評議員を務める川淵三郎氏が登場した。

64年の東京五輪では選手としてアルゼンチン戦でゴールを決め、勝利の立役者となった。残念ながら準々決勝のチェコスロバキア戦で敗れたが、そこでコーチのデットマール・クラマー氏の残した言葉が印象的だったと振り返っている。

クラマー氏の「アルゼンチン戦に勝った時は、喜びを分かち合おうとたくさんの『友達』ができただろう。でも今日、君たちのところに来る友達は少ないだろうが、彼らこそが本当の友達だよ」という言葉は、「人生に大きな影響を与え、後になって重みが増すことになります」と紹介した。

その重みとは、06年ドイツW杯で敗退すると、JFAの会長だったために自身が批判の的となり、「ああ、こういう時にそばにいてくれる人が、本当の友達だと痛感しましたね」というものだった。

正直、幾つになっても「我田引水」は変わらないと思った。サッカー専門誌時代から川淵氏には批判的な原稿を書いてきた。それは02年にJFAの会長になることでJリーグチェアマンを譲る際に、後継者として鹿島の社長だった鈴木昌氏を指名した。それ自体は悪いことではない。

しかし、その陰では02年にこれまで川淵氏を支えてきた森健兒氏に辞任を迫る。森氏はJリーグの前身となるスペシャル・リーグ構想を打ち出し、JSL(日本サッカーリーグ)の読売クラブ、日産、全日空にはプロ選手が存在することを実行委員会に認めさせ、Jリーグ創設に向けて礎を築いた。

残念ながら社業でも重要なポストを担っていたことで、森氏はJSL総務主事の重職とJリーグ創設を川淵氏に託してその身を引いた。そして93年、Jリーグの開幕を前に33年間勤務した三菱重工を辞め、Jリーグの専務理事に専念することになる。ところが川淵チェアマンは、当時勤務していた古河産業を辞めていなかった。

Jリーグの成功に半信半疑だったのではないでしょうか」というのが森氏の推測だ。そして辞任を迫られた際は「いくら欲しいんだ」と川淵チェアマンに言われたため、「一銭も入りません」と答えて袂を分かっている。

さらに翌03年には森氏と並んでJリーグの創設者とも言える木之本興三氏を解任した。「木之本、辞めてくれ」との言葉に、木之本氏は理由を尋ねたが、その後は一切無言だったという。

Jリーグを創設した“仲間”であるはずの2人を切ったのは、自分自身がJリーグの創設者となりたいのではないか。そこで邪魔者を除外する。さらに06年にはJFA副会長の野村尊敬氏を2階級降格の平理事にし、それまで暗黙の了解事項だった会長職2期4年を覆し、6年間務めた。野村氏は次期会長の有力候補だったため、ここでも邪魔者を除外したと思われて当然だろう。

そうした“独裁者”のような人事を批判したものの、川淵氏はドイツW杯後に「独裁者と呼ばれてもかまわない」というタイトルの本を出した。

話を06年のドイツW杯に戻そう。当時も川淵氏を批判した。というのもジーコジャパンで惨敗した記者会見で、川淵氏は「オシムと言っちゃった」と日本代表の監督人事を漏らした。そのことで会見はジーコジャパンからオシム・ジャパンに移った。意図しての人事漏洩だったのか詳細は分からない。

しかし問題は、そもそも代表監督は技術委員会の精査・具申を受け、当時はJFAの幹部会で議論し、理事会の承認を経て決定されるものだった。その手続きを経ずに次期監督の名前を出すことは、ルールから逸脱しているし、ここでも“独裁者”として君臨している証明ではないかと批判した。

92年のことだ。当時はJFAの強化部長だった川淵氏は、初の外国人監督となるハンス・オフトを招聘し、アメリカW杯まであと1歩に迫るまで強化に成功した。それは画期的なことだと評価している。

しかし95年に加藤久・技術委員長らがまとめた「加茂監督ではフランスW杯の出場は難しい」。そこでネルシーニョ(元東京Vで現在は柏監督)を推すというレポートに対し、年俸の改ざんをある強化委員に指示し、長沼健JFA会長に「これでは高すぎて協会として払えない」と“加茂続投”のシナリオを描いた。

加茂氏は志半ばでバトン岡田武史監督に託し、見事W杯出場を果たした。しかし、その後も代表監督人事は「ジーコに聞いてみたら」と言ったり、「オシムと言っちゃった」と言ったりしたように、技術委員会の頭越しに代表の監督人事に介入した。

そのこと自体が問題であるのに、分かっていないので問題を提起したつもりだったのが、それは届いていなかった。三流雑誌の三流記者の提言だけに、仕方のないことかもしれない。

そして今回の新聞記事である。人は誰でも人生を美化したくなるだろう。サッカーに対する情熱は“熱血漢”と言ってもいいほど高い。それでも思うのは限りなく高い上昇志向だ。Jリーグだけでなく、Bリーグでも辣腕を発揮して東京五輪へ参加の道を開くなど功績は数多い。それだけに、引き際は潔いものにして欲しいと願わずにはいられない。


【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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