プロイセンの国王フリードリヒ大王(2世 在位:1740〜86)は、フランス的芸術を愛し、哲学者・ヴォルテールと親交を結び、即位後はすぐに拷問を廃止するなど、啓蒙専制君主として知られています。その一方で、強大な軍隊を保持し、オーストリアなどと戦って領土を拡大、弱小国だったプロイセンをヨーロッパの列強にまで高めました。

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 やがて1871年になると、彼の子孫がプロイセンを中核にしてドイツ統一を達成することになりますが、そのドイツも結局はヨーロッパの覇権を握るには至りませんでした。今回はその理由について、フリードリヒ大王の経済政策にまでさかのぼって確かめてみましょう。

フリードリヒ大王とマリア・テレジア

 フリードリヒ2世が即位したのと同じ1740年、神聖ローマ皇帝・カール6世がこの世を去りました。ハプスブルク家の当主であるカール6世には男児がいませんでした。そのため彼の死により、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を失いますが、その領地(オーストリア)は長女のマリア・テレジアが相続、オーストリア王位に就きました(在位:1740〜80年)。

 このカール6世からマリア・テレジアへとオーストリアが継承されるスキに、周辺諸国が付け入ろうとして起こったのがオーストリア継承戦争でした(1740〜48年)。口火を切ったのが、誰あろう、プロイセンフリードリヒ2世です。彼女の王位継承を認める代償として亜麻織物の生産地域としても知られるシュレジエンの割譲を要求したのです。

 オーストリア継承戦争は、1748年、アーヘンの和約によって終結します。プロイセンは狙い通りシュレジエン割譲を認めさせることに成功します。ただ同時に、マリア・テレジアによるハプスブルク家の家督相続を認めさせられ、さらに彼女の夫フランツ・シュテファン(後のフランツ1世)を神聖ローマ皇帝へ推挙することを約束させられます。

 オーストリア継承戦争で、オーストリアからシュレジエンを譲り受けたフリードリヒ2世は、国勢を大いに伸展させます。当時のシュレジエンの人口は約150万人だったと言われています。この地を併合することで、プロイセンの人口は一気に400万人へと増えたのです。これによりプロイセンはヨーロッパの列強の仲間入りを果たし、フリードリヒ2世は人々から「大王」と呼ばれるようになったのでした。ただ、一方のマリア・テレジアは、シュレジエンの割譲をさせられたことを、強く恨むのです。

プロイセン、「列強」の仲間入り

 シュレジンの奪還を目指すマリア・テレジアは、なんと長年の宿敵であったフランスブルボン家と提携するという決断をしました。ブルボン家とハプスブルク家との同盟は、「外交革命」と呼ばれるほどヨーロッパ史において画期的なことなのです。さらにオーストリアは、ロシアとも結んでプロイセンの国際的孤立を図るのです。

 これに対してフリードリヒ大王オーストリアを攻撃します。こうしてヨーロッパの国々を巻き込むこととなる「七年戦争」(1756〜63年)の火ぶたが切られました。

 この七年戦争では、ヨーロッパの大半の国がオーストリアを支持し、プロイセンの味方になったのはイギリスだけ。プロイセンは劣勢を強いられていましたが、1760年にロシアで、フリードリヒ大王を崇拝していたピョートル3世が皇帝になると情勢は一変します。1763年のフベルトゥスブルク条約で、プロイセンは再びシュレジエンの領有をオーストリアに認めさせるに成功しました。

 こうしてプロイセンは、何度もオーストリアと戦いながら、最終的にシュレジエンを手中に収めます。同時に、ヨーロッパの弱小国だったプロイセンは、一躍イギリスフランスと肩を並べる「大国」になります。

 プロイセンが大国化できたのは、その軍事力のお陰でした。プロイセンは、国の規模に比べて軍事力が異常に膨れ上がった軍事国家だったのです。プロイセンの常備軍は18世紀を通じて増え続けます。1688年には3万人であったのが、1740年には8万1000人に、1786年には19万6000人になったのです。当然ですが軍事支出も大きくなりますので、プロイセンはより多くの国庫収入を図る必要がありました。こうしてプロイセンの財政規模は、【表1】に見られるように、みるみる膨らんでいったのです。

軍事革命

 軍隊の規模がこのように巨大化したのは、ヨーロッパで始まった「軍事革命」の影響でもあります。

 それまでの最大の武器は、騎馬兵による弓でした。それが近世になると、大砲・火器が導入されるようになり、戦術が劇的に変わったのです。それに伴い軍隊の規模も極めて大きくなり、徴兵制が導入されるようになります。この影響で社会そのものも大きく変化したのです。これが「軍事革命」です。

『ザ・ミリタリーレボリューション』(邦訳『長篠合戦の世界史――ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500~1800年』、同文舘出版)を著した歴史学ジェフリ・パーカーによれば、軍事革命の革新は16世紀にありました。それは、①軍艦の舷側砲の発展、②戦闘によるマスケット銃火縄銃)と、野砲による援護、③ヨーロッパ史上例のない、急激で持続的な兵力の膨張、④「対攻城砲要塞」の発展を特徴としていました。

 これらの革新が先んじて現れた地域だったからこそ、ヨーロッパは他地域を圧倒する軍事力をもつようになったのです。「軍事革命」がなければ、その後、ヨーロッパの国々が世界を支配することはなかったのです。

 ただ、そう考えてくると、ある疑問にぶち当たります。ヨーロッパの中でもプロイセンは強力で大規模な軍隊を擁していました。であるならば、「軍事革命」の利益を最大限に享受し、全ヨーロッパ、あるいは全世界の覇権を握っても不思議ではなかったのではないか、ということです。

 ところが現実には、「軍事革命」の最終的勝者はイギリスでした。軍事革命によって強大化した武力を背景に、ヨーロッパは対外拡張へと乗り出しますが、その中でも世界最大の植民地所有国となったイギリスこそ、軍事革命の究極的な勝者だと言ってよいでしょう。

 では、なぜプロイセンイギリスに及ばなかったのでしょうか。

財政が国家の明暗を分ける

 経済学者シュンペーターはこう述べています。「財政需要がなければ、近代国家創成への直接要因は存在しなかった」と。財政需要こそが、近代国家誕生の鍵でした。国家は大規模な支出に備えるため、徴税制度や財政システム、官僚制度などさまざまなシステムを整備するようになるのです。そして、その契機となる大規模な支出とは「戦争」によって創出されたものだったのです。

 戦争を始めると財政出費が増えます。しかも「軍事革命」によって、戦費はどんどん巨額になっていきます。そのためヨーロッパの各国では財政制度が整備されていくことになりました。毎年の会計があるのは当たり前になり、もともと未分離だった国王の財政と国家財政も分離されるようになりましました。

 国家が生き残るのに重要なことは、健全な財政制度を確立することでした。その出来、不出来がその後の国家の命運を分けたと言っても過言ではありません。これをもっとも上手くやってのけたのがイギリスだったのです。

 前回の連載で、イギリスが巨額の借金をしながらも経済成長を遂げられたのは、所得弾力性が高い商品(経済の成長率以上に購入される)に消費税をかけたことで、経済成長よりも税収の伸びが大きかったからだということを指摘しました。これはイギリスが導き出した、経済成長を妨げずに税収を増やすベストな方法でした。では、プロイセンはどういう方法で国庫歳入を増やそうとしたのでしょうか。

プロイセンの殖産興業

 当時のプロイセンは経済成長をしていましたが、オランダイギリスほどの成長ではなかったと言われています。

 プロイセンは人口も多く製造業が発展していましたが、規制も多く、経済成長を促進する制度も十分ではなかったようです。

 しかし、巨額の軍事支出を賄うため、プロイセンはより多くの国庫歳入をはかる必要がありました。そこでフリードリヒ大王は、殖産興業に乗り出したのです。具体的には、製糖業に力を入れ始めるのでした。

【表2】は、バルト海地方における主要貿易港の植民地物産(砂糖・コーヒー・紅茶・染料など)の輸入量を表しています。ここで注目してほしいのは、シュテッティンの植民地物産(その多くは砂糖)の輸入量が他地域よりも数段速いペースで増加していることです。シュテッティンはオーダー川(現在のポーランドドイツ国境を流れる川)流域の都市で、フリードリヒ大王はこの都市の近郊に製糖所を建てました。当時、砂糖の貿易は非常に儲かったのです。それがシュテッティンの輸入量の激増の原因でした。

 製糖業を発展させ、国富増大を図ったフリードリヒ大王でしたが、事はそう簡単には生きませんでした。18世紀のヨーロッパの製糖業の中心はハンブルクでした。シュテッティンの砂糖は、最終的にハンブルクの砂糖との価格競争に勝てなかったのです。

フリードリヒ大王がすべきだったこと

 これに対してイギリスは、上述のように、所得弾力性が高い商品に消費税をかけることで税収を増やしつつ、戦争になると国債を発行して戦費を調達し、それを平時に返済し、しかも返済を議会が保証するというシステムを構築しました。プロイセンにはこのシステムがありませんでした。

 イギリスの海軍にはプレス・ギャング(強制徴募)というステムがありました。戦争になると、本人の意思とは無関係に水夫たちを兵士として徴発し、戦争が終わると帰国させるという強引な制度です。こうして兵士に仕立て上げられた人々は、兵力としては物足りないかも知れませんが、平時には彼らにかかる費用はなくなるので、財政的にはかなり楽なシステムです。

 プロイセンのように大規模に常備軍を保持すれば、軍事力としては強大なものになりますが、その代わりコストも莫大になります。平時においてもかなりのお金が必要になるのに、戦争となればさらに巨額の費用が必要になります。

 他国に比べて強大な常備軍を持つプロイセンは、それだけ多くの歳入を確保する必要がありました。そのための方法は、国策事業を強化して稼ぎまくるか、巧みな税制を整備し国民から税金を集めるしかありませんが、その点で、プロイセンイギリスに適わなかったのです。

 フリードリヒ大王は、プロイセンをヨーロッパの列強に押し上げた功労者ではありましたが、もう少し軍事費がかからない工夫をし、そしてイギリスが整備したような国債を利用した近代的な財政システムを利用していれば、その後のヨーロッパの勢力図は全く違うものになっていたかもしれません。

 武力での対決が国家の命運を分けた時代にあっても、最終的には、その軍事力を支える経済力と財政制度の優劣が決定的要因になっていました。このことは、もちろん現代にも当てはまることなのです。

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