「東京で2月を迎えたのは高校2年生以来、35年ぶりくらいですね。高校3年からずっと2月はキャンプに行っていたので。2001年に引退して、以降はコーチとして昨年までキャンプに行っていました。2004年・2005年だけ現場を離れていましたけど、その時も2月1日はどこかのキャンプの取材に行っていましたからね。ユニフォームを脱いでホッとした気持ちもありますけど、いざ脱ぐと暇ですね(笑)」

 そう、笑顔で話してくれたのは「平成の大エース」・斉藤雅樹さん。球界の盟主・ジャイアンツのエースとして、在籍19年で6度のリーグ制覇、3度の日本一に大きく貢献した。

 個人の成績で見れば、さらに圧巻だ。

 タイトルでは、最多勝利を5回(日本記録)、最優秀防御率を3回、最多奪三振を1回、最高勝率を3回獲得。そして、MVPを1回、沢村賞を3回(日本記録)、最優秀投手を5回、ゴールデングラブを4回など、数え切れないほどの表彰も受けた。その上、11試合連続完投勝利や3年連続開幕戦完封などの日本記録も樹立した、記録にも記憶にも残る平成を代表する投手だ。

 そんな偉大なピッチャーでありながら、誰に対してもとても物腰柔らかく、笑顔で対応してくれる斎藤さん。温厚すぎる、謙虚すぎるとも取れるその性格ゆえに、入団当初は「気が弱い」「ノミの心臓」と揶揄されることもあった。「優しすぎる投手」から「平成の大エース」へ、その進化の過程を聞いた。

 第一回は野球との出会いからドラフトの裏話、代名詞であるサイドスローへの転向秘話について。

「大学に行ったつもりで4年間やる。ダメなら次の仕事を探すという気持ち」


−−野球を始めたきっかけを教えてください。
斉藤:リトルリーグに入ったのは小学校5年からですね。今のリトルは小学校1年生から始める子も多いので、野球を始めるのには少し遅かったですね。ただ、僕らの頃はせめて4年生くらいからだったと思います。そこから本格的に野球を始めましたね。

−−進学された市立川口高校では、甲子園出場経験はないですよね?
斉藤:あと一歩のところで出場できませんでした。3年生の埼玉県大会決勝で熊谷高校に負けてしまいました。僕たちの頃は春の選抜も出ているくらい上尾高校がとても強かったのですが、上尾高校が3回戦くらいで負けてしまって。それで、「お、行けるかな」と思っていたんですけど、最後で負けちゃいましたね。

−−高校の時からエースでしたか?
斉藤:1年生の時はセカンドなども守ったりしていました。その時は2年、3年にエースがいたので。1年生の時からピッチングもしていましたけど、高校で最初に公式戦に出たのがセカンドです。本格的に投げ始めたのは僕たちの代になってからですね。最後は4番でエースでした。

−−甲子園は出場されていませんが、それでも巨人のドラフト1位。
斉藤:荒木大輔のハズレ1位ですけどね(苦笑)。たまたま、3年生の6月くらいだったと思うのですが、荒木大輔擁する早稲田実業との練習試合があって。その試合にスカウトの方が何人か見に来ていたようです。1-0で試合には負けましたけど、三振もそれなりに取れたので、アピールできたのかなと思っています。

 いくつかの球団からも熱心に誘われていたのですが、いざドラフトではジャイアンツの方が先に僕を指名してくれました。ジャイアンツから1位指名というのはビックリでしたね。

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−−ドラフト1位指名、しかもジャイアンツとなると大騒ぎですよね。
斉藤:あの頃、ドラフト会議は午前中からやっていました。僕はドラフト1位だったので、お昼過ぎには黒塗りの車がたくさん入ってきて、胴上げなんかをしたり、写真を撮ったりして、大騒ぎでしたね。

−−期待されてジャイアンツドラフト1位で入団することにプレッシャーはありましたか?
斉藤:大学に行ったつもりで4年間やって、ダメだったら次の仕事を探すというような気持ちでやろうと思っていました。実際に入ってみても、自分は高卒で周りは大学や社会人から入ってきた人たちなので、どうしても体力的に劣っているわけです。「うわー、とんでもないところに入ってしまったな」と、最初は思いました。そう思っているうちに、その年の5月には投球フォームをオーバースローからサイドスローに変えることになりました。

−−それは当時の藤田元司監督に言われたのですか?
斉藤:そうですね。初めてのキャンプ明け3月、イースタンリーグで2試合投げたのですが、ボコボコに打たれてしまいました。そこで、「斎藤を野手にしよう」という声が上がって、一時期はピッチング練習をしながらもバッティング練習もするといったことをしていました。今で言う「二刀流」ですね。でも、僕はそれがすごく嫌でした。

 「なんで俺だけがこんなことをしないといけないのか」と思って、不貞腐れていました。そうしたら、バッティングコーチに「やりたくないのか」って怒られて。「はい」と答えました(笑)。

 たぶん、首脳陣も扱いに困ったと思うんですよ。一応、ドラ1ですし。それで、上層部にそういう相談がいったのかわからないですけど、藤田一軍監督が二軍の練習の視察に来られたんです。それで僕のピッチングを見ていて、「ちょっと腕を下げてごらん」とアドバイスをくれました。それから結局、サイドスローでやっていこうということになり、バッティング練習やイースタンリーグの試合も出場することなく、黙々と投球練習していましたね。

−−恩師のアドバイスが転機となり、何かを掴んだということですね。
斉藤:1年目の9月に、大宮でイースタンリーグの試合が予定されていました。大宮は埼玉で地元だから、僕が投げるという宣伝を打ってしまったそうなんです。だからそれまでに投げられるようにしろとうことで、その日を目標にやっていましたね。

 結局その日は先発して、負けはしましたが、1失点に抑えることができました。その時に初めて、まともに投げられたという感覚が自分の中で生まれました。当時、イースタンリーグは10月くらいまであったので、結局1年目には2軍で4勝をあげることができました。

−−2軍での結果が飛躍に繋がった?
斉藤:一年目のシーズンが終わり、王監督に代わりました。その年のキャンプで一軍に帯同させてもらって、オープン戦でも結果を出すことができたんです。それでシーズン開幕戦、先発の江川卓さんの試合でピッチャーの3番手として出させてもらいました。なのに、僕が散々やらかしてしまって…。最後は頭部死球を当てて、呆れて交代させられました。

 キャンプから調子が良くて、周りも自分も「イケる」と思っていただけに、自信喪失でしたね。その後も何試合か投げたはずなんでしょうけど、ゴールデンウィークが終わる頃にはファーム落ちを宣告されました。

 そう振り返る、斎藤さん。プロとしての転機、ドン底を経験した若き未来のエースの、そこからのサクセスストーリーは次回配信予定。

※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

「平成の大エース・斉藤雅樹」、時代を築いてきた野球論〜ドラ1からの転換期、そして挫折〜