臨床心理学者・東畑開人さんと歴史学者・與那覇潤さんによる「デイケア」をめぐる対談。#2では東畑さんが「ケアに効率化を求めることの危うさ」を、與那覇さんは離職前の大学教員の経験から得た「組織としての大学のダメさ」について熱く、冷静な対話が繰り広げられました。

(全2回の2回目  #1より続く

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なぜデイケアアサイラム(収容所)化してしまうのか?

與那覇 東畑さんは、デイケアは本来アジール(避難所)であるべきだと。人々が従来縛られてきた前提から解放されて、ちょっと新しい自由を見つける場所のはずなのに、それがアサイラム(収容所)化してしまう点を問題にされています。

 要は医療保険から落ちるお金を最大化するために、ケアの内実は二の次にして、いかに効率よく患者を集め・閉じ込め・よそのクリニックに逃がさないかだけに熱心になる。ご著書の末尾ではその犯人探しが、ミステリー調で語られていますね。

東畑 この問題は深刻です。税金を使うとか、投資を受けるとかいう時には、どうしても説明責任が生じてくる。そのお金が適正に使用されたかがチェックされますから。だけど、「居る」とかケアの価値って、本当に説明しにくいんです。

麦茶は奪われて、「居る」が損なわれるとき

東畑 たとえば、「人と居られるようになるのが目標です」と説明すれば、これはなんとなく分かってもらえる。だけど、そのために、麦茶を飲んでぼーっとしてます、とか麻雀やってます、となると、「それ意味あるの?」という声が飛んできます。「意味ありますよ」って反論しようとするんだけど、「ぼーっとしているだけでしょ」と言われちゃうと、困ってしまう。「そもそも麦茶である必要はあるの? 水じゃダメなんですか?」と事業仕分けのような声が飛んでくるかもしれない。そしてその結果「エビデンスを出してください」とか「もっと効率的にやりましょう」と言われてしまう。でも、やっぱり麦茶なんですよ、水じゃダメ(笑)。でも、それをどう説明したらいいかはとても難しくて、説明できないうちに麦茶は奪われて、「居る」は損なわれていく。

東畑 多分、「居る」こととか、「普通に生きている」ことを語る語彙が、我々には乏しいんだと思います。その価値をみんな本当は知っているのだけど、うまく語れない。そしてその空隙を突かれて、「居る」を支える場所は、「居る」を損なうような全く違った場所になってしまう。だから、「意味がある」というときの意味をどう考えればいいのか。これは「麦茶の意味論」という迷路のような問いです。

「有益」じゃないと意味がないという思い込み

與那覇 意味と有益さって、本当は別の概念だと思うんですよ。ドストエフスキーが獄中記で、強制労働でも「小屋を作れ」と言われたら、囚人が結構いきいきと働くけど、穴を掘ってまた埋めろみたいな完全に無意味な仕事をさせられたら、きっと自殺者が出ると書いているそうですね。建てた小屋に本人が住めるわけじゃないから、無益なはずなんだけど、でも作るという営為自体に「意味」を見いだせるから、なんとかやっていけるわけです。

 しかし我々はどこか、自分にとって「有益」じゃないと意味がない、という発想に囚われている。自己啓発とか業績向上とかの形で、直線状の時間軸に乗ってくれないと「意味がない」と思い込みがちなんですね。そうして色んなものを切り捨てて、かえって生きる意味を感じにくい社会になっている。

東畑 ここに生じている生きづらさは逆説的なものです。この2、30年は新自由主義の時代で、個人が責任を取らなきゃいけない、という風潮が強まり続けてきました。それはもちろん、個人がより自由になることと引き換えだったはずです。新「自由」主義」なんですから。だけど、結果としてみると、組織の力は強まりました。個人はその自由をリスクを避けるために使うからです。そして、リスクをとれるのは資本家とか組織とか、そういう体力のあるプレイヤーだけになっていく。ブラック企業問題には、そういう背景もあるように思います。それが様々な生きづらさを発生させています。

 これに対して、與那覇さんは、共産主義を共存主義として読み変えて、人々が一緒に何かを共有していくことはできるはずだと書いておられますね。

責任回避の思想が行き着くところ

與那覇 ありがとうございます。いわば自分の本は、組織としての大学のダメさとデイケアのよさと、双方を対照して書かれているんですね(苦笑)。

 僕が体験した大学の病理がどこから来ていたかというと、仰るような責任回避の思想です。個人でリスクを取らない面々が、「これは私の意思ではなく、教授会の総意です」という形で責任の所在をロンダリングする結果、みんなが組織に従属させられてしまう。「人民の意思」の名の下でかえって、人びとが不自由になっていった共産主義と同じです。

 これはなにかおかしい、どこかが間違っている……と思っているうちに病気になったのだけど、デイケアで回復していく過程でやっと、似て異なる別のモデルを見つけることができたんですね。

円環的な時間の大切さと「つらさ」

東畑 ここまで円環的な時間の大切さを語ってきましたが、同時にそこには「つらさ」もあります。というのも、円環的時間がそもそもどこにあったかというと、たとえば村社会にあったわけです。春が来て、夏が来て、季節がグルグル回って、親父のやったことを息子へと同じように引き継いでいくという世界です。

 それは端的に不自由なものです、やることが決められているわけですから。そしてそういうものが嫌で、僕らは直線的時間に乗り出したはずーー。

與那覇 それが近代化のプロセスですよね。円環的な時間が取扱注意でもあるのは、ある居場所を持ち上げすぎると「この場所だけが素晴らしく、他所のやつらはニセモノ」という発想につながることです。それは封建的な集落や、カルトと変わらない。

 ご著書の最後にブラックイケアの事例が出てきますが、あれは「おまえが生きていけるのはこの場所だけだ」と患者さんに刷り込んで支配しているわけですね。大学や学界にも、誰それ先生の学統を引くこの研究室の者だけが真の何々学者だ、みたいなプチ・カルトは結構あります。

與那覇 僕が学者時代にやっていたのって、ほぼすべてがそうした「円環的時間との戦い」だったんですよ(笑)。歴史家としてはやはり、たとえば織田信長が「中世から近世へ、やがては近代へ」という直線的な時間軸の上で果たした役割を教えたい。しかし多くの歴史ファンそんなことより、あたかも信長と顔見知りの「同時代人」になった気持ちにさせる体験を求めている。だから、読めなくても古文書に(物理的に)触っている方が幸せだし……。

キャラゲーでもいいのかなぁという境地

東畑 大河ドラマで、繰り返し織田信長が登場するというのは、円環的な時間であると(笑)

與那覇 歴史上の人物と、疑似的にであれ一緒に暮らしてみたいという欲求って、「バーチャルな居場所型デイケア」なんですね。いまはデジタルの歴史ゲームもそうなっているようで、萌え絵女の子との同居生活を楽しむみたいに、キャラ化された(時系列バラバラな)偉人たちとチームを組んで遊ぶものらしい。

 しかし僕自身もデイケアで円環的な時間の意義を体験して、まぁそれでもいいのかなぁという境地に達しました(苦笑)。人類学者が描いてきた、諸民族の神話の世界ってそういうものじゃないですか。「発展段階」的な直線型の歴史意識を持つ社会って、もともとすごい少数派だったわけで。

東畑 今、つらい話をしているなと思っています。僕は、カウンセラーとして、直線的な時間を大事にする立場がある一方で、「麦茶を作ることに意味がある」という話をしているわけです。

 もちろん「両方大事」と言っちゃえばいいのでしょうが、ちゃんと考えようと思うと、混乱してきて、どうしようもないどん詰まりがあるように感じる。

「在野の心理学、精神医学」と「野の歴史学」をどう扱うのか

與那覇 東畑さんの前作『野の医者は笑う』は、医療人類学の視点から沖縄のスピリチュアルな世界、もはや新興宗教と紙一重な「在野の心理学、精神医学」の内実を探ったものですね。その過程で「近代科学的な心理療法でないと『ダメ』だと言える根拠は、どこにあるのか?」を問いかけておられます。

 実はこれ、歴史学も同じなんですよ。アカデミックな郷土史学とは別の、相当スピリチュアルな「野の歴史学」の本が大量にあって、「国民の気概」なるものが原因で経済が発展したり戦争に勝ったりする世界を描いてるんだけど(笑)、そっちのほうが学者の書く歴史よりずっと影響力がある。

 こうなると、まさに同じ問題が出てくるわけです。「私はオーラの力でうつが治った!」と主張する患者さんがいたとき、他の人に否定する権利があるのか。同様に「ニッポンを元気にする歴史のなにが悪い。俺はこの本でめっちゃ熱い志が湧いたんだ!」という人に、どう接したらよいのかと。

イワシの頭で元気になったらその後の生き方は?

東畑 『野の医者は笑う』は、イワシの頭も信心からという慣用句が語るように、イワシの頭でも治癒をもたらし、役に立ちうることについて真面目に考えようとした本です。このとき重要なことは、イワシの頭で治ったら、ずっとイワシの頭を尊重し続けないといけないということです。だって、イワシの頭のおかげで健康になったら、もうイワシの頭をおろそかにできないですよね。イワシの頭グッズとかをいっぱい買っちゃうと思います。つまり、気功でも免疫医学でも、イワシの頭でも、病んだ人は元気になるのかもしれないのだけど、元気になった後の生き方が違うわけです。

 聖書ではキリストに癒された人はキリスト教徒になるプロセスが語られていますが、イワシの頭に癒されるとイワシの頭的に生きるようになります。同じように臨床心理学に癒されると、臨床心理学的に生きることになる。ここに「治ればいいじゃん」という安易なプラグマティズムを超えた倫理学的な問題があります。どういう生き方がよいのか悪いのか。価値の問題です。価値が多元化する現代だからこそ、この倫理学的な問いに取り組まないといけない。

東畑 たとえば、オウム真理教です。多くの新宗教同様、オウムの布教も病気治しを通じて行われていました。そして、実際に持病や不調が治った人たちがいて、彼らはオウムに癒されたので、オウムの信者になった。それは多くの手記に記されています。だけど、彼らは後に深く傷つくことになります。オウム事件によって明るみに出されたように、そこでは他者も自己も損なうようなことが生じていました。「ただ、治ればいいわけじゃない」ということです。

 オウムは極端な例ですけど、多くの場合はグレーゾーンですよね。何がよくて何が悪いか。そして、その倫理的な善悪を誰が判断するのか。価値観の多様化を前提とする私たちの社会では、その判断は最後のところ自分でするしかない。だけど、それは生き方に関わっているので、善悪は後からしか分からなかったりもする。この悩ましさの中に今の学問の問題が詰まっているのではないか。

 つまり、アカデミズムというものがしっかりと存在感があるときには、それが良し悪しを判断してくれた。でも、そのような信頼は今凄まじい速さで掘り崩されています。なにより、少子化の影響もあって大学自体が経営学的な価値基準のもとに運営されざるをえなくなっているわけですから、アカデミア自体がプラグマティックになり、野の科学的になっているともいえる。

アカデミズムに支えられない知の価値はあるのか

與那覇 とにかく「役に立つ学問」、端的には予算がとれる学問たれ、といった号令のもとで、グローバルだAIだといったバズワードに群がる大学人が増えた結果、悪い意味でビジネス書と見分けがつかなくなってしまった。「知」の全体がもう1度、野の科学に覆われてゆく事態も十分想定し得るわけですよね。

東畑 そう。その時に、知の価値の根拠をいったいどこに僕たちは求めていくのか。もちろん、その1つの答えが「快感」です。読書の楽しみもそうだし、なんか励まされるという與那覇さんのおっしゃる野の歴史学の価値がある。他方に、学問的手続きに支えられた信頼性という価値が以前にはあったと思います。

 だけど、今までのように、何々大学の何々先生が、そういう信頼性を担保してくれなくなったら、実際SNSによって彼らがそんなに信頼できないと人々が思うようになっていますが、僕らは知の価値を何によって支えていけばいいのだろうか。そういう問題です。

「別に反知性主義で世界が滅ぶわけじゃない」

與那覇 最近、そこは割り切ることにしたんです。大学勤めの最後のころは本当に不幸で、自分をまるでラス・カサス(スペイン植民地統治に抵抗した司教)とかの「良心的な宣教師」のように感じていました(笑)。「直線的な時間軸をもって、歴史の流れの中で物事を見れるようになってくれ!そうじゃないから搾取されるんだ」とかお説教するんだけど、別に円環的な神話でいいやと思ってる現地人(学生)には相手にされない、みたいな。

 ところが、村松剛が古代以来の宗教的な死生観をたどった『死の日本文学史』を読んで、憑き物が落ちたんです。鎌倉新仏教の開祖のひとりに、浄土真宗の親鸞の師匠にあたる法然がいますね。彼は念仏さえ唱えればそれで救われる(専修念仏)という、いわば「オーラでうつは吹き飛ぶ」級にシンプルな「野の仏教」を始めたわけですが、しかし本人はもともと比叡山で修業し大蔵経を読破して、今風にいえば「アカデミックな教え」を究めた人だった。

 そんな人が「いや、こんな勉強は全員ができるものじゃない。これでは世の中を救えない」と思わざるを得ない状況が、末法の世として広がっていたんですね。そうして始めた宗派(浄土宗)が今日まで伝わったから、後から法然は偉い人だと言われているだけで、当時はぜったい有象無象のカルトが他にいっぱいあって、彼も同類だと見なされたわけでしょう。

 自分が信じるところだけを説いて暮らして、それを評価する人たちが語り継いでくれて、決着がつくのは遠い未来でいいんじゃないか。現在は「西洋近代」への信仰が薄れた結果、久々に「末法の世」がむき出しになった時代というだけで、別に反知性主義で世界が滅ぶわけじゃない。歴史上何度も見てきた景色で、この世の終わりでもなんでもないんですよ。

東畑 なんと!スケールが超大きい。そう言われると、僕も「そんなもんかぁ」という気持ちになってきました(笑)心理学ではなく、歴史学こそ、末法の世には最強ですね。本日は、本当にありがとうございました。

東畑 開人(とうはた・かいと) 1983年生まれ。
 京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。
 沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、2014年より十文字学園女子大学専任講師。2017年に白金高輪カウンセリングルームを開業。臨床心理学が専門で、関心は精神分析・医療人類学。
 著書に、『美と深層心理学』(京都大学学術出版会)、『野の医者は笑う』(誠信書房)、『日本のありふれた心理療法』(誠信書房)がある。今作『居るのはつらいよ』(医学書院)は、ケアとセラピーについて考え抜かれた思想書である同時に、沖縄のデイケアで出会った人々との涙あり笑いありの友情物語となっている。

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與那覇 潤(よなは・じゅん) 1979年生まれ。
 東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程を経て、2007年から15年まで地方公立大学准教授として教鞭をとる。博士(学術)。
 専門は日本近代史。在職時の講義録に『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)。その他の著作に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)など。昨年、自らのうつ体験と平成史を絡めて綴った『知性は死なない――平成の鬱をこえて』(文藝春秋)は、「知性」のあり方に新しい光を当てた書として大きな反響を呼んだ。

 

(東畑 開人,與那覇 潤)

臨床心理学者・東畑開人さん(右)と歴史学者・與那覇潤さん(左) ©山元茂樹/文藝春秋