今から74年前の4月7日大日本帝国海軍が誇った戦艦大和が米軍に撃沈された。最終的に残念な最後を迎えたのだが、戦艦大和は世界最大最強の戦艦として、日本人のレジェンドになっている。

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 一方で、貧しかった当時の日本が全力を傾けて作ったものの、大した活躍もせず沈められたことでも知られる。「昭和の三大バカ査定」の一つと揶揄されたこともある。

 大和が戦争中に沈めた米国の軍艦はたった1隻。しかもそれは小型艦艇の駆逐艦で、サイズは大和の40分の1程度。さらに、本当に大和が沈めたのかどうかも諸説あるようだ。

 最後に沖縄に特攻出撃して米軍機に沈められるが、この戦いで沈められるまでに撃墜した米軍機は10機に満たない。

 戦艦大和のコストパフォーマンスの悪さは、あまりに情けない。

 いかにも敗戦国という悲哀が漂うが、大和が全く活躍できなかった理由は、日本海軍自身が真珠湾攻撃の成功により、戦艦そのものを時代遅れにしてしまったからだった。何とも皮肉である。

それでも戦艦大和は最大最強

 戦果はどうであれ、大和がスペック上、世界最大最強であったことは確かである。

 米国最大の戦艦の主砲の直径は40センチであったのに対し、大和の主砲の直径は46センチ。威力も射程も大きかった。

 もちろんこのような巨大な大砲を積むのだから、船体も大きかった。米国最大のアイオワ型戦艦が排水量5万7500トンであったのに対し、大和は7万2000トン。

 太平洋戦争中の日本は、敗れたとはいえ確かに米国に攻撃力と大きさで勝る世界最大最強の戦艦を実際に建造していたのだ。

 もっとも、戦艦大和が最強だったのは1隻あたりの主砲の威力だけだった。米国最大の戦艦アイオワは時速60キロだったのに対し大和は時速50キロで、スピードは劣っていた。

 さらに、数では大和と同じ戦闘力の戦艦はもう1隻の武蔵だけだったのに対し、米国最強のアイオワ型戦艦は4隻あった。

 また、アイオワ型にスピードで劣るが、ほぼ同じ40センチの主砲を9門持つ新型戦艦はアイオワ型4隻にプラスしてもう6隻あった。

 一方で、大和と武蔵以外の日本の戦艦は大正時代にできたボロばかり。もちろんそのレベルのボロ戦艦においても米国の方が数で優勢である。

 残念ながら数では劣勢なので、仮に航空機の時代とならず、戦艦同士で戦えたら多少は活躍できたかもしれないが、結局は負ける可能性が高いように見える。

大和よりも巨大な豪華客船

 以上は戦艦としての比較であるが、大和が船舶として最大であったかというと、実はそうではない。

 米国と欧州の間では戦艦大和をしのぐサイズの大型豪華客船が就航していた。

 戦艦大和の建造が始まったのは1937年。当時、すでに飛行艇による大陸間航路も存在した。しかし、旅客機が国際輸送の主役にはなっていなかった。旅客の輸送手段の主役は客船であった。

 もちろん太平洋インド洋でも客船が往復していたが、最も密度の高い路線は大西洋航路だった。客船のサイズも大西洋航路がトップである。

 1930年代末から40年代初めにかけて、大西洋航路ではクイーンメリー(英)、クイーンエリザベス(英)、ノルマンディー(仏)の3隻が世界最大の客船の座を争っていた。

 当初、1936年に完成したクイーンメリーが最大であったが、ノルマンディーが改造により大型化し、クイーンメリーを抜いている。

 そして、1940年に完成したクイーンエリザベスノルマンディーを抜いて世界最大の客船となった。

 これら3隻は戦艦大和をしのぐ規模を誇っていた。

 戦艦大和の満載排水量は7万2000トンであったが、これら3隻の排水量はいずれも8万トンを超えていた(商船のサイズは普通総トンで表すが、排水量でも8万トンを超えていた)。

 これらの巨大客船は、幅でこそ戦艦大和の38メートルには若干及ばず35から36メートル程度であったが、長さは戦艦大和の263メートルに対し、310メートルから314メートルと50メートル近く長かった。

 戦艦では水面上に出る部分が比較的少ないのに対し、客船は水面上の構造物が大きい。並べてみれば、この3隻の巨大客船は大和よりも圧倒的に大きく見えたはずだ。

 大和は確かに戦艦としては世界最大最強であったが、船舶としては当時も最大ではなかったのである。

 もっとも、商船の積載量や乗客はサイズが大きいほど増えるので大きいことは重要である。

 一方、戦艦はサイズを競うものではなく、同じ戦闘力であれば小さい方が望ましい種類の船舶である。

 これら豪華客船はサイズだけでなくスピードも驚異的であった。戦艦大和の最高速度は時速50キロ。一方、これら3隻の場合、巡航速度が55キロ程度もあった。

 一見、5キロしか違わないように見えるが、最高速度は短時間しか出せないのに対し、巡航速度はそのスピードで出発地から目的地まで航行する速度である。

 戦艦大和をしのぐサイズのこれら3隻の大型客船は、戦艦大和の最高速度を超えるスピードを、大西洋横断に必要な4日の間、出し続けることができたのだ。

 当時の軍艦では高速航行をこれほど長期間維持できなかった。

 もちろん、戦艦と豪華客船では役割が違うので、一概には比較できない。豪華客船は戦艦大和が持つような大砲は持たないし、敵の攻撃に耐える装甲も持たない。

 しかし、どちらがすごい船に見えるかと問われると、戦艦大和よりも巨大な3隻の豪華客船の方が立派に見える。

豪華客船は“戦果”でも大和に勝っていた

 戦艦大和よりも立派だった英仏の豪華客船。何とこの豪華客船には軍艦を沈めた実績においても戦艦大和をしのいでいたものがあったのだ。

 戦争前に就航したクイーンメリーノルマンディーは、第2次世界大戦が始まるまでは客船として運航されていたが、開戦後は軍隊輸送船となった。

 クイーンエリザベスは完成が1940年であり、客船として運航されることなく軍隊輸送船となった。

 ノルマンディーは改造中に火災を起こし、消火しようとして大量の水をかけたところ、溜まった水でバランスを崩して横転し、そのまま復活せずスクラップになるという悲惨な最期を迎えた。

 一方、一度に1万人以上を輸送できるクイーンメリークイーンエリザベスは、米国から欧州へ兵隊を送り込むのに活躍した。

 1942年10月2日クイーンメリーは大西洋上で輸送任務についていた。まだ、ドイツ潜水艦が活発に活動している時期であり、当然のことながら軍艦が護衛していた。

 護衛の軍艦は4000トンの英国海軍巡洋艦キュラソー。もともと巡洋艦というタイプの軍艦は時速55キロ以上を出すことができる高速の艦艇である。

 しかし、第1次世界大戦時に建造されたキュラソーはすでにボロ軍艦になっていた。そして、軍艦が最高速度を持続することは困難だった。この時の大西洋横断では時速46キロを出すのがせいぜいだった。

 一方、クイーンメリー潜水艦に攻撃されないようなるべく高速航行していた。時速53キロで航行し、さらに潜水艦から照準を合わされないようにジグザグ航路をとっていた。

 遅いキュラソージグザグ航路をとるとクイーンメリーについて行くことができないので、真っ直ぐ航行していた。クイーンメリージグザグの進路とキュラソーの直線の進路は、クイーンメリーキュラソーに突っ込む形で交わることになった。

 8万トン対4000トン、しかも4000トンの方はボロ。この勝負、キュラソーに全く勝ち目がなかった。

 クイーンメリーは船首が損傷したが、何事もなかったかのように高速航行を続けた。対するキュラソーは船体を真っ二つに分断され、沈んでしまった。

 これがドイツの軍艦であれば大手柄だったのだが、残念ながらキュラソーは味方の英国海軍の軍艦だった。

 クイーンメリー号の生涯にわたる出来事で最も悲惨なものであった。

 しかし、戦艦大和はごくわずかの航空機撃墜に加え、2000トン以下の小型艦艇を沈めた実績しかないのに対し、クイーンメリーは味方とはいえ4000トンのサイズの軍艦を沈めている事実に変わりない。

 サイズやスピードだけではなく、軍艦を沈めた実績においても、戦艦大和は英国の豪華客船に負けたのである。

戦艦大和が本当に活躍したのは戦後?

 戦前の日本の工業は急成長中であった。零戦や戦艦大和は戦前の日本人の努力の結晶であった。

 日本の兵器の性能は欧米の兵器に迫りつつあり、部分的にはしのいでいた。しかし、やはり、全体的・総合的に見れば負けていた。

 また、当時の日本の工業は現在の北朝鮮に比べればマシであろうが、明らかに軍事偏重であった。

 当時の欧米では戦艦よりも巨大で高速な客船を運航していたのに対し、戦前日本最大の客船は戦艦大和の半分のサイズもなかった。

 欧米の豪華客船が戦艦大和よりも巨大で、スピードも速く、さらに軍艦を沈めた実績でも大和をしのいでいたというのは、ある意味で当時の日本の限界を表しているだろう。

 とはいえ、当時の日本の成長スピードが極めて速かったということも事実である。あそこまで悲惨な敗戦を迎えたにもかかわらず、日本の造船業は戦後すぐに復活し、成長を再開した。

 日本の造船業が世界最大の建造量を誇るようになったのは、敗戦のわずか11年後の1956年であった。

 クイーンメリーノルマンディーを建造した英仏の造船業や、日本艦隊を圧倒した米国艦隊を生み出した米国の造船業を抜いたのだ。

 日本の造船業界は、戦前、戦中の大和を含む軍艦の建造で、溶接、ブロック工法、効率的工数管理などを取得していった。

 戦争にはほとんど役に立たなかった戦艦大和も、高度経済成長期に世界一となる日本の造船業の発展には多いに貢献していたのである。

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1945年4月7日、米軍機の攻撃を受ける戦艦大和。その後、しばらくして沈められた。(出所:米海軍ウエブサイト)