先週のノートルダム大聖堂火災、続稿の方はあまり読まれないだろうと思いつつ入稿したのですが、意外にも非常に多くの方に読まれ驚いています。ご質問などもいろいろいただきました。
これから5月の10連休、また新元号下最初の「子供の日」に向けて、親子で読めるものを・・・などと思っていたところ、週末に物理時代の恩師、小林俊一先生の叙勲をお祝いする会があり、小林先生から開口一番「ノートルダム話、読んどるよ」といただいて、大変恐縮してしまいました。
小林先生は凄まじく鋭い方です。高校の演劇部の後輩、上岡龍太郎氏が小林先生の話風に影響を受けて芸人になった、というウソのような本当の伝説も伝わっています。
その恩師に読まれているというので、どっと冷や汗をかく羽目となりました。
そこで物理時代の恩師にもお読みいただく覚悟をもって、「ノートルダム話」の後続編、音楽側とサイエンス側と2つの観点で、ノートルダム大聖堂に響く「こだま=エコー」の話題をお届けしたいと思います。
今回は音楽側、「かえるのうた」の故郷としてのノートルダム大聖堂の横顔をご紹介しましょう。
かえるのうたが きこえてくるよ
まず最初に「輪唱」をおさらいしておきたいと思います。「かえるのうた」ご存知でしょうか?
最近は、私たち昭和の遺物、20世紀の遺物が前提とする常識が、若い人にとんと通じないので、安全を見て記しておきます。
原曲はドイツの童謡「Froschgesang(かえるのうた、そのものですが)」で、岡本敏明氏の訳詞として各種のバージョンがあるようですが、私が慣れ親しんだものを記しますと
かえるのうたが きこえてくるよ
グヮグヮグヮグヮ ゲロゲロゲロゲロ グヮグヮグヮ
といったテクスト、この「グヮ」が「クヮ」だったり「ゲロゲロ」が「ケロケロ」とか「ケケケケ」とか、いろいろあるようですが、要するにカエルが鳴くわけですね。
これを
と一節ごとにずれて、追いかけるように歌う「多声楽」ポリフォニーを輪唱(round, troll,)と呼んでいます。
(* 配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで本記事の図表[楽譜]をご覧いただけます。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56226)
かえるのうたの輪唱はただ単に同じメロディが追いかけるだけですが、より複雑にカエルが走ったり止まったり逆走したり逆立ちするようなポリフォニーはカノン(canon)と呼ばれます。輪唱はカノンの最も単純なケースの一つです。
こんな簡単な楽式ですが、決してバカにはできないのです。
いま上では1小節単位でメロディをずらしましたが、これは実は2分の1小節、つまり2拍ずらすことでも成立します。
いや、実は1拍ずらすだけでも音楽的に単純かつ整合した系が成立します。譜面に記してみるとこんな具合。
こんなふうに記してみると、声部間の追っかけっこがよく分かると思います。後に記すように、こうした進行を「模倣進行(imitation)」と呼びます。
カエルが何匹も、順々に古池に飛び込んで行くのが、上の2番目の譜面から、目に見えるかと思います。
私はこのコラムで楽譜を書かないことに決めています。しかし今回は特例ということにして、ごく単純なものですが、上の4声部を「変形」してみましょう。
下に書いた譜面を見てください。2段目の赤い音符は、元の形と音の動きの上下関係が鏡像対象の形になっていますね?
こういう変形、変奏を「反行(inversion)」といいます。反行形を含む「かえるのうた」は「反行カノン」と呼ばれることがあります。
カエルが少しグレてるわけです。もっとも初歩的なポリフォニーのエクリチュール、多声楽書法を実演してお目にかけましょう。単に眺めるだけでなく歌ってみると、分かりやすいと思います。
2小節目の冒頭では1段目と2段目の間に「完全5度」「減5度」による並進が見られます。こうした進行は11~12世紀「並行オルガヌム」(あるいは平行オルガヌム=parallel organum)と呼ばれる楽式の中に見られます。
近代の和声では禁則とされ、日本の音大入試で記すと減点されます。ショスタコーヴィチやメシアンなど20世紀初頭生まれの作曲家の作品以降、実作には随所に見られますが、日本の受験では禁則とされる典型的なケースです。
なぜ禁止されるかは、歌ってみると分かるかもしれませんので、ここではお楽しみとして文字で理由は記しません。
仮にここで禁則を破らないようにしたいなら、2小節目の赤い音符、「レーミーファ」を別の形、例えば「ファーソーラ」などにカエルと、バツはつきません。ただ、平凡ですね。
私は荒削りな並行5度の方が好きですので、赤い音符のままといたします。採点無関係に平気で禁則を破って書きましたので、子供の頃、同門の中では、困ったやつとして知られていましたが、自分の耳の方が迂遠な教科書禁則よりはるかに信用できるので、それで貫かせてもらいました(苦笑)。
3段目の黄色い音符はさらに変ですね。これは画像として私がいま描いているもので、まるまる表裏をひっくり返して、正味の「鏡像」にしたものを貼りつけています。
何をしているか分かりやすいかと思います。音符の動きとしてみると、「時間反転」の形、つまり未来から過去に進む形になっています。
こういう変奏を「逆行(Retrograde)」といい、逆行形を含むカノンは逆行カノンと呼ばれることがあります。このカエルは世間に逆行しているわけですね。
ちなみに黄色い音符が入ってくると、先ほどの赤い音符、 並行5度のままの方が座りが良いことになるのは、歌ったり、ピアノなどに触られたりする方は確かめてみると分かると思います。シンプルな方が結果が良いのは、しばしばあることです。
反行は音程方向、現代風に言うと「周波数領域」での鏡像反転であるのに対して、逆行は「時間領域」での反転で、両者は独立しています。
そこで、時間も逆転し音程も逆転するという、相当ひねくれたカエルを考えることができる、というのが4段目の青い音符で示した変奏で「逆行反抗形(Retrograde Inversion)」と呼ばれるものです。
4つの基本変奏は、実は15世紀末イタリアルネサンス以降の鍵盤楽器のエクリチュールに準拠するもので12世紀の書法ではありませんが、21世紀の読者、ないし歌い手、鍵盤の弾き手、聴衆に分かりやすい形に、カエルの4声体をカエてみました。
読譜が苦にならないようなら、連休中に親子や家族、友達仲間で歌ってごらんになると、こんな単純なこと・・・リズムをいじらない基本変奏だけによるカノン・・・だけでも、いろいろなことができるのを、演奏を通じて体感できると思います。
鍵盤など楽器があるなら音に出してみると、さらにいろいろ分かることがあると思います。
こういう本業の内容を私が記すのは、日経ビジネスオンライン「常識の源流探訪」以来13年間、コラムを続けてきてほぼ最初と思います。
私の本来の仕事はこちらで、音符の方がはるかに自由自在、文字を書くのは40歳以降に始めた副業です。
しかし、10年くらい前からネットに露出している日本語の情報量が逆転してしまい、おかしな誤解を受けたこともありました。
せっかくの機会ですので、一応申し添えておきます。生涯一音楽人の私が、浮世の偶然でコラムも書いているめぐり合わせということになります。
もう一つ余談ながら、カエルは両生類ですから、脊椎動物としては初期に水から陸に上がった部類に属し、歌を歌うと同時に私たち人類と基本的に同様の聴覚器官を備えています。
(私が東京芸術大学などでこの種の内容を扱うときは、以下のオマケから演奏の実技指導に進みます)
水は密度が高いので、水中での行動は振動を通じて容易に知られますが、空気は水よりかるかに希薄なので同じようにはいきません。
そこで彼ら彼女らは、マイクロフォンの振動面(鼓膜)とアンプ(プリアンプが耳小骨、メインはアナログの進行波分波計である蝸牛管)を準備し、それを用いてコミュニケーションする方法を開発、個体の維持(危険情報の共有)や種の保存(メイティング)に役立てることで今日まで命脈を保っているようです。
日本物理学会誌に「かえるのうた」の非線形同期(https://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/2015/10/70-10mijika.pdf)の話題がありましたので、リンクしておきます。
イスラムの時間、ニュートンの時間
さて、ここでいきなり時計の針を1100年代のイベリア半島の時間にシフトしましょう。
ノートルダム大聖堂の建築が進んでいた12世紀後半は、イスラムに占領されていた現在のスペインやポルトガルが、キリスト教徒に奪還される「レコンキスタ」の時代でもありました。
イスラム教徒は毎日5回、メッカのカアバ神殿の方角に向かって礼拝(サラート)を行わなければなりません。
それらは日の出と日没によって定義され、地球上の場所や季節によって細かく変化していきます。5つの礼拝時刻は各々
夜明け前の礼拝(ファジュル)
正午の礼拝(ズフル)
午後の礼拝(アスル)
夕べの礼拝(マグリブ)
就寝の礼拝(イシャーウ)
と呼ばれ、現在ではこのリンク(https://www.islamicfinder.org/prayer-times/)のように、世界各地での正確な時刻をネットで検索することができますが・・・こんなことが可能になったのは20世紀最末年以降のことに過ぎません。
ムハンマドがイスラムを興したのは7世紀初頭、聖遷の元年は622年で、日本ではこの年、聖徳太子こと厩戸皇子が48歳で亡くなっています。つまり、元来の聖典に示された「イスラムの時間」は、日本で言うなら飛鳥時代の文化で指定されている。
例えば午後の礼拝アスルであれば「自分の影が身長と同じ長さ/2倍の長さになってから日没までの間」といった形、現代人の目からはいい加減に見えるかもしれません。
しかし、実は太陽光の入射角から厳密に定義することができるので、「アッバース朝」(750-1517)の成立後、こうした教義の精緻化から天文や光学が著しく発展する契機も与えています。
とはいえ、古代人が利用した「日時計」や「水時計」には、ニュートンの時代に一般化していた機械時計の「1秒」刻みの正確さはありません。
機械時計の原点は8世紀中国にあるとされ、11世紀にはイベリア半島のアンダルシア地方で、ムスリムの技術者イブン・ハラーフ・アル=ムラーディがギアを用いた最初の時計を作ったと伝えられます。
機械式時計の発明は13世紀以降のこと、他方ニュートンの故国イングランドではソールズベリ大聖堂の機械式時計が14世紀末(1386年)から今日まで動き続けています。
ニュートン力学が可能になるには、物体の運動、とりわけ速度や加速度といった量を正確に計る必要がありますから、時計の技術革新は決定的に重要でした。
しかし、500年先立つレコンキスタのイベリア半島では、分刻み、秒刻みで正確に計られる時間という概念は成立しておらず、礼拝の時刻も「意味的な時間」として、今日よりも遥かにおおらかな時間が流れていました。
イスラムの支配する都市では、晨朝、あるいは昼ともなれば、街の中のあちこちのモスクの尖塔「ミナレット」の上に、ムアッジンと呼ばれる<呼び手>が上りました。
そして礼拝の時刻を知らせる「アザーン(adhān)」と呼ばれる朗誦を、各々の「正しい時間」に、よく透る美しい声で唱え始めるわけです。「アザーン」の詞は
Allah u Akbar, Allah u Akbar, Allah u Akbar !
(アッラーは偉大なり)
Ash-hadu alla ilaha illallah, Ash-hadu alla ilaha illallah
(アッラー以外に神はなしと証言する)
といった具合に唱えられます。
(「歌う」と表現すると、イスラムの人からは明確に否定されることが多いです)
イスラムの意味的な時間としては「同じ礼拝の時刻」を伝えるべく、またニュートン的な時間としては、何秒ものズレを伴って、町中あちこちのモスクの尖塔から、呼び交わされるわけですから、仮に図示すると以下のようなことになるでしょうか。
最下段に、時間軸を左から右に向かって一直線に走るものとして示しました。
どうですか?
こんなふうに書くと、先ほどの「かえるのうた」と似ているでしょう。
似ているというか、こうした「アザーン」の呼び交わしがまず成立し(7世紀)、よほど後になってから、西欧のポリフォニーが少しずつ、イスラムの「真似」によって形作られていった、というのが、実は現実を反映した説明になります(後述する、9世紀以降の初期オルガヌム)。
様々なフォントを使ってみたのは、合唱をする意識など一切なく、各々のミナレットから呼びかけられる同一の「アザーン」詞句が、およそ多様な声、高さ、調子、音量で、半ばランダムに響きわたることから、変化をつけてみたものです。
いわば人工的な「こだま」が、イベリア半島、ムスリムの巨大都市には、夜明け前から日中、深夜まで、常に鳴り響き続けていたわけです。
この「アザーン」朗誦の「こだまの群れ」を、イスラムの人々は「時報」として理解しました。あちこちで唱えられていても、それは「同じ<とき>」を示しています。
ところが、レコンキスタでイスラム支配圏を再占領したキリスト教徒たちの耳には、同じ朗誦(の群れ)が、全く違うものに聴こえたのです。
キリスト教徒には、アラビア語の意味が分かりません。イスラムの軍勢を追い払っても、地域住民のムスリムはそのまま生活しています。
彼らは1日5回、夜明け前の真っ暗な頃から、正午、午後、夕べ、深夜と、毎日毎日、町中に響きわたる壮麗な「声のイベント」を繰り広げ続けました。
キリスト教徒は、これらを「言葉の意味」で理解することができませんでしたから、同じ時刻とは全く考えませんでした。
ニュートン的な秒針のある時計は存在せずとも、そこに響くのは、明らかに歴時のずれた複数の声部たちだったのです。
そして、その総体は非常に印象的、もっと言えば極めてインパクトに富む美しいものだった可能性があります。
巡礼の道とオルガヌム
サンチャゴ・デ・コンポステラとポリフォニー
新興イスラム勢力がイベリア半島に進出した8世紀、この地では重要な「聖地」が「再発見」されました。
イエス・キリストにつき従った12使徒の1人、ヤコブの墓所が再発見されたというのです。
スペインの西北端、ガリシア州にある「サンチャゴ・デ・コンポステラ」は、レコンキスタの時期を通じて西欧最大のカトリック巡礼地に発展し、今日に至っています。
ヤコブは弟のヨハネとともにイエスに帰順し、十字架の処刑後はヒスパニアつまりイベリア半島で布教活動しますが、エルサレムに戻ったところでヘロデ王に斬首されてしまいます。
当時、キリスト教は弾圧されていましたので、その遺骸を教義に則って安全に葬ることができません。
そこで弟子2人が長らく遺体を持ち運び、最終的にたどり着いたのが「サンチャゴ・デ・コンポステラ」の地であったというのですが・・・本当のことは分かりません。
ちなみに<サンチャゴ>は「Sant-iago」で「聖ヤコブ」。古代ヘブライの人名ヤコブは現代フランス語ならジャック、英語ならジェームズ、スパイ小説の主人公007はヤコブ・ボンドということになります。
イスラムの勃興期、西欧キリスト教世界は「聖ヤコブの墓が見つかった」としてこの地にカトリックの司教座を置きます。これはイスラムに対抗する意味で政治的に拠点を作ったというのが、本当ではないかと思われます。
ともあれ聖ヤコブは「レコンキスタ」の守護聖人と目され、中世初期のサンチャゴ・デ・コンポステラはローマ、エルサレムと並んでカトリックの主要な巡礼地に成長します。
そしてレコンキスタの進展と並行して、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼が盛んになり、その巡礼の道に沿って、キリスト教聖歌も、アザーンの影響を受けて「複数の歌」を同時に歌う新しい傾向が発生していくのです。
こうした初期の試みは「オルガヌム」と呼ばれ、複数の声部が関係するので、覚えのためのメモが記されるようになります。
それらを記した古写本は、ブリテン島のオックスフォードからフランスのリモージュ、モンペリエ、スイスのザンクトガレン、ドイツのバイエルンなど、様々な場所で見つかっています。
この記譜は「ネウマ(neuma)」と呼ばれますが、初期のネウマは音符や線を欠く、歌詞を上下にずらして記すだけの、目安のメモでしかありませんでした。
ほぼ同じ時期、日本でも、唐から持ち帰ってきた中国風のお経の唱え方を、最澄や空海はこうした方法で記しており、現在まで「声明」の記譜法として伝えられています(「魚山」など)。
また、はるかに時代が下り、室町時代以降、お能の「謡」を記すのも、テキストに「ごま点」と呼ばれる符丁のみが付されました。
同じ時代、西欧では「アルス・ノヴァ」と呼ばれる、定量記譜法が発達します。このあたりに決定的な東と西の違いが生まれるわけです。
その理由はひとえに、12~13世紀にかけて、ノートルダム大聖堂の建築改修が行われ、それに伴って 「オルガムヌ大全」が編纂、書法の高度化が進んだことによります。
この時期の日本では、宋の文化が輸入され、驕る平氏が福原に都を建てたりしますが、ノートルダムの1期工事が完成する頃、壇ノ浦で滅亡し、13世紀に入ると鎌倉初期、新古今和歌集の簡素なスタイルが歌われ、ポリフォニーの成長は望むことができませんでした。
ちなみに19世紀になってから見つかったバイエルン(ボイレン)のメモは「ボイレンの歌(Carmina Burana)」として編纂、出版されました。
20世紀の作曲家カール・オルフがこれに取材して作曲したカンタータ「カルミナ・ブラーナ」は、今日では日本でも(ベートーベン「第九」に類似した合唱・独唱と管弦楽のための)定着した演奏レパートリーとして、親しまれるようになりました。
誤解とマネから生まれた「西欧音楽書法の本質」
閑話休題
サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼が活発になると、まさにその「巡礼の道」に添って、西欧カトリックの讃美歌、聖歌が「ポリフォニー」化し始めるのが、丹念な音楽史家の実証研究によって明らかになっています。
ある声部を別の声部が「追いかけ」て「模倣する」<かえるのうた>と同様の楽式を「模倣進行(imitation)」と呼びます。
西欧音楽の書法を「Ecriture musicale」と呼びますが、その中心、根幹をなすのは、主要な旋律の「模倣」です。
カノン、フーガのような楽式から小規模な舞曲(ロンドなど)後年のソナタ形式に至るまで、主題とその模倣・変形(変奏 variation)は西欧音楽の主要な骨格を形成する最も重要な要素です。
巡礼の道に沿って西欧各地に広まった、原始的な多声楽は、やがてノートルダム大聖堂の建設と増改築に伴って、3声4声という複雑な声部進行を持ち、またそれらが(当時なりの正確さで)記された楽譜に定着されることで、今日に直結するポリフォニー、「アルス・アンティカ」に結実します。
それを生み出した建物こそが、シテ島のノートルダム大聖堂という、人類にとってたった一つのカテドラルだったわけです。
そして、その「模倣進行」も、またこうした背の高い石造建築物を部材から製作、構築する技術も、実は西欧はイスラム世界から「模倣」しているわけです。
ですから本来なら「イスラム様式」の建築と言うべきですし「アザーン模倣」の聖歌と呼ぶべきなのですが、西欧はそういう選択はしませんでした。
「イスラム風」という真の出自、真の名を隠し「ゴシック(西ゴート風)」という偽りの名称で、借り物の起源を隠蔽し、西欧独自のスタイルであるかのごとき「建築史」また「音楽史」を展開してきたのです。
ちなみに30代前半の私の仕事は、その西欧中心主義、ユーロサントリズム(euro-centrism)の矛盾を、日本の一芸術音楽家として衝く決意を持って、できる限り精緻に行おうとしたものでもありました。
今回の内容は、四半世紀前の博士論文のイントロ前半を、噛み砕いて記してみた次第です。
西欧音楽の根幹ポリフォニー、その本質をなす「模倣(imitation)」は、実はイスラムの「模倣(imitation)」にほかなりません。
ウソというのはなかなかつき通すことが難しいようで、結果的にあちこちに「アラベスク(arabesque)」の要素が残ることになります。
これを「唐草模様」などと呼んではいけません。そのものずばり「アラビア風」で、背景にはユークリッド幾何やプラトンのイデア論など、古典古代の合理科学を結集した「イスラムのハイ・テクノロジー」があるのです。
復興に期待を託して
今回焼失したノートルダム大聖堂の一部には、こうした「西欧のイスラムからの借用」当初のプロセスを跡付ける、重要な歴史の真実、証拠が含まれていた可能性があります。
古くからの「バラ窓」が破損した可能性が伝えられますが、その中世の鉄材や鉛材、ガラス材は、それ自体が大変貴重な史料にほかなりません。先代の14世酒井田柿右衛門さんが再三、これを強調しておられました。
歴史的な発色は、金属に当時の生成法によって残る不純物のために決定され今日の、きれい過ぎる金属材料を調合しても、まず復元は不可能、と柿右衛門さんはため息とともによく話していました。
有田では、日本全国で古寺院などの修復があると聞くと、江戸時代の古釘の廃材が出たときもらって帰ってくるそうです。
それを便所の脇あたりで40~50年ほど腐らせておくと、だんだん「柿右衛門の赤」で使い物になる色が出てくる・・・職人の真実は、実はそんなところにあるんですね。
ノートルダムで焼けたものが何だったか、お察しいただければ幸いです。
いまだ被災の詳細も分かりませんし、フランス革命期の荒廃を修復した19世紀の大規模工事部に被害が集中しているようであれば、まだ不幸中の幸いと言うべきかもしれません。
私は今年6月、パリ第4大学(パリ・ソルボンヌ)とフランス国立音楽音響研究所に滞在していくつか講義とレッスンを行う予定があります。
前稿を記した後、今回のノートルダム火災からの復興がなった暁には、ソルボンヌ大学との協働プロジェクトとして、改めて焼け残ったノートルダムの古い個所を中心に、西欧におけるポリフォニー音楽の成立を、ムスリムとの関係を直視しながら跡付ける、国際共同プロジェクトを提案してみよう、と心に決めました。
続稿では、そうした跡付けをどのようにして行うかという、もう少し進んだ部分について、記したいと思います。
元号が変わる長い連休、親子で読んでいただけるよう、やや詳しく長く記してみました。家族で「かえるのうた」を歌いながら読んでいただけたりしたら、一楽隊の筆者としては嬉しく思います。
(つづく)
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