世の中は4月の新年度に入って以降、天皇の代替わりだ、平成最後のなんちゃらだ、といった疑似お祭り騒ぎが見受けられますが、どうにも浮ついていて地に足の着いた感じがない「レイヴ」に見えます。

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 皆さん、率直に言って新元号、しっくりきていますか?

 私はまだ違和感250%という感じです。まあ「平成」初期も「何だよ、奈良時代かよ」とか思いましたが、しばらくするうちに慣れました。

 ネットで面白いやり取りを目にしました。簡単にまとめると、

A:「令和の令は命令の令だ」

B:「何言ってんの、令は美しい、きれいって意味なんだよ。知らないの」

A:「ふーんなるほど、巧言令色鮮し仁、きれいごとという意味の《令》だね」

B:・・・(二の句が継げず)

 若い世代の読者向けに念のため補うと、上の古代中国の格言は、「論語」学而編

 子曰 巧言令色 鮮矣仁。

 という孔子の言葉で「こうげん れいしょく すくなし じん」と読みます。

 「言葉巧みに、人から好かれるべくお愛想を言って媚びへつらう人は、本当の意味での誠実さに欠け、一番大切な徳『仁の心』が欠如していることが多い」の意。

 昨今のポストトゥルース全盛の世相そのもののような話ですが、同じようなのが、孔子の生きた紀元前500年代にもあったのだな、と改めて感じさせられます。

 その「鮮矣仁」の、まるで対極を行くような「明らかな仁」と感心して観察させていただいているのが、明仁天皇の見事な「退位プロセス」です。

 4月2日、新元号が発表された直後に訪れた明治天皇伏見桃山御陵、あるいは4月17日に訪れた伊勢神宮での儀式などは、近代日本に存在しない儀礼を緻密に検討、準備して、一つひとつ、次の天皇以降も「退位」する場合には踏襲できる先例となるべく、まさにパイオニアとして企画立案、実行完遂されているものと言えるでしょう。

 こうした「伝統の復元・再構築」とともに、1995年1月31日阪神大震災から2週間の神戸や淡路島被災地を、御料車ではなくバスでスタッフと共に移動、外気温マイナス2度の底冷えのする体育館で、膝をついて被災者と同じ目線で激励するという、1500年以上続く日本の皇室史上、かつてない大胆な「象徴行動」を綿密に計画、大胆に実行する「新伝統」を創出する、驚くべき実行力の人だな、と思いました。

 個人的には、この時点で、「昭和天皇の息子・美智子妃の伴侶・皇太子」といったイメージではなく「明仁天皇」という人を明確に意識するようになったと思います。

 かつては殿上人のさらに上の御座所にしかおわさなかった天皇という存在が、「平」座の庶民、国民と同じ目の高さにお「成」りになった。

 この人は、「平成天皇」という存在を、日本国憲法にも皇室典範にも抵触することなく、自分自身の主体的な選択によって創造し、実現している。

 実は大変凄いことであって、このように整理して理解するようになったのは後に記すようにブレインであった團藤重光先生から背景をうかがうようになってからでした。

・・・いずれにせよ、平成という元号に違和感を感じなくなったのも、この頃からのことでした。

 21世紀に入って最初の天皇誕生日2001年12月には、「来るべき日韓共催ワールドカップに向けて」という状況設定の中で、明仁天皇はさらに大胆な「象徴行動」を準備、実行します。

 「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています・・・私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」

 という、やはり日本の近代皇室としては驚天動地というべき大胆な「ゆかり発言」です。

 現在まで残る、非常に難しい日本と朝鮮半島の関係に、直接政治的な影響は及ぼさず、しかし1001000年というタイムスパンで友好と平和を回復する、明確に価値ある礎を世紀の替わり目というタイミングで遺したわけです。率直に立派な人だなと思いました。

 さらに、2007年には大津市で開かれた「全国豊かな海づくり大会」式典で、米国から外来種ブルーギルを持ち帰ったのは皇太子時代の自分で、国内生態系を変えてしまったことに「心を痛めています」と実質的な「謝罪」を表明、社会を大いに驚かせました。

 当時の経緯が京都新聞(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190426-00010000-kyt-soci)に出ていました。

 県が作った原案に対して、天皇来訪前日の深夜になって送られてきた「お言葉」には謝罪が記されていたわけです。

 このタイミングではすでに文言を直せるわけもなく、その通りで結構ですと確認を取って、天皇の「お言葉」は発表されました。

 上記の京都新聞記事には前々日、地元の専門家にも文案内容が打診され、そこにはさらに具体的に「お詫び」「謝罪」が記されていたとのことです。

 「その必要はないのでは?」と返事を上奏したけれど、それでも「心を痛めている」の表現は残りました。

 実はこの頃、宮内庁参与として天皇のこうした意見表明に対して日常的に助言されていた團藤重光先生を、私は秘書役的にお手伝いしていました。

 当時94歳、この2007年は、夏に軽井沢の別荘で集中して編集した発言録「反骨のコツ」を出版した年で、いくつかのことをよく覚えています。

 ここに細かに書くことはできませんが、フランクにお話になる範囲でも、團藤先生は慎重に言葉を選ばれました。

 とはいえ、余談的にいろいろお話になってしまうこともある。

 テープに残ったそれらを朝日新聞出版が文字起こししてくると、ここはまだ早い、など、入念にチェックして、確認が取れた稿に「D」とイタリックサインしてオーケーが出ました。

 明仁天皇の一番のアドバイザーは美智子皇后。これは言ってもかまわないと思いますし、間違いない事実です。

 皇室は優れた人を皇妃に迎えられました。

 天皇皇后は様々な問題を入念に相談しつつ、決して独断で勇み足を踏むことがないよう、細心の注意を払い続け、驚くほど小さなことでも、法律に関わる事柄は、團藤先生にお尋ねになり、確認を取ってから公にされていました。このことも記していいかと思います。

 今回の「退位」についても、その「お気持ち」は続稿に記しますが、昭和天皇の晩年にはすでに固く持っておられました。

 それを決して軽々しく表には出さず、随時専門家と細かく相談され、日本国憲法に抵触しない形で、どのようにすれば、あらゆることが円滑に進むかを慎重に検討されていました。

 「初代 象徴天皇」として、今後の日本史を創り出す真のパイオニアとして、絶大な創造性を発揮する舞台裏を、いささかですが垣間見させていただきました。

 それでいて、本人は「私は中継ぎの天皇だから」などと、決してそれを偉ぶらない。人間として大変立派な姿勢の方だと、率直に感服するようになりました。

 当初は「奈良時代、平城京でもあるまいし・・・」と思った「平成」への私の印象は、この31年、特に1995年平成7年)の阪神大震災以降、明確に変化しました。

 同じ年に起きた地下鉄サリン事件が契機となって、東宮参与、宮内庁参与として60年以上、明仁皇太子~天皇ご一家と人間的な交流を含めアドバイスし続け「象徴天皇」という新しいシステムの確立を支えられたのが團藤先生です。

 その團藤先生からうかがった具体的な事実から、中継ぎの天皇ではなく、明治以来3代、近代120年の天皇制が、21世紀以降の新しい日本の開かれたレジームにシフトする、いわば扉を開く継ぎ手、蝶番の役割を果たした、目立たない部分を含め、本当の意味での中興の祖であると、認識できました。

 新旧の皇室典範に引いて詳細に記す準備をしていますが、今回はここで紙幅が尽きてしまいましたので続稿とします。

 新天皇(私にはどうしても、團藤先生とのお話で慣れ親しんだ「浩宮」の呼称がマッチして、徳仁皇太子というより浩宮感が強いのですが)の行動と実践を通じて、いまは違和感250%の新元号を命令でもなければ、巧言令色でもない、令嬢、令息、令夫人の令と実感できる象徴天皇としての足取りに、つなげてもらいたいと思っています。

(つづく)

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