ついに「新元号」の新時代となったらしいのですが、前稿にも記した通り、私にはまだその実感もなければ、新しい元号には違和感の方が強かったりします。

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 そんな中で、日本では過去179年間空席だった、古くて新しいある存在に注目して、新時代を考えてみたいと思うのです。

 「上皇」です。

 「上皇」に関する規定は、日本国憲法はもとより、明治憲法にも一切記されていません。

 近代日本では実質的に天皇位は終身が前提とされていたため、江戸時代、天保11年(1840年)に世を去った「光格天皇(1771-1840)」以来、上皇あるいは太上天皇という存在はありませんでした。

 しかし歴史をひも解くなら「後白河上皇」に代表される「院政」など、上皇という存在は日本史に決定的な意味を持ち、長い伝統を持ってきたのもまぎれもない事実です。

 平成最後の原稿にも記した通り、私は明仁上皇という方が大変好きになりました。

 大変不遜な申し述べ方で恐縮なのですが、「ファン」と言っていいかもしれません。あの方が次に何を考え、何を見せてくれるのか、正直、大変楽しみにしています。

 被災地で膝を折って「国民目線」で痛みを共有、「平」座の天皇に初めて「成」ることで、自ら「平成天皇」という名に、主体的な実態を与えた真の意味でのパイオニアとして、その動静に常に期待をもって注目しています。

(「平成天皇」はおくり名ですから、生前に申し上げるのは失礼なことですので、私は一貫して明仁天皇、明仁上皇といった表記を採用しています)

 即位以来の象徴天皇初代、というパイオニアから、ついに「象徴天皇退位後の象徴上皇という、前代未聞のオリジナルな境地に一歩を踏み出した、明仁上皇

 平安時代には「令外官(りょうげのかん)」という存在がありました。

 大宝律令などの「令」とは、民法や行政法を意味する言葉で、そこから「令和の令は命令の令」などと言われたりもします。

 中国の唐代、時代の変遷とともにこの「律令」の令に定められた以外の「官職」が必要とされてきたため、古典的な「令」に定められた以外に新しい「令外官」が、社会の要請とともに作られていった経緯がありました。

 日本でも平安時代以降、そのような存在が作られていきました。代表例を挙げるなら

●参議
●中納言
●文章博士

 など、実質的に動く仕事を担当した職位だけに、今日にも残る言葉(「参議院」「博士」号など。「先の中納言・水戸光圀公」も令外官だったと知れます)が多いように思います。

 そこで、天皇退位と新天皇即位ですが、日本国憲法と皇室典範にとって「上皇」という存在は、まさに「令」外に当たっているわけです。

 「令」和の外でもあるし、既存法規のへり、境界に存在している。

 以前から、日本の天皇制はドーナツ型、中心が不在などといった社会学の考察がありますが、その天皇が譲位して上皇という、さらにマージナルな、さらに周縁的な存在として、21世紀の日本に新たに誕生した――。

 この可能性に、私は正直に申し上げて大変期待を寄せています。

 即位以来一貫して、明仁天皇は憲法ならびに皇室典範を遵守しながら、実は驚くき「静かな革命」とでも呼べそうな変革を、営々と進めて来られました。

 そんな明仁天皇が、明仁上皇という「令外」の存在として、どのように活躍されるのか?

 皇太子時代に東宮参与、平成になってからは宮内庁参与として天皇皇后ご一家に法律的な観点からアドバイスを続けて来られた、故・團藤重光先生から伺う限り、例外的な「令外」となっても、明仁上皇は、さらに一層厳密に、日本国憲法と皇室典範とに忠実に、誠実に行動、発言されることは間違いないと思います。

 そのような「令外」的存在、慎重果断な明仁上皇の行動の中でも、今回はやはり近代以降の日本に法令が存在せず、明仁上皇・美智子皇太后ご夫妻がゼロから再創造していった「退位」儀礼について考えてみたいと思います。

皇室典範、極微の隙間

 1980年代末、昭和天皇の最晩年を知る世代の方には、延命医療技術が発達する中で「天皇終身制」の微妙な側面を記憶しておられるかと思います。

 今「天皇終身制」と、さらっと書いてしまいましたが、実はこの「制度」、本当かと問われると、微妙な側面があります。

 昭和二十二年、法律第三号「皇室典範」を確認すると

 第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。

 と定めています。つまり「天皇が亡くなったら、後継者が時間を置かずにその位を継ぐ」と書いてある。

 2016年7月13日、NHKのニュースが報じて、日本中が大騒ぎになった「天皇の生前退位のお気持ち」は、この皇室典範の記載と非常に微妙なところで実は矛盾していないというのが、極めてアバンギャルドなポイントになっていると私は思います。

 論理的に、ここでは記号論理的に、つまり数理論理学的に、と置き換えることも可能な形式的な議論を検討してみます。

 皇室典範第四条は

 天皇が亡くなったら → 皇嗣がすぐに即位

 と記している。しかし

 「天皇が亡くなる以外の場合」については、何も記されていないわけです。

 皇室典範の第一章「皇位継承」には「亡くなった場合は継承」の記載があるだけで「亡くならない場合、つまり生前に譲位してはいけない」といった禁則は一切記されていない。

 つまり「生前退位」は決して「皇室典範」に「反して」いるとは言えないぎりぎりの微妙なラインにある、針の穴のような可能性をクリアに射抜いた驚くべき慧眼と呼ぶことができると思います。

 第2次世界大戦後、日本国憲法と並んで準備された現行の皇室典範ですが、憲法に関して「改正論議」が盛んであるほどに、制度としての細部が問題にされることは少なかったように思います。

 唯一といってもいい例外は「女帝問題」でしょう。しかし、2016年の夏、天皇がその意志を直接国民に発表するまで「生前退位」という議論は、日本社会の死角に入るものであったと言えるでしょう。

 ちなみに現行の皇室典範は、明治二十二年「旧皇室典範」にある第二章  踐祚即位 の第十條を元にして作られています。

第十條 天皇崩スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク

参考:現行第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。

 大日本帝国憲法と同じ明治22年2月11日に公布された旧・皇室典範のどこをひっくり返してみても、天皇が生前に退位してはいけない、とは記されていません。

 しかし、同時に天皇の位を退いた「上皇」などに関する規定もなく、実質的に「天皇の終身在位」は暗黙の了解となっていた。

 これはある意味、西欧列強のインパクトに晒されながら、近代国家としてのフレームワーク作りに躍起となっていた当時の明治政府には、あまりに自明のことでもありました。

 徳川幕府を打倒して政権を奪取した直後の1868年10月23日(慶應四年九月八日)維新政府は新元号「明治」を発表する「一世一元の詔」を発布します。

 元号を「万葉集」から採るような昨今の傾向と違い、この原文は漢文で書かれています。

 詔體太乙而登位膺景命以改元詢聖代典型而萬世之標準也 朕雖否徳幸頼 祖宗之霊祇承鴻緒躬親萬機之政乃改元欲與海内億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易 世一世一元以爲永式主者施行

 いままで天皇の在位中、幕府の意向その他によっても頻繁に変更されてきた「元号」を、これからは永遠に「生涯ひとつの元号」とする――。

 こういう宣言をここでしておかないと、幕府の政敵が別の「天皇」を奉じ別の元号を制定などされた日には大変なことになります。

 それは実際の歴史の中で「建武の新政」が破綻した後、朝敵足利尊氏によって「南北朝分裂」という形で発生したことにほかなりません。

 天皇は何が何でも1人しか存在してはならない・・・「一世一元詔」は旧憲法・旧皇室典範の成立とともに、本来は失効しているはずの古風な「みことのり」です。

 しかし、明治22年の段階ではすでに暗黙の了解として確立し切っており、「上皇(太上天皇)」だ「院政」だといった国家分裂に結びつきかねない条項は、一切書かないことにしておこう・・・。

 「明治22年の深慮遠謀」は、その後「昭和22年の新典範」にも受け継がれ、誰もがその死角を完全に見失っていた中で、明仁天皇は確かにその可能性を認識し、熟慮に熟慮を重ねておられた。

 大したものだと改めて感服しないわけにはいきません。

近代天皇制に退位儀礼なし

 ということで、明治以降の天皇制には「退位」という概念もなければ、それに関係する儀礼なども一切存在せず、いわばタブーになっていたわけです。

 これはつまり「退位」の「伝統」を踏まえた「儀礼」といったものも、明治以降152年の近代日本伝統には、一切求めることができません。

 ちなみに、前回「退位」した天皇は、先ほど触れた「光格天皇(上皇)」(1771-1840)で、1780年に即位、1817年に息子の仁孝天皇に譲位したのが、最も「最近」の天皇の退位です。

 ですから実に202年ぶりに「退位儀礼」を行うことになるわけです。

 当時は江戸幕府の「禁中並公家諸法度」(1615)に縛られた体制でした。今日の日本国憲法下での皇室行事として、それをそのまま「踏襲」すればよいといったことになるわけがありません。

 つまり明仁上皇は「即位時点からの象徴天皇」という、全く新しい天皇像をゼロからクリエイトし、さらにその「引き際」、象徴天皇の退位をも、制度と儀礼の双方から、新たに再創造した。

 21世紀天皇制の真の意味でのパイオニアだと指摘する必要があります。

 ちなみに「先代の上皇」、119代「光格上皇」もまた、様々な面でエポックメイキングな天皇でした。

 江戸時代の歴代天皇を列挙してみると

・・・後陽成(107代)―後水尾―明正―後光明―後西―霊元―東山―中御門―桜町―桃園―後桜町-後桃園―光格―仁孝―孝明―明治―大正―昭和―平成(125代)・・・

 というラインナップで、直前の「さくらまちももぞのごさくらまちごももぞの」と比べて、以後の「光格」「仁孝」「孝明」・・・がガラリと違うのが分かると思います。

 この光格天皇、学問を好み詩歌音楽に通じた文化人で、その没後、故人の業績と威徳を偲んで、平安時代から約1000年の間廃されてきた「漢字の諡号」が送られた<伝統再創造>のパイオニアでもあったんですね。

 正確な意味での光格天皇の一つ前の「漢風諡号」は平安時代初期の第58代光孝天皇(830-897)に送られたもので、それ以降は「日本風」に改められてしまいます。

 こうした《国風文化》を推進したのが「天神さま」こと菅原道真(845-903)にほかなりません。

 894年の「遣唐使」廃止などが知られますが、901年の政変で大宰府に流されて・・・といった史実は広く知られるところでしょう。

 そんな平安時代から、久しく廃れていた「伝統」を、簡素を尊ぶ人柄で復活・再創造した光格天皇。

 それから200年、「象徴天皇」が譲位して誕生する「象徴上皇」という新しい<伝統>もまた、いまこの時点から再創造されていく。

 私たちはそういう時代に巡り合わせた生き証人になっている。ラッキーなことだと思わずにはいられません。

 さらに、このような存在が生み出された背景にある経緯について、続稿に記したいと思います。

(つづく)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  令和の令:「命令」「令色」「令嬢」「令息」?

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