いまだ、混迷のさなかにあるブレグジット。
EU単一市場という経済的理由から最大の焦点の一つともなっているアイルランド共和国との国境について、これまで3回にわたり、歴史的・政治的観点からみてきた。
1回目は、長く英国支配にさらされてきたアイルランド島に国境線が引かれた歴史的経緯をたどりながら、いまも「北アイルランド紛争(英語では「The Troubles」)」の傷に苦しむ人々がいることについて考えた。
そして、ひとつのアイルランドを望む「ナショナリスト」「リパブリカン」と英国の一部であろうとする「ユニオニスト」「ロイヤリスト」との根深い対立、その源たるカトリックとプロテスタントという宗教、「Irish」「British」というアイデンティティ、さらには移民国家米国の「Irish American」について考えた。
そんななか、先進国・英国の一部、北アイルランドで、カトリック差別への抗議として1960年代に始まった公民権運動への血の弾圧が、泥沼の紛争へと発展していく様子を追ったのが第2回。
英国が直接統治に踏み切る一方、権力分有の試み「Sunningdale Agreement」が不調に終わり、対立が深刻化。
「リパブリカン」がIRA暫定派(以後断りがなければIRAと記述)の武装闘争とともに、強硬姿勢を崩さぬマーガレット・サッチャー政権への服役囚のハンガーストライキによる抗議などを経て、シン・フェイン党の政治的アプローチへと重心を移していく様をみた。
そして、IRA、UVF、UDAなどカトリック、プロテスタント双方の「Paramilitary(準軍事組織)」の暴力にさらされるなか、草の根の人々、NGO、ミュージシャンなど、それぞれの立場から平和へのアプローチを試みる姿を追った前回。
Irish Americanのロビー活動もあり、自身Irishの血が流れるロナルド・レーガン米国大統領のマーガレット・サッチャー首相への言葉も功を奏し、和平への新たなる試み「Anglo-Irish Agreement」へと進んでいくところで第3回を終えた。
1985年10月、そのAnglo-Irish Agreementで、サッチャー首相とアイルランド共和国のギャレット・フィッツジェラルド首相は、北アイルランドの立場は住民の多数の同意がない限り不変であることを確認したうえで、「アイルランド」の政治的、治安的、法的問題を扱うための政府間協議を設けることに同意した。
一方、北アイルランドでは、ナショナリスト系政党社会民主労働党(SDLP)と中道政党同盟党(APNI)だけが支持。
SDLPは、「The Troubles」当初の公民権運動にもかかわり、1980年代初めからIrish Americanに働きかけるなど積極的に問題に取り組んできた党創設メンバーの一人、ジョン・ヒューム氏が党首を務めていた。
ユニオニストにとっては、アイルランド共和国に発言権が与えられたことは内政干渉でしかなく、その最大政党アルスター統一党(UUP)、強硬派の民主統一党(DUP)などが猛反発。
そして始まった「Ulster Say No」をスローガンとする抗議キャンペーンの中心にはDUPのイアン・ペイズリー党首がいた。
「NEVER! NEVER! NEVER!」と、サッチャー首相を「統一」への足がかりを与えた裏切り者として声高に非難。デモ、ストライキが行われ、議員たちは抗議の辞職をした(翌年1月の補欠選で1人を除き再選)。
他方、リパブリカンも、北アイルランドが英国の一部だと認めることになると拒絶。
結局、即時機能することはなかったが、以後の両国政府接触の礎となった。
ハンスト抗議の服役囚が補欠選で当選して以来、1983年総選挙でジェリー・アダムズ氏が当選、85年地方選挙はシン・フェイン党が59議席、12%の得票率を得る大躍進を遂げ、87年総選挙でもアダムズ氏が再選、リパブリカンは着実に政治的歩みを進めていた。
その一方で、暴力が日常化する北アイルランドの状況は続いた。
西側先進国の優等生たる英国で1970年代から30年あまりの間に起きたテロの犠牲者数は3000人を超え、西欧最多。その大半は北アイルランド紛争によるもので、英国「本土(Mainland)」での犠牲者も100人以上にのぼる。
そして、本土での残る300人ほどの犠牲者のうちの大半は、1988年、パンナム機が爆破された「ロッカビー事件(Lockerbie Bombing)」の被害者。
1988年12月21日、スコットランド、ロッカビー上空。ヒースロー空港を離陸して40分後のパンナム機の貨物室でコンテナが爆発、機体は空中分解し、落下した胴体が民家を巻きこみさらに爆発、乗員乗客全員と、住民11人、計270人が犠牲となった。
プラスチック爆薬を用いた時限爆弾によるものだった。
当初、イラン、パレスチナ過激派とともに、IRAも関与を疑われたが、のちにリビア人2人が容疑者に浮上。1999年、リビア政府は、当初拒否していた容疑者引き渡しに応じ、2003年には、遺族への補償金支払いも約束した。
このテロは、1986年4月のリビア爆撃に対する報復だったとされる。
(当初、カダフィ大佐の養女が死亡したとされたが、彼女は生存、死後の養子縁組など様々な憶測を呼んだままである)
その爆撃自体、1985年12月のローマ空港、ウィーン空港でのアブ・ニダル機関(ANO)による銃乱射や手榴弾によるテロや、直前の西ベルリンのディスコ爆破事件に関与しているとした米国レーガン政権による「報復」として行われたものだった。
多くの国から非難も出たこの爆撃に英国駐留米軍が参加していたことが、英国がターゲットとなった原因の一つとされてはいるが、そもそも、1969年に政権を取ったカダフィ大佐が反欧米を掲げ、70年代初めから半ばまで、IRAへの武器供与を進めていた事実もあった。
紛争当初、IRAの兵器は古く、第2次世界大戦の「お古」も使っていた。そのため、1970年代初め、Irish Americanの支援も受け、米国からアーマライト社製の銃の密輸が始まった。
その一方で、1980年代、リパブリカン服役囚のハンスト抗議に共感したカダフィ大佐からの提供が再開、さらに、米国のリビア空爆後、多くの近代武器が、IRAの手に渡ることになる。
Anglo-Irish Agreementに一定の役割を果たしたレーガン大統領だったが、IRAに力を与えることにも一役買ってしまっていたのである。
「スコットランドに行くのか?」
「3日間。リビアの武器だ」
「リビア人をどう見分けるんだ?」
「奴ら頭を剃っている。クスクスとかいうものを食う。カレーのようなもんさ」
『インファナル・ミッション』(2008/日本劇場未公開)の主人公マクガートランドは、IRAの「仲間」とこんな会話をした後、リビア人との交渉に臨む。
しかし、マーティンは潜入スパイ。情報を得た公安(王立アルスター警察隊(RUC)Special Branch)はIRAの武器入手を阻止することに成功する。
この映画の原題は『Fifty Dead Men Walking』。
実際にIRAの「informer」だったマーティン・マクガートランド氏の手記と同じタイトルで、その情報が50人の命を救った、というのが題名の意味するところである。
スパイ、密告者の情報は戦いに欠かせぬ武器。しかし、そのリスクは大きく、マクガートランド氏は、のちに「正体」が露見、暗殺の標的となり、未遂に終わったものの、現在、「別のアイデンティティ」で家族とも会えずに暮らしているという。
IRAの中枢にもいた大物が、後日、スパイであったことが露見、暗殺されている事実もある(「The Real IRA」が犯行声明)。
そんなマクガートランド氏から「嘘だらけ」とクレームが出たという映画は、著書にリビアとの武器取引の記述はなく、この部分はフィクションのようだが、1987年、リビアからの大量の武器搬入が阻止されたのは事実である。
冒頭、手記に「inspire」されたもので、「some of the events, characters, scenes」は変えられている、と断りが入れられ始まる映画と違う。
映画にはその武器引き渡し現場に出向いた知り合いの弟が殺害されるという英国の「裏切り」にマーティンが怒り、抗議するシーンがある。
「許されるのか?あんたは罪のない18歳を殺したんだぞ」
「どんな命令でも実行する「仲間」はどうなんだ?」
「『仲間』だから母親も知ってるんだ。兄弟もな。俺の国から出ていけ!」
裏切ることが仕事でありながら、期待した身近な正義が達成されず、行き所のない思いを胸に独り歩くマーティン。
その映像に、2人の政治家の演説する姿がオーバーラップする。
「IRAはテロリストではない。自由の戦士だ」と主張するアダムズ・シン・フェイン党党首。
「神よ 敵を倒したまえ」と説教のごとく語る牧師でもあるペイズリーDUP党首。
対立の象徴である2人の大義を語る声は、英国にもIRAにもつながる男にとって、どちらも、むなしく響くことだろう。
しかしこの頃、アダムズ氏の声をテレビやラジオで聞くことはできなかった。
1988年10月、北アイルランド11組織の代表や支持者の発言を放送することが禁止となったのである。
そのリストにはIRA、UVF、UDAなどのParamilitaryに加え、シン・フェイン党の名もあった。
この「Voice Ban」は、リパブリカンのリーダーとしてのアダムズ氏の存在感が高まる状況を憂慮した英国政府が、メディアを使った政治的メッセージの力をそごうと意図したものだったと考えられている。
その声は、俳優に吹き替えられ、アナウンサーの言葉になり、字幕となった。
北アイルランド出身の俳優スティーヴン・レイも、そんなアダムズ氏の声を吹き替えた者の一人。
アイルランド共和国出身のニール・ジョーダン監督の長編映画デビュー作『殺人天使』(1982/日本劇場未公開)で「復讐」に燃え殺人のスパイラルにはまっていく主人公を演じ、注目を浴びるようになった個性派俳優は、83年から、「IRAの女闘士」として知られたドロース・プライス氏と夫婦でもあった。
1973年本土最初の爆弾事件の容疑で妹とともにイングランドの刑務所に収監。
ハンストによる抗議で、北アイルランドの刑務所に移され、80年に特赦となったプライス氏との生活については、手元に全く情報がないが、プライス氏が他界した際の記事などによれば、20年間前後、夫婦だったようである。
そんなレイが人のいいIRA志願兵を演じ、ジョーダンが監督した『クライング・ゲーム』(1992)は、92年10月末、英国で公開された。
しかし、興行的には失敗だった。
後日、ジョーダンは、10月12日、ロンドンでパブ爆破事件があったことが影響したのだろう、とインタビューで語っている。
1990年11月、サッチャー首相が辞任、ジョン・メージャー政権となり、3日間とはいえ、15年ぶりの休戦「クリスマス休戦」もあった。
しかし、翌1991年2月には、首相官邸にロケット弾が撃ち込まれ、他方、北アイルランドでのプロテスタント系Paramilitaryのテロも活発化、人々は暴力の蔓延に辟易していたのである。
ところが、『クライング・ゲーム』は、その後、「ミステリー映画」としての営業戦略が功を奏し、米国で静かな大ヒットとなる。
クリティックの評判も上々、1993年3月29日のアカデミー賞では、作品賞、監督賞、レイの主演男優賞など主要部門を含む6部門でノミネート、ジョーダンが脚本賞を受賞。
さらに、世界的ヒットとなり、アイルランド人監督と北アイルランドの俳優による「The Troubles」の物語が、大衆の北アイルランド問題認知に貢献することになるのである。
アカデミー賞授賞式から間もない1993年4月9日、ヒューム氏とアダムズ氏が共同声明を発表。88年に初の会談を持った2人は、長期的観点をもって、統一アイルランド実現に向けユニオニストの同意をえるよう、英国政府に行動を求めた。
しかし、4月24日、金融街(City of London)でIRAのテロ。さらに、10月にはベルファストのプロテスタント街(Shankill Road)の爆弾テロで10人が死亡。一方、デリー近くのパブで8人の市民がUDAの銃撃で死亡。テロの応酬が続いた。
そんななか、1993年12月15日、メージャー首相とアイルランド共和国のアルバート・レイノルズ首相が共同声明を発表する。
その「ダウニング街宣言」では、「北アイルランド住民の過半数の意思を尊重」し、「民族自決原則を確認」し、「IRAの無期限停戦を前提にシン・フェイン党の協議参加の用意がある」としたが、「ユニオニストの合意は必要」との文言も強調されていた。
「Voice Ban」さなかのアダムズ氏は、ラリー・キング・ライブなどに出演、その声は世界中に流れた。しかし、依然として、英国では、本人の声は聞けなかった。
多くのインタビューに応え、ブルース・モリソン元下院議員など、Irish Americanの有力者たちとも会った。
アダムズ氏は、のちのインタビューで、この訪問がなければ、IRAの休戦宣言もなかっただろう、と語っている。
英国が快く思うはずもなかったが、それを承知で、前年大統領に就任したビル・クリントン氏はビザを発行した。
クリントン大統領は、就任間もない前年のセント・パトリック・デイ(St. Patrick’s Day、3月17日)にレイノルズ・アイルランド共和国首相と会談しており、北アイルランド問題についても話をしていた。
2月、ベルリン国際映画祭で『父の祈りを』(1993)が最高賞金獅子賞を獲得した。前々回コラムでも紹介した、IRAの「本土」テロが活発化した1974年のパブ爆破事件の冤罪で収監された男性の物語である。
ようやく1989年釈放、その手記が発表され、映画化されていた。
前年末からこの年初めにかけ、英、米、アイルランドでも公開されたこの作品は、1994年3月のアカデミー賞では7部門、4月の英国アカデミー賞(BAFTA)でも3部門がノミネートされたが、受賞はなかった。
皮肉にも、北アイルランド出身のリーアム・ニーソンが主演した『シンドラーのリスト』が賞を席巻する中でのことだった(ニーソンも主演男優賞を逃したのだが・・・)。
それでも、アイルランド人監督ジム・シェリダンの北アイルランド紛争の中の人権問題への視線は世界で共有されることになる。
この映画の主題歌は、アイルランド人ミュージシャン、ギャヴィン・フライデイとU2のフロントマン、ボノの共作。
U2はこの頃、すでに世界的人気を誇るバンドとなっていた。
「このU2のテープ興味ある?」
「You Who?」
「U2よ。アイルランドのバンド。みんな知ってるわよ」
「ちょっとメインストリームをはずれてたんでね」
ボストンのフリーマーケットで女性に話しかけられた男は、長く服役していた北アイルランドの刑務所からの脱獄囚。
『ブローン・アウェイ/復讐の序曲』(1994)は、その男ライアンが、いま、ボストン警察の爆弾処理班で活躍するかつての仲間ジミーへの「復讐」を果たそうとする物語。
そして、ライアンが爆弾を製造するシーンには、U2最大のヒットアルバム「ヨシュア・トゥリー(The Joshua Tree)」の中の全米ナンバーワン・シングル2曲「I still haven’t found what I’m looking for」「With or Without you」が流れる。
ジミーがライアンの暴力性を「Too Violent for the IRA」と表し、巨大な爆発音まみれのアクションスリラー大作には、北アイルランドの人々をガッカリさせる「音」がある。
ライアン役のトミー・リー・ジョーンズの「訛り」である。
我々がよく知る欧米映画の日本人のおかしな日本語同様、多くの映画で「北アイルランド英語」の妙な発音が作品を台無しにしてきたが、なかでも「最悪」との声も聞こえてくるものなのだ。
『クライング・ゲーム』や『父の祈りを』とは違い、単なるサスペンスアクションのバックグラウンドでしかない「Irish Bomber」の設定は、和平プロセスが変化を見せつつある1994年7月の全米公開でありながら、残念ながら、北アイルランドの現実、歴史、文化などへのリスペクトが欠けていたと言わざるを得ない。
ところが、そんな作品の英国やアイルランドでの公開を目前に控えた8月30日、北アイルランド和平は大きな展開を見せることになる。
IRAが、「すべての軍事活動の全面的停止」を宣言したのである。
そして、9月6日、アイルランド共和国ダブリンで、レイノルズ首相と、ヒューム氏、アダムズ氏の歴史的会談が実現。
(ちなみに、「Voice Ban」も、9月16日、ようやく中止)
1995年2月には、メージャー英国首相とジョン・ブルートン・アイルランド共和国新首相が北アイルランド問題に着手、英国はシン・フェイン党の全党会議への参加条件を整える方向へと向かって行く。
そんななか、7月恒例のプロテスタント組織「Orange Order」の行進が、北アイルランド、ポータダウンの街で不穏を極める状況となる。
伝統的なルートでの行進が、多くのカトリックコミュニティを通り抜けることになることから、「The Troubles」の時期には対立が先鋭化、この年、座り込み抗議をするカトリックと、ルートを変えようとしないOrange Orderが対峙する様子は、プロテスタント系強硬派政党DUPのイアン・ペイズリー党首と最大政党UUPのデヴィッド・トリンブル氏が、手に手をとって歩く一幕もあり、世の注目を集めることになる。
その頃、UUPでは強硬派が台頭しており、指導力を問われたジェームズ・モリノー党首が辞任。
もつれにもつれた党首選で、大方の予想に反し、トリンブル氏が当選を果たす。
Anglo-Irish agreementにもダウニング宣言にも反対の姿勢を見せ、ポータダウンでの行動で注目を集めたトリンブル氏は、ユニオニストの立場を強める存在と目されていた。
1995年11月、英国、アイルランド共和国、両政府は共同声明を発表。
「武装解除のための国際委員会を設置」し、「実質的な和平協議を行うための全政党間交渉」を行うため、ジョージ・ミッチェル元米国上院議長を委員長に、武装解除のための国際的な独立機関「ミッチェル委員会」が設置された。
そして、11月30日、クリントン大統領が北アイルランドを訪問。
西ベルファストのカトリックコミュニティFalls Roadを訪れたクリントン大統領を、アダムズ氏が迎えるという演出に沸き、市庁舎前での演説に多くの市民が喝采を送った。
1996年1月、「ミッチェル原則」提示。平和的手段による政治問題の解決、協議と並行し武力放棄を進める、というものだったが、メージャー政権は、議会運営にユニオニストの協力が必須という状況が続いていた。
そのため、IRAが武装解除しない限り、シン・フェイン党を協議に入れない、という彼らの要求を無視することができず、さらに、「多数派」ユニオニストの望むような「選挙プロセス」という選択肢がもちだされたことが状況を暗転させてしまう。
そして、1996年2月、IRAは停戦破棄。主に本土の商業施設をターゲットに、暴力がぶりかえすことになる。
1996年8月、アイルランド独立のキーパーソンの半生を描く『マイケル・コリンズ』(1996)が、ヴェネツィア国際映画祭の最高賞、金獅子賞を受賞した。
北アイルランド出身のリーアム・ニーソンがマイケル・コリンズを演じ、スティーヴン・レイも出演、アイルランド共和国出身のニール・ジョーダンによる、イースター蜂起、独立戦争、内戦など、アイルランド「分割」への物語は、IRAの停戦破棄もあり、ラブストーリーに重心を置くエンディングに変えるよう、ワーナーブラザーズ社から圧力もあったという。
10月には米国、11月には英国、アイルランドで公開。史実とは違う描写があるとの批判もあった。
しかし、ジョーダン自身も語っているが、あくまでも劇映画の範疇で、世界に北アイルランド紛争の根源たるアイルランド史を知らしめようという強い意思が伝わってくる作品だった。
とはいえ、1997年3月、日本での一般公開の際は、いつものことながら、「遠い地の出来事」への無関心からか、その地の「いま」の議論に火がつくことはなかった。
1997年5月、英国の総選挙で、254議席の大差をつけ労働党が勝利。歴史的敗北を喫し、18年間続いた保守党長期政権は終わった。
労働党では、1994年、41歳のトニー・ブレア氏が党首となり、その改革が新風を吹き込んでいた。
そして、そのブレア労働党政権の発足が、北アイルランドの状況を一気に変えることになる。
ユニオニストの協力が不要の安定政権は、すぐさま問題に着手。ブルートン・アイルランド共和国首相と接触する意向を表明したのである。
選挙ではシン・フェイン党党首アダムズ氏と、ナンバー2、マーティン・マクギネス氏も当選していた。
ブルートン首相との首脳会談で全政党間交渉にIRA停戦が必要と確認したブレア首相は、16日、ベルファストでの演説で、リパブリカンへメッセージを送る。
The settlement train is leaving, I want you on that train.
この年のOrange orderの行進では暴動が起きており、対立が煽られていたが、7月19日、IRAは20日から停戦に入ることを表明する。
10月14日、ブレア・アダムズ会談が実現。英国首相とシン・フェイン党党首の会談は76年ぶりというものだったが、先立つ9月17日、ミッチェル氏を議長にシン・フェイン党も加え始まった協議をDUPなどがボイコットする事態ともなっていた。
10月20日、U2がリリースしたシングル「Please」のジャケットには、当時の主要4党リーダーの顔が並ぶ。
そして、「あなたのカトリックの憂鬱、聖戦、北の星、山上の垂訓、どうか、頼む、立ち上がってくれ、please」と切なく歌う曲は、ラブソングであり、ダイレクトな和平への願いでもある。
そんな切ない願いがついに現実となる。
1998年4月18日、8つの政党と英国政府、アイルランド共和国政府が、「ベルファスト(和平)合意 Belfast Agreement (Good Friday Agreement)」に達したのである。
初めて、リパブリカンを含む当事者が同じテーブルにつき、合意にまで至ったのだ。
ユニオニスト側では、妥協を強いられたにもかかわらず、最大政党UUPが、トリンブル党首のもと、路線を変更、「Peace Process」を主導する立場へと変わっていく一方で、DUPだけがAgreementに反対するメジャー政党となった。
「英国、アイルランド共和国は北アイルランド領有権を主張しない」
「住民の過半数の合意なしに、北アイルランドの現在の地位は変更しない」
「将来、北アイルランドの帰属は、北アイルランド住民の意思にゆだねる」
としたうえで、「帰属が確定するまでは」ナショナリスト系、ユニオニスト系それぞれの政治勢力による「Power-sharing(権力分有)」による自治とすることになった。
5月19日、ヒューム氏とトリンブル氏が、ベルファストでのU2のコンサートのステージに上がり、若者たちに、直接、ベルファスト合意への住民投票での「Yes」をアピールした。
結果は、北アイルランドで71%、アイルランド共和国で94%が「Yes」。
北アイルランドは、英国の直接統治を離れた。
そして、それぞれのコミュニティのトップが、「First Minister」と「Deputy First Minister」となり、同等の権力をもち、政治が行われることになった。
「今年はヨーロッパ中で演奏しましたよね。ベルファストでも、ここ、オマーでも。この夏のハイライトは何でした?」
「素晴らしい年よね、私の音楽にとって。だけど、ハイライトは、Good Friday Agreementよ。我々みんなにとってのことだもの」
開巻まもなく、静かな町の朝の日常をバックに、ラジオから、こんなインタビューが聞こえてくる映画『オマー』(2004/日本劇場未公開)。
しかし、それに先立つシークエンスは、爆弾の製造と設置。
1998年8月15日、北アイルランド、オマーの街で、爆弾が爆発し、29人(および双子の胎児)が死亡、「The Troubles」最悪の犠牲者数を出す惨事となってしまう。
犯行声明を出したのは「The Real IRA」。今回ここまで単に「IRA」と記してきた「IRA暫定派(PIRA)」の和平路線への不満分子の集まりだった。
映画は、犠牲者の家族の葛藤、そして、その1人が、情報を事前に得ながら防止に生かすことができず、多くの犠牲者を出す結果となった真相を追う姿を描いている。
9月3日、クリントン米大統領がオマーを訪問。テロの現実を見た。
U2は、2000年10月リリースの「Peace on earth」で、「悲しみはもうごめん、痛みも勘弁してくれ」と平和を哀願し、この悲劇の犠牲者の名前も歌う。
北アイルランド問題に限らず、様々な人権問題への発言、活動を続けるボノは、何度かノーベル平和賞の候補ともなっている。
そして、10月16日、この年のノーベル平和賞が、北アイルランド和平の功労者ふたりに贈られることが発表された(授賞式は12月)。
当初の公民権運動に始まり辛抱強く調整役を続けてきたSDLP党首ジョン・ヒューム氏と、歴史的ともいえる路線変更を果たしたUUP党首のデヴィッド・トリンブル氏である。
そして、2005年7月、ようやく、「IRA暫定派」は武装放棄を「自発的」に宣言する。
過去、2度、武装放棄しているが、その時と違い、今回は「自発的」であることから、「敗北」ではない、ということが意味をもつという。
2007年7月には、1969年以来北アイルランドで「Operation Banner」を展開していた英軍も撤退。
こうして、北アイルランドの地の「The Troubles」は、一つの区切りを迎えた。
しかし「対立」は依然として残り、1998年の自治議会選挙では、DUPが第3位の得票数、20議席を獲得し、Agreementに反対したにもかかわらず、10あるポストのうち2つの「minister」の地位を得ている。
結局、解決ではなく、ようやく、武力から政治へと、闘争の舞台が移されたと考えるのが妥当だろう。
カトリック差別という前提があったこの地で、対等な関係のもと、交渉する場がようやく準備されたということである。
そのため、自治政府停止、英国による直接統治の一時導入、といった事態も起き、さらに、より強硬なユニオニストとリパブリカンが住民の支持を多く受けるようになり、「Agreement」を得る政争の場の中心に今いるのは、ノーベル賞受賞者の2党ではなく、DUPとシン・フェイン党となっている。
暴力も完全に消えたわけではない。
「The Real IRA」は、オマーでのテロの3か月後休戦を発表したが、2000年1月、武装闘争再開声明を出し、9月にはMI6本部へロケット弾を発射している。
2012年、「The Real IRA」を含むいくつかのリパブリカンParamilitaryが合併、「The Irish Republican Army」を名乗るようになり、「The New IRA」とも呼ばれる彼らは、たびたびテロ事件を起こしている。
2019年に入っても、1月のデリーでの自動車爆弾、3月の手紙爆弾事件で、犯行声明を出している。
ブレグジットが現実となっても、「ベルファスト合意」は保全されるというが、「Hard Border」が復活し、チェックポイントに警官、英兵が立つようになれば、いま大した勢力とはいえない「The New IRA」も、よりサポートを得ることになるかもしれない。
経済のみならず、いつか「1つのアイルランド」が実現すると思える、自由な人、モノの行き来あればこその脆弱な和平の平衡への影響が懸念される。
(本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号)
(1408)インファナル・ミッション (1409)クライング・ゲーム (1410)ブローン・アウェイ (1411)マイケル・コリンズ (1412)オマー1408.インファナル・ミッション Fifty Dead Men Walking 2008年英国・カナダ映画(日本劇場未公開)
(監督)カリ・スコグランド
(出演)ジム・スタージェス、ベン・キングズレー
北アイルランド紛争下、IRAの情報を流すスパイとなった青年が非情な現実に直面する姿を『クラウド・アトラス』(2012)などのジム・スタージェスが演じる実話にインスパイアされたサスペンスアクション。
1409.クライング・ゲーム Crying Game 1992年アイルランド・英国映画
(監督)ニール・ジョーダン
(出演)スティーヴン・レイ、フォレスト・ウィテカー、ジェイ・デヴィッドソン
気のいいIRA志願兵が、メンバー釈放のための人質としてとらえられ死んだ英兵の恋人と心を通わせるさまを、アイルランド人監督ニール・ジョーダンの代表作。主題歌「Crying Game」を歌うボーイ・ジョージにもIrishの血が流れている。
1410.ブローン・アウェイ/復讐の序曲 Blown Away 1994年米国映画
(監督)スティーヴン・ホプキンス
(出演)ジェフ・ブリッジス、トミー・リー・ジョーンズ、フォレスト・ウィテカー
(音楽)アラン・シルヴェストリ
北アイルランドの刑務所を脱走した男が、いま、ボストン警察の爆弾処理班に所属するかつての仲間に復讐を仕かける『栄光のランナー/1936ベルリン』(2016)などのスティーヴン・ホプキンス監督によるアクション大作。
1411.マイケル・コリンズ Michael Collins 1996年英国・アイルランド・米国映画
(監督)ニール・ジョーダン
(出演)リーアム・ニーソン、エイダン・クイン、アラン・リックマン、ジュリア・ロバーツ、スティーヴン・レイ
アイルランド独立のキーパーソン、マイケル・コリンズを半生を、アイルランド人監督ニール・ジョーダンが描く歴史大作。
1412.オマー Omagh 2004年アイルランド・英国映画(日本劇場未公開)
(監督)ピート・トラヴィス
(出演)ジェラルド・マクソーリー、ブレンダ・フリッカー
ベルファスト合意後に起きた北アイルランド紛争最悪の爆弾事件による犠牲者の遺族が、原因究明に奔走する姿を、『バンテージ・ポイント』(2008)などのピート・トラヴィス監督が描く、クリティックの評価も高い一作。
『ブラディ・サンデー』(2002)でも北アイルランド紛争を描いた社会派ポール・グリーングラス監督が製作と脚本に参加している。
もともと英国のChannel 4とアイルランド共和国のRTEが共同制作したテレビ映画だったが、BAFTA TV Awardなど多くの賞を受賞、のちに劇場や多くの映画祭で上映されている。
[もっと知りたい!続けてお読みください →] 大ヒット『ボヘミアン・ラプソディ』とその時代背景
[関連記事]
コメント