大河ドラマ「いだてん」の第17話「いつも2人で」が放送されました。

これまでの「いだてん」振り返り記事はこちら。

ベルリンオリンピックの中止を知った四三はこの世の終わりのようにショックを受け、意気消沈したまま下宿に引きこもっていました。

そんな四三を励まし、新たな目標を与えたのが妻・スヤでした。「四三さんが50人いれば」というスヤの言葉に、四三はあることを思いつくのです。再起した四三は嘉納治五郎に「教員になる」と告げ、次代のマラソンランナーの育成に力を入れ始めました。

そして四三と嘉納が讀賣新聞社の土岐らと発案したのが、今に続く「駅伝」だったのです。

「駅伝」命名者は武田千代三郎、駅伝という言葉は「日本書紀」にもある!

最初は東京・大阪間を多数のランナーでつないで走ることを企画しましたが、明治維新で都が京都から東京へ移って50周年を記念し、東京・京都間で行うことに。さらに、「東海道五十三次」にヒントを得て、東海道をコースとすることになったのです。

この新たな長距離走について、京都から東京をつなぐ東海道には53の宿場町があることから、大日本体育協会副会長であり神宮皇學館館長であった武田千代三郎が「駅伝」としてはどうかと提案。

古くから「駅伝制」という言葉があります。中央集権国家において、中央と各地の連絡手段として人馬を配置しました。当初、「駅」は「驛」、「伝」は「傳」であり、このふたつの文字で宿場の車馬を意味したようです。情報伝達、交通制度の形態であったものが転じて「宿場」の意味になったので、五十三次から「駅伝」と命名した理由もよくわかります。

駅伝制は世界各地の古代帝国に見られる制度で、日本では中国に倣い律令国家をめざし始めたころから「駅伝制」(「伝馬制」とも)が取り入れられ、『日本書紀』や『延喜式』などに「駅伝」の語やそれを意味する言葉が記されています。

日本初の駅伝総距離は516キロメートル

東海道の端、京都・三条大橋から東京上野の不忍池まで、23区で516キロメートル(508キロとも)もありました。当然一日で終わる距離ではなく、ランナーは昼夜を徹して大正6年4月27日の午後2時から翌々日29日の午前11時34分まで、3日かけて行われました。最後のたすきを受け取ったのはもちろん金栗四三

スタート地点である京都三条大橋と東京上野の不忍池は「駅伝発祥の地」として記念碑建てられています。

ところで、この東海道駅伝徒歩競争は企画当初の予算をオーバーしたため、発案者であった土岐は責任をとって讀賣新聞社を退社することになり、その後朝日新聞社へ移ったといいます。あれだけの規模、やはりめちゃくちゃお金がかかったようです。

それでも、この大会が成功したおかげで3年後には箱根駅伝東京箱根間往復大学駅伝競走)がスタートし、現在まで人々に楽しまれるスポーツとなったのです。

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